こっちとあっち。どちらを取れば、より良い未来を手に入れられるのだろう???
私たちは本当に迷った時、人に助言を求めたり、コインを投げてみたり、
占いにたよりたくなるものなのかもしれません。
そんな思いは、今も昔も、西も東も変わらなかったようで・・・
例えば、紀元前2000年前に生まれたという西洋占星術。
遠く離れた日本とは縁がないように思うけれど、
たどりたどれば、西洋占星術はインド生まれの東洋占星術に影響を与え、それが仏教に取りこまれ、中国へ。
平安時代、空海などの留学僧によって、密教のひとつ「宿曜道」(すくようどう)として日本に持ち込まれました。
占星術、道教、陰陽五行思想など、さまざまな要素を内包した宿曜道。
担い手の公家の没落によって、南北朝のころには存在感を失いつつも、宿曜占星術として生き残って。
戦国時代、採用する大名もいれば、「胡散臭い」と禁じる大名もいたようです。
いずれにしても、戦ひとつで家の存亡がかかってしまう戦国の武将たちにとって、
易や占いはおろそかにはできない判断材料。
「甲陽軍鑑」によれば、戦の勝敗は総合的な戦略で決まるものと考えていた信玄公も、
軍配者を何人か召し抱え、吉凶などを占わせ、それぞれを比較検討していたとか。
さらに信玄公ご自身も、細い竹の棒を50本使う筮竹(ぜいちく)で易占いをしたといいます。
武田家お抱えの軍配者の一人が、言わずと知れた山本菅助。
(※1)「甲陽軍鑑」では山本「勘助」と記述されていますが、
こちらでは、その実在が立証されている山本「菅助」を使用しています。
山本菅助といえば、信玄公の「軍師」です。
でも、意外にもこのイメージを作り上げた「甲陽軍鑑」は、菅助を「軍師」とは呼んでおらず、
「軍配鍛錬の人」だとか、「足軽大将衆の中でも名人のひとり」などと表現しました。
「軍配」とは、相撲の立ち会いや勝負を決するときに、行司が使うイメージですが、
団扇は悪鬼を払ったり、霊威を呼び寄せるものと考えられてきたからでしょうか。
当時は、戦で指揮を取るとき、また何かを占う時の道具でもあり、
易や占いに通じ、日取りや方角の吉凶を占い、総大将に進言する者も「軍配者」と呼びました。
ちなみに、「軍配」は、軍学や兵法の一分野。
隊列の組み方、兵器の配列、軍役の数に関することは「軍法」、
出陣、凱旋、首実検など作法に関することは「軍礼」、
武器の製法などに関することは「軍器」、戦略、謀計などは「軍略」そして、「軍配」。
信玄公の下には、妖術や幻術を使う軍配者もいたようですが、
菅助流の軍配術は、それとは違うタグイ。
それがどんなものだったのか、「甲陽軍鑑」の記述をたよりに見てみたいと思います。
ただいま特別展示室にて展示中の「甲陽軍鑑」(江戸時代、個人蔵)
次回もどうぞ、お付き合いください🙇