(浪速の文化を大事に大事に考える浪速姫がもう黙ってはいない)
アフガニスタンのイスラム教徒のグループであるタリバンは、2001年、イスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてバーミヤンの大仏(磨崖仏 世界文化遺産)を破壊しました。
自分に理解できないものはその存在を否定する無残な精神。
橋下大阪市長が世界無形文化遺産である大阪の人形浄瑠璃「文楽」に対する補助金を打ち切ろうとしている問題について、浪速姫様にお願いして原稿を頂戴した「世界無形遺産の文楽を滅ぼそうとする橋下大阪市長を、浪速の姫が成敗!」の後半です。
ちなみに、橋下市長に公開の場で審問すると呼びつけられていた、文楽の太夫で人間国宝の竹本住大夫さん(87)が2012年7月12日朝、体調不良を訴え、大阪市内の病院に入院されました。脳梗塞の疑いがあるということです。
さぞかし、プレッシャーとストレスがかかっていたことでしょう。一刻も早いご快癒をお祈りしたいと思います。
そんなことも含めてお読みください。文楽の写真とキャプションは産経新聞「文楽に逢う」より。
バーミヤン渓谷の石仏と石窟(1976年)
(破壊後の石仏)
6月28日の橋下氏の言明の残り部分ですが、
中堅や若手の技芸員を中心に構造改革に向けた動きがあり、今後の変革を進めるために一定の補助は必要」とのあり方検討会の意見も踏まえ、24年度の補正予算に補助金を計上します。しかし、あくまでも意識改革、構造改革を進めていくという前提が実行されれば、という条件つきの予算です。
抜本的な改革を進め、文楽の「振興」に繋げるには、関係者によるオープンな協議の場が必要です。文楽の抱える課題に真摯に向き合い、仕組みを変えていってもらいたい、という期待を込めました。
まずは、技芸員と文楽協会の皆さんに、ぜひ議論のテーブルに着いていただきたいと思います。真の意味での「振興」を図るための、第一歩です。
さて、「『中堅や若手の技芸員を中心に構造改革に向けた動きがあり、今後の変革を進めるために一定の補助は必要』とのあり方検討委員会の意見も踏まえ、24年度の補正予算に補助金を計上します。しかし、あくまでも意識改革、構造改革を進めていくという前提が実行されれば、という条件つきの予算です。」とありますが、ここでも「観客」はネグレクトされています。
上記委員会に果たしてどれだけ文楽に通暁し劇場・舞台に日々の生活の一環として観客として接した委員がいたのか、最も大切な「観客」の意見・考え・要望を徴することなしに「構造改革」を唱えても観客の増員―それこそ「売り上げの増大」にはつながりません。
「抜本的な改革を進め、文楽の『振興』に繋げるには、関係者によるオープンな協議の場が必要です。文楽の抱える課題に真摯に向き合い、仕組みを変えていってもらいたい、という期待を込めました。まずは、技芸員と文楽協会の皆さんに、ぜひ議論のテーブルに着いていただきたいと思います。真の意味での『振興』を図るための、第一歩です。」については、
「関係者によるオープンな協議の場が必要」とあり、文楽側の「非公開」の要望を「非公開はあり得ない、公開の場でしか会わない。すべてをオープンにして僕の言い分がおかしいのか文楽側に問題があるのかチェックしてもらう」
と子どもの喧嘩のようなことを語っています。「文楽側に問題がある」が橋下氏の前提で、だから「補助金打ち切り」といったのでしょう?
