武田氏館跡で新緑散歩🍃

2020-04-19 16:29:07 | 紹介
連日のあいにくのお天気もあり☔
武田通りの桜もすっかり
散ってしまいました。
今、枝の根元から枝先に向かって
存在感を増しているのは
新緑🍃です。
薄い薄い桜色から
まぶしいほどの新緑へ。
通りを歩けば
心浮き立つ季節です。





信玄ミュージアム近辺で
どこよりも
新緑を満喫できる場所のひとつ。
それは
武田氏館跡の西曲輪(にしぐるわ)。
現在の武田神社より西側の
土塁と堀で囲まれた場所になります。


戦国時代の館としては
東日本最大の規模を誇った
武田氏館。
今でもその片鱗は
土塁や堀から想像できます。

神社境内となっている主郭と西曲輪の間の堀

武田氏館跡は
土塁や堀や
館の出入り口である虎口など
戦国大名の館の特徴的な遺構が
当時のまま残っていることが評価され、
昭和13年(1938年)に
国の史跡に指定されました。

「花のいのちは短くて・・・」ではありませんが
瑞々しい新緑も
あっという間に色の濃い緑に移り変わります。

西曲輪は
武田信玄の長男である義信の
新居として増設された場所。
戦国の館の雰囲気を味わいつつ
今だけの風景を楽しみにいらっしゃいませんか。
新型コロナウイルスの影響で
外出がなかなか難しい状況ですが
新緑の頃はまた来年も訪れます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲府にも、人々を疫病から守る神さまいらっしゃいました。

2020-04-16 12:35:39 | 紹介
新型コロナウイルスの感染の勢いが
国内でもいよいよ心配になってきました。

ところで、
「祇園」と聞いて
何をイメージされますか?

京都の花街、祇園でしょうか。
それとも「祇園祭」でしょうか。

明治以前は祇園社と呼ばれた八坂神社。
その祇園祭、
日本各地に疫病が流行った
貞観11年(869年)、
当時の国の数である66か国にちなみ、
66本の鉾を立て
災厄が去ることを祈ったことが
祭りの由来と言われております。

「祇園」と言えば
「祇園精舎の鐘の声・・・」
『平家物語』の冒頭の一節を
思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうか。

「祇園精舎」とは
お釈迦さまが
雨期に過ごされた修行の場。
この祇園精舎の守護神が
牛頭天王(ごずてんのう)という
ちょっと聞きなれないお名前ですが、
読んで字のごとく
大きな牛の頭に赤い角をもつ
異国からやってきた神さまです。

祇園社、現在の八坂神社は
所説あるものの、
現在の朝鮮半島南東部
新羅国の牛頭山に座する
スサノオノミコトを祭神として
お迎えしたことが始まりと言われています。

荒ぶる神・スサノオノミコトと
姿形の恐ろしい牛頭天王
しかも共に疫病を司る神。
同じようなイメージをもつ
二つの神の習合は
自然な流れだったのでしょう。

ところ変わって
武田氏の躑躅が崎館(つつじがさき)の城下町に
祇園寺という名の
山伏を取りまとめる寺院がありました。
館から方角にして南西の裏鬼門に位置し、
そこに迎え入れられた
牛頭天王社の祭祀も行ったといいます。
(甲斐国志より)

その後
甲府城築城の時、
寺社は甲府市内の別の場所に移転しますが、
甲府城の鬼門鎮護のお役目は変わらず。
江戸時代に入り、
疫病が流行れば
牛頭天王を祭神とした神輿が
町中を練り歩いたとか。

明治の時になっても、
科学は進めど
人々の頼りにするのは
まだまだこうした神さまであったり
念仏やお題目だったようです。
牛頭天王が人々に与えたのは
何よりも心の支えだったのかもしれません。

明治以降、
寺社は八雲神社と名を改めました。
そして現在、
祇園寺と牛頭天王社跡には
小さな立て看板が残るのみ・・・ですが
その横には
今でも修験道の開祖である
役行者像が残ります。
祇園寺が城下町に建てられたのが
信玄の時代。
そのころから今日に至るまで
この地を見つめてきた石像です。

お地蔵さまのように見えますが('◇')ゞ

新型コロナウイルス。
あらゆる人が
ある意味では
平等に感染にさらされておりますが、
戦国時代も同様。
武田氏館の人々も
府中に住む人々も
得体のしれぬ感染症に
同じようにさらされて、
今の私たち以上に
恐ろしいものと
感じていたのかもしれません・・・。

新型コロナウイルスに感染された方たちの
1日も早い快復を祈ります。

ご参照
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月12日は武田信玄の命日です。

2020-04-12 13:30:20 | イベント
武田信玄は
元亀4年(1573年)4月12日
信濃国駒場
現在の長野県下伊那郡阿智村で
病によって亡くなったと伝えられています。
享年53歳。

「大底還他肌骨好 不塗紅粉自風流」
(大底は他の肌骨の好きに還す。紅粉を塗らずして自ら風流。)
「甲陽軍鑑」品第39「信玄公逝去 付御遺言之事」

「わが不朽の生命は
若々しくすこやかな人々の肉体に伝えよう。
それは少しも飾ることなく、
自ら華やかにうるわしいのだから。」
(「甲陽軍鑑」、吉田豊編・訳、徳間書店より)

