信玄公没後450年カウントダウン甲府歴史講座~甲府を学ぶ~1回目

2022-12-02 10:26:23 | イベント
11月30日(水)甲府歴史講座の第1回を開催しました。



「甲斐の古道から甲府を解く」をテーマに
山梨学院大学客員教授 保坂康夫さんが講演しました。


講座では、甲府まで繋がる各古道の役割やルート
古道の場所が現在のどのあたりかを照らし合わせた地図など
スライドを見ながら、説明を伺いました。

人や物が行き交う道は、物資輸送だけでなく
ヤマトタケルの東征伝説から始まり
軍事行動や信仰など様々な歴史がありますね。


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信玄公没後450年カウントダウン「甲府三ヶ寺特別公開」 仁勝寺

2022-12-02 10:26:23 | イベント
11月25日(金)・26日(土)の2日間
仁勝寺の特別公開を開催しました。


昭和20年の甲府空襲によってお堂は焼失しましたが、
住民の協力に支えられ、他寺から移築、再建されました。
甲府城下から中道往還を使って右左口(うばぐち)に向かうと、
この寺で富士の高峰が見えなくなります。
(右左口から城下に向かうと、この寺で峰が現れます。)


木造聖徳太子立像(もくぞうしょうとくたいしりゅうぞう)重要文化財
檜の寄木造、像高114.5センチの立像です。
頭部は、髪を左右に振り分けて美豆良(みずら)
を結い、玉眼がはめ込まれ、袍(ほう)の上に七条
の袈裟をまとっています。右肩を横波が覆います。
像の表面には当初の彩色がわずかに残り、截金    
(きりかね)で内に鳳凰を描く丸文(鳳凰文)を散
らし、往時の高い技術と美しさを伝えています。
鎌倉時代後期の作と考えられています。


寺伝によると、仁勝寺の太子立像は、武田家代々が守り伝え、
躑躅が崎館(史跡武田氏館跡・現在の武田神社)内にまつられていました。
天正10年(1582)、織田・徳川軍の侵攻により戦線維持が難しくなった勝頼が、
韮崎の新府城から小山田氏(武田家親族衆)の岩殿城に退避しようとした際、
本像を家臣の中沢氏に託します。
中沢氏ゆかりの仁勝寺に納められてからは、
本尊として、400年以上大切に守り伝えられています。


今年の「甲府三ヶ寺特別公開」無事に
すべての日程を終えることができました。
多くの方がお越しくださいました。
ありがとうございました!


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信玄公没後450年カウントダウン 「甲府三ヶ寺特別公開」 天尊躰寺

2022-12-02 10:26:23 | イベント
11月18日(金)・19日(土)の2日間
天尊躰寺の特別公開を開催しました。

「尊躰寺(そんたいじ)ですか?
 天尊躰寺(てんそんたいじ)ですか?」と
多くの見学者さんから質問をいただきました。

お寺の歴史をお伝えします。

大永元年(1521)に武田信虎が
忠蓮社弁誉上人を迎えて尊躰寺を開きました。

天文2年(1533)、後奈良天皇から
「功徳山 天尊躰寺」の勅額を賜ったことから
天尊躰寺」と号しています。


竹松君(たけまつぎみ)の供養塔
武田竹松は、武田信虎の長男、信玄の4歳上の異母兄です。
7歳で死去。
若くして亡くならなければ嫡男となり、
武田家を継いでいたかもしれません。
竹松の戒名(尊躰童子)は、寺名の由来です。




絹本紺地金泥阿弥陀三尊像
(けんぽんこんじきんでいあみださんそんぞう)
甲府市指定文化財
信虎が難病の際にこの尊像の霊験によって全快したと伝えます。
また、徳川家康はこの本尊を帰依していたことから、
入甲した際、数回にわたり当寺に宿営したともいわれています。


古地図と照らし合わせながら、職員が説明。
尊躰寺は、古府中の元柳町(現・武田三丁目)にありました。
文禄年間(1594年頃)、甲府城築城に伴い、現在の地に移転しました。

幅広い年齢層の方々がお越しくださいました。
歴史や文化財を次世代へ繋げていくために
こうした機会をいただけましたことを本当に感謝します。
ありがとうございました。
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