どちらの言い分が正しいかを決める議論をしたいのですか。第1「僕の言い分」ではないでしょう。「市の方針」でしょう。はしなくも本心が露呈しましたね、「僕は文楽を潰したい、兵糧攻めで」という―。
「加賀見山旧錦絵」(長局の段) 局岩藤から受けた恥辱のため元気のない主人尾上の様子を心配する召使いのお初。
「加賀見山旧錦絵」(奥庭の段) 徹底した悪役として憎々しさを感じさせる局岩藤。その存在感がお初の清廉さを更に際立たせる(人形遣い、吉田玉也)
「加賀見山旧錦絵」(長局の段) 恥辱に耐えきれず自ら命を絶った尾上の亡骸を前に、宿敵の岩藤を討つ決意を固めたお初。
「加賀見山旧錦絵」(奥庭の段) 主人尾上の無念を晴らすため局岩藤を討ち果たすお初。強い情念を感じさせる激しい立ち回りは、息するのも忘れるほどの迫力だ(人形遣い、お初・桐竹勘十郎 岩藤・吉田玉也)
どうすれば良くなるかを互いに腹を割って話し合うために会談するのが本来ではないのですか。 それに「オープンな協議の場」はこの文脈では「虚心坦懐な協議の場」「率直な・腹を割っての協議の場」の意味になります。
「公開の」の意味なら「公開の場での関係者による協議」と表現されるべきでしょう。第一、改革のための協議、互いの存念を率直に述べ合う協議であれば、その必要条件は「公開」ということでしょうか。むしろ他者の耳目を気にせず、遠慮なく発言のできる場の方が適していることもあります。
大切なのは「話し合う」ことであり、そのきっかけを敢えて「公開」にこだわって外すのは市民の期待に背くものです。
「公開」に固執するのは、「よう参った。目通り許す。」という様子をテレビに映してもらいたいのでしょうか。それで「僕には文楽も屈服した」と誇示し、まあ来たんだから少しは恵んでやろうと、打ち切りに対する非難・批判を逃れようとするつもりなのか。
もし公開をあくまで主張するなら、市長と文楽関係者だけ最大の関係者である「観客」をも当事者とした、公開討論とすべきです。一般の「観客」を急に呼ぶのが無理なら、少なくとも「観客」として文楽を愛好する識者・有名人を呼べばいいのです。赤川次郎さんや文楽人形を重要な要素とした映画「dolls」の監督北野武さんといったー。市長の広い人脈を用いれば難しくありますまい。
総じて氏の言明は「子夏曰く、小人の過つや、必ず文(かざ)る。」。」〔= (孔子の弟子の)子夏は言った。「小人は、過ったことに気が付いたならば、必ず言い訳をして責任を逃れようとする。〕そのものであり、シェークスピアの「マクベス」の台詞にある“a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. It is a tale
Told by an idiot, full of sound and fury,
Signifying nothing.”
(=「哀れな役者だ、ほんの自分の出番の時だけ出てきて、そしてとどのつまりは消えてなくなる。白痴のおしゃべりさながら、わいわいがやがやただもうやかましいばかり、何の取りとめもありはせぬ」)
1.人形浄瑠璃文楽の事業分析
1−1.文楽の現状
1−2.文楽の課題
2.今後の支援についての考え方
2−1.支援のあり方
2−2.今後の進め方
内容は、要するに「観客が減っていて儲かっていない」「それは『構造』が悪いからだ」この2文で済むことを、数字を交え、ここが悪い、あそこがよくないと羅列して延々と述べています。そこにあるのは橋下氏のお好きな「マネジメント」論で、どれほど勿体をつけようと「儲かるか儲からないか」の観点のみです。
たしかに時代の変化する中で、現行体制がいつまでもそのままでよいとはだれも思いません。
しかし、その改善のためには状況の正確かつ丁寧な調査分析とそれに基づく具体的な方策の提示と明確な展望です。上記の文書には ここをこうすればこうよくなるという明確な提示と展望は一切示されていません。
橋下氏の意を受けての「補助金の見直し―削減・停止」を根拠づけようとする作文でしかない。
(【初心者のため文楽公演】 文楽を初めて見る人や子供たちのために、わかりやすい解説をつけたり、人形遣いの体験をしてもらいながら舞台を鑑賞する初心者のための公演が大阪市や国立文楽劇場主催で企画されている。