これは、
信玄が自らの臨終を前に遺した言葉と伝えられています。
「全てを残された人々に託そう」
という境地でしょうか。

死期を悟った信玄は
家臣などを集めて
「3年間は自分の死を隠して、
領国の安全を保つこと」
などの遺言を残したといわれています。
四男の勝頼はこれに従い、
信玄の死を隠しますが、
織田信長や徳川家康、
そして上杉謙信にも
信玄が亡くなったことは
早々に伝わっていたようです。
信玄のライバルである謙信は
その死を悲しんだとも。

3年後の天正4年(1576年)、
信玄の菩提寺である恵林寺で
住職の快川紹喜によって
盛大な葬儀が執り行われます。
ちなみに、快川紹喜の遺した言葉
「安禅必ずしも山川を須(もち)いず
心頭滅却すれば火も自ら涼し」も
有名ですね。

信玄ミュージアムの近くには
信玄公墓があります。
信玄の遺体を火葬した場所と伝えられ、
火葬塚とも呼ばれます。



信玄の墓は
この他に、
山梨県内では大泉寺と恵林寺
長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺
和歌山県高野山
愛知県福田寺
京都の妙心寺など全国に!

これは
信玄が遺言によって
喪を3年秘めていたことや
万一の外敵を恐れて
埋葬地を秘密にしていたため。

毎年、
信玄の命日には
武田神社の例大祭と併せて
武田二十四将騎馬行列が
武田神社を出発し
市内一円をパレードします。

昨年は、
オープンしたばかりの信玄ミュージアムの前を
騎馬行列が通り、大変なにぎわいでした。
しかし、
今年は新型コロナウイルスの影響で
騎馬行列はやむなく中止。
今年は、
例年にない
静かな静かな命日となりました。

1日も早い新型コロナウイルスの終息を
祈るばかりです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜と言えば...西行

2020-04-12 09:23:42 | 紹介
桜と言えば、この歌が思い浮かぶ
そんな方もいらっしゃるようで・・・

「願わくは 花の下で 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ」


この歌は
歌人として名高い西行法師によるもの。
「花」は桜のことのようです。

西行は
1118年に生まれ
1190年2月16日(現在の3月31日)に
亡くなったとされています。

命日を見ると、
この歌通りに亡くなった・・・のでしょうか。
自分の死にざまを予測するかのように。
不思議ですね。

出家前は佐藤義清(のりきよ)と名乗り、
北面の武士として、
時の上皇の警護にあたっていました。

「義清」といえば、
武田氏では武田義清(よしきよ)です。
甲斐源氏の先祖とされる
新羅三郎義光の三男。
当時の常陸国那賀郡武田郷
(現在のひたちなか市武田)を治め、
武田義清を名乗りました。

その後、
義清とその息子の清光は
武田郷を追われて常陸国を離れ、
甲斐国市河荘
現在の甲府盆地底部あたり
に移り住みます。
着々と勢力を拡大し
甲斐源氏の始祖に。

この武田義清の
17代後にあたるのが武田信玄
戦国最強と言われ
武田の名は全国に知られるようになりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミュージアム休館中でも、咳エチケットは怠らない!?

2020-04-11 13:12:39 | 紹介
新型コロナウイルス蔓延防止のため
ミュージアムが休館してひと月半📅
ここ、甲府の武田神社や、
信玄ミュージアムのあたりも
ひっそりとした日々が続いております。
それでも、こちらにちょっと寄って下さる方のために
画像やパネルで武田氏館跡をご紹介しております。

あまりの人気で
3密になったら困る!?
いえいえ、大丈夫。
こちらもこちらでしっかりマスク😷 
咳エチケットも心がけておりますので!


マスクの品薄状態が続く中
使い捨てや手作りマスク
はたまた多様なメーカーの
工夫をこらした楽しいマスクなどが
話題になっております。
こちらの鎧兜の御仁のマスク。
どなたがモデルかわかりますか?

でも、信玄ミュージアムでは
マスク着用だけでは終わらないのです。

武田信玄の息子である
勝頼の誉れ高い兜に

「蘇民将来子孫也」の護符付き!
(そみんしょうらいのしそんなり)

*蘇民将来の(短い)おはなし
旅の途中、
ある兄弟に宿を頼んだスサノオノミコト。
裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は
それを断り、
貧しい兄の蘇民将来は
心尽くしてもてなします。
喜んだスサノオノミコト
蘇民将来の娘に茅の輪を与え
「茅の輪で疫病から守られる」と伝えます。
そんなわけで
スサノオノミコトを祀る神社では
「蘇民将来子孫也」の護符が
配られるようになったとか。

こちらのお侍さんは
「新型コロナ退散・歴史館開館」を祈願。
もちろんマスク着用で😷 


「『またのご来館をお待ちしております。』
とのお館様よりの御言葉です。」と、
うやうやしく伝えてくれるこの方は・・・
ドクター中松氏、開発💡
話題の「SUPER MEN」着用!?
(注)ドクター中松氏のファンによる作成
こちらでは販売しておりません。




勝頼公の兜に「蘇民将来」
新型コロナ退散祈願
お館さまのお言葉と「SUPER MEN」
この切なる願いが
届かないはずがありません・・・
よね?

見えないウイルスで
日常の尊さが身に染みる今日この頃🍂
終息のころには
私たちの生き方そのものが
変わっているかもしれませんね。
いずれにせよ、
みなさま
引き続き、ご自愛ください。

ご参照
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする