長々とドラマの進捗に合わせて信玄公が亡くなる直前の軍事作戦と合わせて
ご紹介してきましたが、改めまして、今年は亡くなられてから450年の節目を迎えました。
徳川家康が主人公とはいえ、大河ドラマで信玄公も久々に大きく取り上げられ、
かつ信玄公の軍略の真髄を見せた三方ヶ原の戦いも描かれ、最期に見せ場がありました。
そして、信玄公の死は、秘密のはずが隠し切ることはできず、各方面に大きな影響を与えていきました。
とはいえ、死を隠すよう遺言されたこともあってか、実は、亡くなった場所もいくつかあります。
有力な場所は、下伊那郡の駒場なのですが、三河からの撤退路上に数カ所伝承地や
その死地を示すものも残っていたりしまして、断定はできないのであります。
さらに、信玄公の墓所も複数あります。
供養塔の意味合いもありますので、どこも本物といえば本物でして、説明する側からすれば
非常に困ったものなのです。
一番有名で多くの方に納得いただけるは、菩提寺である甲州市の恵林寺の墓所です。
そのほか、甲府市内にも2箇所あり、その一つが火葬塚と呼ばれる場所です。
武田氏館跡に近い岩窪にありまして、墓石は後世のものですが、しっかりと管理され、
きれいに整備されています。
死を3年隠すために仮安置された重臣土屋氏の屋敷の推定地とされ、
そこで火葬されたと言われています。
長らく地元の人も寄り付かない場所になっていたところ、江戸時代に時の代官が
発掘調査したところ、信玄公の名を記す墓誌と火葬された骨が見つかったとか。
かなり略した概要ですが、それから墓所として整備されていき、火葬塚と呼ばれています。
さらには亡くなられた地である長野県や最期の軍事作戦を行った愛知県、
そして京都市内や遠いところでは和歌山県の高野山にもあります。
高野山の供養塔は、信玄公だけではなく勝頼公の供養塔もあり、親子二代の墓所となっています。
高野山には空海が眠る奥の院につながる参道沿いに全国各地の名の知れた大名墓
が数多くあり、その中の一画にありまして、現在県指定文化財にもなっています。
信玄公の頃に甲斐国の人々の宿所として定めた成慶院を現在管理しておられる
櫻池院様が墓所の管理もされていますので、きれいに整備されています。
苔むしていますが、五輪塔の台座部分に刻まれた戒名が少し読めますので、
行かれた際は、近くでご覧になってみてください。
信玄公が亡くなった場所や墓所の解説は、開催中の企画展でパネル展示していますので、
ぜひ、ご覧になってください。
また、今月も週末に躑躅ヶ崎歴史案内隊の皆様による館跡のガイドが企画されています。
企画展展示物の中には、館内を描いた絵図も展示中ですので、古絵図で見て、
現地を歩いて比べて体感すると、よりリアルな信玄公の住まいが感じられると思います。
ぜひ、現地でお声がけください。