今回の「小・中学生のための芸術体験授業」(大阪市主催)は文楽の技芸員が自ら学校に赴き、三業(太夫、三味線、人形遣い)の解説つきで文楽を上 演。今年は小学校4校、中学校1校だった。ほかにも、毎年6月に大阪・国立文楽劇場で「文楽鑑賞教室」を開催、解説つきの鑑賞で子供から大人まで楽しめ る。同劇場の夏休み公演では第1部を「親子劇場」と銘打って子供でも楽しめる演目を上演。文楽ファンの裾野を広げる試みを意欲的に行っている)
1-2の(5) 大阪府市の補助金についての新たな方針に関わる課題
大阪府・大阪市は新たな文化・芸術に関する支援の方針のもと、同一組織に対する漫然とした運営補助は行わないことを基本とすることになっている。これに対し、現状の大阪市から文楽協会への補助金は、協会の法人維持のための運営補助そのものであり、このままでの継続は考えられない。
支援の価値の判断を保留して形式論のみで考えると、大阪市から文楽協会への補助として、次の2つは検討可能であると考えられる。
■ 若手技芸員の育成への補助
■ 大阪市の都市魅力向上に資する公演への補助
の項では、「新たな文化・芸術に関する支援の方針」が不明確です。
2つ目■がそうかもしれませんが「大阪市の都市魅力向上に資する」の意味内容がまったくもって漠然としており、さらにだれがそれを判断するのか、首長の嗜好に拠るのでしょうか。ここでも「人形浄瑠璃―文楽」の私物化が見られます。「文楽」は大阪市にのみ資するものでも、大阪市が好きにしてよいもの、大阪市の「儲け」の具に過ぎぬものでもなく、世界に資するものです。
上記でも橋下氏の言明でもそのことへの言及はかけらもありません。
1つ目の■の「若手技芸員の育成」は必要なことですが、「構造」問題と位相を異にし、まるで木に竹を接いだ感を否めませんし、それが「行政目的に見合ったものであるかどうかを検討したい」とあり、「行政目的」とは何か曖昧模糊としている。要するに儲けてくれるかくれないかでしょうか。
大阪は確かに商都としての歴史を持ちます。その商都を支えたのは庶人の活気であり、江戸と異なり町人―商人層に拠る自主的な学問所の創設にも見られる文化形成の意気です。現代企業のような利潤追求一本槍では決してなかったということを、『薬の町 学問の町』道修町に近い中之島の市庁舎の市長が知らないとは言わせません。
そして、上記文書の
2−1.支援のあり方 には
(1) 大阪市
■ 現状の運営補助の停止
文楽協会の法人維持のための補助金は、今後の大阪市の文化・芸術助成の考え方に照らすと継続はできない。
とあります。「今後の大阪市の文化・芸術助成の考え方」がこれまた示されていない以上運営補助の停止の根拠として認められません。「世界無形遺産」の保護は「大阪市の(というより橋下氏御一党の)文化・芸術助成の考え方」に左右されてよいものでしょうか。断じて否です!
ここで、次の言葉を挙げさせていただ<var></var>ます。
「劇場は人を生きさせて帰すところだ。」
ピーター・ブルックでしたか、イギリスの高名な演出家・プロデュ―サーの言葉です。
芸術・芸能は飢えを直接満たしはしない。しかし、それらは古来生きようとする活力を意欲を人々の心に喚起するものなのです。
過去幾多の試練に耐え、時代の淘汰を切り抜けてきた「伝統芸能」は人を生きさせて帰すゆえに「伝統」たり得たのです。
(拳にできた厚いタコは、手のひらについた絵の具を画面に付着させないようにするため、手の甲をついて描くことでできたという。岡本さんの長年にわたる確かな仕事の証しでもある)
(幾重にも重ねられ収納されている文楽人形の着物。上演の内容が決まると必要な柄のものを選んで取り出す。古いもので傷んで今は使っていないものでも、新調する際の参考にするため大切に保管されている)
そして劇場は多く庶人の集う盛り場におかれました。かつての「道頓堀五座」(関西大学大阪都市遺産研究センターのコンピュータグラフィックスによって復元した大阪都市景観の映像に道頓堀五座の風景が入っています)のように。
昨年の12月14日、民放のニュースショーで、大阪市長に当選したばかりの橋下徹氏は大阪フィルハーモニー交響楽団および文楽協会への補助金問題についての質問を受け、国の文化行政に話を持ち込み、文楽に関しては、国立文楽劇場の立地に言及し、尊重されるべき文化ならどうして風俗関係店舗の多い日本橋(にっぽんばし)に置いたのか、一等地に置くべきではないかという内容の発言をしています。
