当館、常設展示室企画「武田二十四将 ドラフト会議」
「前線部隊」のトップを走る山本菅助!
前回の総選挙でも、総合第2位という素晴らしい結果を残しています。
その勝因には、おそらく菅助の長年培ってきた知名度があって、
高い知名度を維持できたのは、「甲陽軍鑑」の描く菅助が、
作家のインスピレーションを大いに刺激する御仁だったから!?
どんな方だったかといえば、、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/2d/bdfc8ae183091ca1b5e3f55a733d8483.jpg)
「武田二十四将図」個人蔵(一部)
異形の人であり、
長きにわたる下積みの末、お館さまの下で花開くも、
最期は激戦に身を投じ、討ち死にという、
もっともっとお館さまと高みを目指したかったに違いない、志半ばの死。
そんな「甲陽軍鑑」の菅助はさらに進化し、
「武田信玄の軍師」として、大衆文学の中で羽ばたいていきます。
でも、「甲陽軍鑑」では、菅助を「軍師」と表現していないんです。
軍師というよりも、優れた足軽大将であると同時に、城の設計に通じ、
戦陣において吉凶も占う「軍配者」として描かれています。
それがどうして、「軍師」と呼ばれるようになったのでしょうか。
戦国という、いわゆる内乱時代が終わり、平和な世の中が訪れたとき、
徳川幕府の下では、さまざまな軍学が盛んに研究されます。
そういう流れの中で、菅助も伝説的な武将として甲州流軍学の祖と認められ、
戦国大名のブレーン、策士として活躍した(!)と考えられるようになります。
その役職名として、江戸時代に後付けされたのが「軍師」。
こうして生まれた、菅助や黒田官兵衛などの「軍師」たちは、
名参謀として軍記物といった文学作品に登場し、人気を博していきます。
似たネーミングで、ちょっと???となってしまいそうですが・・・
「甲陽軍鑑」によれば、菅助は「軍師」ならぬ、「軍配者」。
「軍配」は団扇の形で、邪気を払い、霊威を呼び寄せる力があると考えられたもの。
「軍配者」は、天文を読み、出陣や築城開始など大切な日どりや方角の吉凶を占ったり、
さらには軍陣の配置も行いました。
こうした兵法は、天地、陰陽など自然の摂理は神仏がつかさどるという考えを前提に、
その法則を体得した者こそがつかめる必勝法、軍配術で、まさに秘伝とされました。
甲州流の場合、軍配術の奥義と伝承されたのは「大星伝」という、
太陽(大星)と星の運行から勝機をつかむという兵法で、
菅助は、そんな、いにしえの秘伝を復興したと言いますが・・・。
・・・
「甲陽軍鑑」によれば、
菅助の軍略が家中で認められるきっかけとなったのが、1550年の砥石城攻防戦。
現在の長野県上田市の砥石城を攻めた武田勢は大苦戦の末、
駆け付けた村上義清の攻撃に総崩れとなり、全軍崩壊の危機に。
その時、菅助はお館さまに、ある策を提案、自ら50騎を率いて、縦横無尽に反撃します。
その陽動作戦の陰で、武田勢は何とか帰還・・・。
世に言う武田の「砥石崩れ」です。
「甲陽軍鑑」の言葉を借りれば、「摩利支天」のごとく戦った菅助は、
この功が認められ、知行800貫の足軽大将に✨
「摩利支天」とは陽炎を神格化した仏教の守護神。
護身や蓄財の神として中世以降、日本でも広く信仰されますが、
武将たちもまた、兜に摩利支天像を込めたり、旗印に摩利支天をかかげ、
その加護を願ったようです。
菅助も信仰していたといわれ、村上勢の激しい追撃を戦略的に陽動する姿は、
陽炎の摩利支天が菅助に降りてきた(!)かのように、
必死に退く武田勢の目に映ったのかもしれません・・・。
軍配者としてのミステリアスな面に、ちょっと神がかったエピソードも、
菅助を唯一無二のキャラクターに押し上げたに違いなく。
単なるブレーンじゃない、武田信玄の軍師・山本菅助が誕生します・・・!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/b8/58239b4fb64e41ca6a76d55bb0796b32.jpg)
どこかの山から種が飛んできて・・
旧堀田古城園の庭の奥で、ひっそりと咲きました。
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