しかし、近世の江戸・大坂という都市で、劇場―芝居小屋は色町とならび、支配者には「悪所」とされた庶人の歓楽の場であり、そこでの共感・共歓を求め、人々は集(つど)いました。大阪でいえばその「悪所」は、現在、キタ・ミナミという「盛り場」となっており、日本橋はそのミナミの一角である。
文楽―人形浄瑠璃は確かに日本が世界に誇る芸能であるが、それが生まれ発展し衆人(しゅうじん)愛敬(あいぎょう)のものとなったのはそうした庶民が集い楽しむ「盛り場」においてである。町の賑いは今も芝居帰りの心の熱さ、ときめきを保ってくれる。芝居小屋は都市の庶民の「盛り場」にあるべきなのです。氏はそれさえ知らない。文化とは「高尚な、上流階級のもの」という文化コンプレックスからなのでしょうか。
(「後ろ振り」という女の人形独特の〝型(演技)〟である。人間ならまずしないような形だ。ところが人形がすると、痛切な悲嘆や夫を思う心情がその姿に凝縮されているように感じられるのである。「後ろ振りもそうですが、お園には、歴代の人形遣いが、練りに練った振りが各所についています。悲しみが最高潮に達したところで、あのように美しい姿を見せるわけですから、まさに文楽は愁いの世界だと思います」と簑助はいう)
都市と劇場は一体であり、それで一つの「人を生きさせる」真の文化を形成し、「都市の個性」として、それゆえに世界に通用するものとなったのです。
その文化の破壊を許せば、他のさまざまなことの破壊を許すことになるでしょう。「千丈の堤も蟻の一穴から崩れ」ます。
文楽のファンだから文楽を守りたいというのではありません。文楽を一つの象徴とする「民都」大阪を、更には全国の自治体を橋下一派のような輩の蛮行から守り、世界に対する責任を果たしたいと考えているのです。
文楽を守る浪速姫、こと、「祇園祭礼信仰記」の雪姫は、お姫様役の大役。「本朝廿四孝」の八重垣姫、「鎌倉三代記」の時姫と並んで、「三姫」と呼ばれるほどのヒロインだ。
浪速姫様、ありがとうございました!
姫の文章を構成し、写真とキャプションをつけるだけで
文楽への興味と敬意が沸いてきました。
皆様、浪速姫様の奮闘に拍手を。
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この半年ほど、文楽協会と橋下徹大阪市長の間のやりとりをなんとなく観察していたのだが、事態は、どうやら、最終局面に到達しつつある。
違法ダウンロード刑罰化法案について、私が当欄に原稿を書いたのは、手遅れになってしまった後のことだった。この点について、私は、ちょっと後悔している。もう少し早い段階で、何かできることがあったのではなかろうか、と、そう思うと残念でならない。
なので、文楽については、状況が流動的なうちに、思うところを文章にしておきたい。
役に立つかどうかは分からないが、コラムの連載枠を与えられている人間は、せめて、人々に考える機会を提供するべく、できる限りの努力を払わねばならないはずだからだ。
橋下市長は、補助金をカットする決意をすでに固めているように見える。
報道によれば、文楽協会とその技芸員が、市長への非公開の面会を求める方針を固めたことについて、橋下市長は、以下のように反応している。
《これを受け、橋下市長は「公開か非公開かは市民を代表する僕が決める。文楽の特権意識の表れだ。私学助成費のカットのときは高校生だって堂々と公開の場で意見を言っていた。非公開なら補助金は出せない」と述べ、技芸員が公開での面会に応じなければ、補助金を全額カットすることを強調した。》7月10日 産経新聞(リンクはこちら)
記事を見る限り、技芸員は、公開の場で自分たちの主張を市長に向けて訴えることを求められている。つまり、公衆の面前で、ディベートの達人である橋下市長を論破できないと、補助金の存続は難しいわけだ。
きびしいハードルだと思う。
自分自身の話をすれば、私は、言葉を扱う仕事をしている人間だ。その意味からすれば、技芸員の皆さんよりは多少口が達者なはずだ。が、カメラの前で、橋下市長を論破し去る自信があるかと問われれば、そんな自信は、ひとっかけらも無い。
相手は、長らく「論破」ということを職業にしてきた人間だ。のみならず、テレビカメラの前に立つことを半ば習慣化した日常を送っている。とすれば、「公開の場で」という条件は、一見、オープンかつ公正であるように見えるが、実際には、まったく非対称な要求なのである。
「ほら、檻の扉を開けてやるから、ライオンと交渉して肉を分けてもらえよ」
と言われたとして、一介の飼い猫に何ができるというのだろう。
協会は、「話を聞いてくれ」と言っている。市長は「リングに上がれ」と答えている。これは、対話ではない。デキの悪い脚本だ。世話物でも心中物でもない。こういう一方が一方をなぶるだけの筋立ては、とてもではないが、他人様(ひとさま)にお見せする芝居には仕上がらない。
最初に立場をはっきりさせておく。
私自身は文楽の良い観客ではない。というよりも、正直に申し上げるなら、私は、これまでの人生の中で、文楽というものを一度も観たことがない。だから、好き嫌いを言う以前に、まったくの無知蒙昧だ。そういう境地に立っている。
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《2012.7.11 21:16
午前11時50分 登庁。補助金の支給をめぐり非公開の面会を求める文楽協会に対し、「僕にやり込められるのが嫌とか何を言っているのか。私学助成のときは高校生ですら公開の場で涙を流しながら存続を訴えてきた。どんな理由で文楽だけが問題点を追及されずに無条件に金を使えると言うのか」と話す。
午後0時10分 答弁調整会議。
1時 本会議。
午後8時 退庁。》
小田嶋隆さんの御意見のまさしく例証が上記の日記です。
つまり橋下氏にとって「話し合い」とは「相手をやり込める場」でしかなく、話し合う中で新しい展望・改善案を生みだしてゆく場という考えは皆無です。
弁護士出身だからというよりは弁護士ドラマの見過ぎといえるのでは? しかし法廷でさえ弁護人の目的は「相手をやり込めて自分の意に従わせる」ことではなく、被告・被告人の法的立場・人権を守り、事実の検証によって正当な判決を得ることのはずです。
「高校生ですら公開の場で涙を流しながら存続を訴えてきた。」
泣かせたのはだれですか?
つまり、橋下氏にとって、「話し合い」は市長に涙ながらの嘆願をすることであり、そこまで頼むんなら聞いてやろうという己の「寛大さ」「物分かりのよさ」を、あるいは「僕のいうことが聞けないのなら、そちらの言い分も聞けない」と断固言い放つ「カッコよさ」を喧伝するばであり、その喧伝のためにはテレビカメラ、映像の編集が必須なわけです。
そこまで「公開」を要求するなら、多くの市民の面前での、あるいは市民を交えた公開討論会にすべきです。何より大切なのは、文楽の観客、文化を大切に思う市民(大阪市の住民だけではなく「公民」という意味でのcitizen)
の前で、または市民をまじえ話しあう場を設けるべきです。
不特定多数の「市民」の前で語るのは怖いですか、橋下さん?
「どんな理由で文楽だけが問題点を追及されずに無条件に金を使えると言うのか」
また論点をずらせてますね。
「問題点」について話し合うのを誰も拒んでいない。それに「文楽」って? 桂文楽さんのこと? 「文楽協会・文楽関係者」というのなら分かるけれど。
「補助金」は文楽関係者が私的利益のために使うものではありません、世界に認められ多くの人間が享受する文化の保護・振興の施策が「お金」の形をとったものです。
受け取ってほしいと嘆願べきは、行政のほうなのです。
わたしは文楽と歌舞伎はまったくよさがわからないです。シリアスな場面ほど滑稽に見え、くどいというか下品に過ぎるというか(大衆芸能なので仕方ないつうか、えげつないのが持ち味なんですよねえ)、つまり生理的にまったく合わず、鑑賞するのは根本的に無理です。
だからといって=なくしてもいい、つうのは完璧に理解不能です……わけがわからないよ。
わたしの愛好する能や前衛系の現代音楽のほうがたぶん愛好者少ないです。「わからない」から潰されるんでは、文化のたぶん残すべきものから順々に潰されて、最後に残るのがAKBとかすまっぷとか演歌とかそんな……。
……わけがわからない。
自身の好むものを絶対視しそれを分からないものは馬鹿だということを、本当の愛好者は言わないものです。自身の享受する芸能を尊重する気持ちは他の芸能を享受し愛する人も同じだということを知っているからです。
芸能・芸術の享受はわかる・わからないの問題ではありませんよね。
だいたい自身の感覚に訴えないものについてわざわざ「よさ」をわかろうなんて普通はなかなかしないものです。
能楽については当方も各地の能舞台によく拝しにまいりますが愛好者は決して少なくないと存じますよ。少女漫画雑誌の「メロディ」に能の世界を扱った「花よりも花の如く」(成田美名子さん作)が連載されていますし、その漫画の単行本は岡崎の観世会館の売店にもおいてあります。
「能」とは、それまでの、祭祀に起源をもつ諸芸能と民衆の間で醸成された諸芸能のいくつもの流れが、「町衆」という都市住民の成立期に「能」という一つの形態に収斂した芸能であり、さらに近世に至って、人身をもって人物を演じるというあり方が歌舞伎という形に、面(おもて)という、個を超越した人間存在を表す方向が人形浄瑠璃という形に世俗化されて展開していった―すなわち「能」はそれまでの芸能を集大成し以後の新たな芸能の展開を生んだものと考えられます。歌舞伎、文楽の演目でそれを窺わせるものは少なくありません。
「勧進帳」は謡曲「安宅」からですし、「摂州合邦辻」は「弱法師」、「奥州安達原」は「善知鳥」を、「妹背山婦女庭訓」は「采女」、「義経千本桜」は「船弁慶」をそれぞれ受けているなど枚挙に暇ありません。
日本の芸能の特徴は、古来諸芸能が併存して各時代にそれぞれ芸能として享受されてきたところにあります。現代の芸能と古代からのそれがともに現在の楽しみとして享受されている。
キッスのヘビ・メタロックは、原始~古代の宗教祭祀の原初形態ー化粧による神性の獲得と音楽のもたらす恍惚・陶酔―をそのまま継承しています。
原始~古代の厳しい自然外圧のもとで、人間が生存してゆくために必要なものであったからこそ共同体の祭祀は生まれたのです。
AKB48は天鈿女命や唐の胡旋女、「乙女らに男立添い踏みならす 西ノ京は万世の宮」といった古代の歌垣、五節の舞姫、白拍子、出雲の阿国のかぶき踊りの直系ですね。
すなわち芸能によって得られる陶酔や恍惚感、さらにカタルシスは「人が生きるために」必要なものなのです。
もとに戻りますが、どのジャンルでそれを得られるかは人によってさまざまだということは周知のことです。
だからこそ自己の愛好するジャンル以外も尊重できるのです。すくなくとも貶めたりはしない。
「『わからない』から潰されるんでは、文化のたぶん残すべきものから順々に潰されて」の危惧はもっともと存じます。しかもそれが恣意的に行われるとすれば……。
世界からその継承を託された文化を行政が放棄するとしたら……。
(私事ながら当方すまっぷの大ファンです。)
文楽協会が橋下氏の求める技芸員との公開面談を断ったからということが理由と報じられていましたが、もともと補助金凍結の理由は、文楽が大阪に利益をもたらすものではなく文楽協会のあり方に問題点があるということであったのに、それが技芸員との公開面談が断られたからということに矮小化されてしまっています。面談・協議に関し「公開の場で」「技芸員との」ということがはたして補助金凍結の根拠となるほどの重要条件なのでしょうか。問題は「文楽協会の運営の在り方」であり、その運営は、まずもって理事長以下役員が担っているものです。なぜまずそれらの役員を呼びださないのか。関西財界の重鎮である近鉄グループの総帥にはものが言えないのか。組織の運営を議論するのになぜいわば現場の技術者を主たる相手とするのか、それこそ「民間の企業」では考えられないことです。
まず「補助金凍結」の結論ありきなのです。大阪の文化振興のために、世界の文化遺産を守るために、面談・協議を何としても行おうという、最も大切な方向は寸毫も見られません。
さらに、議会が認めた補助金の支出が、その団体に不正流用などの不祥事があったならともかく市長の一存で左右されるとすれば、他のどの分野においても予算が執行されるかどうかは市長のご機嫌次第ということになります。
教員の給与・ボーナスが校長の「査定」次第になるのと同様に。
このことを1例として大阪の教育も伝統も文化も蹂躙されようとしています。都市において何より重要なのは市民に共有される「市民意識」であり、それは教育・伝統・文化を通じて醸成されるものです。それのない「都市」は「都市」の名に値せぬ、単に複数の人間が存在している場に過ぎず、活気も発展の意欲も生まれるべくもない不毛地帯です。そうしたところで経済の活性化など望み得ません。
そうしたことも分からぬ者にいつまでも大阪をいじらせてはおきますまい。