昭和モダンと旧堀田古城園

2020-06-10 18:35:33 | 紹介
信玄ミュージアム内、旧堀田古城園は、1933年(昭和8)に料亭として開業しました。
第二次世界大戦中の休業を経て、1946年(昭和21)に旅館として営業を再開。
1971年(昭和46)の閉館後は、堀田家の方々の住まいに。
そして、2015年(平成27)、甲府市に寄付されます。

開業当時は、「上府中名物の~」と言われるほどににぎわいを見せた料亭。
多くの人・もの・出来事が行き交った、およそ80年の軌跡が、
この近代和風建築には記憶されています。

新型コロナウイルスの蔓延防止のため、長らく臨時休館している信玄ミュージアムですが、
特別展示室を少しリニューアルしたり、旧堀田古城園に残されたものを整理したり、
再びオープンする日を楽しみに準備を進めてきました。

そんな中で見つけたものが、1930年代製造のポータブルの蓄音機。
当初、「これで、もう一度レコードを聴くことは難しいのではないか。」と言われていましたが、
スタッフがきれいにメンテナンスして、再び音を楽しめるようになりました😂 


レバーを回せばレコードが回りだす♬
電気も使わないのに、驚くほどの大音量です📯


旧堀田古城園に残されていたレコードは、1970年代前後のものでしたが・・・

「サウンドオブミュージック」のサントラ、ジャズピアノに、クラシック・・・

料亭が開業したころの昭和初期は、どんな音楽が好まれたのでしょう。

「さくら音頭」などの盆踊り系。
社交ダンスも当時世界的に流行。甲府にもスクールがあったとか。
欧米の曲を日本語でカバーしたもの。

現在放映中の、NHK連続テレビ小説「エール」の主人公、
古関裕而さんの「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」も、このころ人気だったようです。

そして、この蓄音機が製造された1930年代は、どんな時代だったかというと・・・

昭和という新たな時代を前に、1923年(大正12)に関東大震災が発生。
その再建で東京は一気に近代化し、欧米の消費文化が持ち込まれた時代。
そのさなかに花開いた、昭和モダン。和洋折衷の近代市民文化。

識字率の高さがベースとなって、
「文藝春秋」などの総合雑誌、川端康成や横光利一などの新感覚派、
江戸川乱歩などの怪奇幻想趣味、「のらくろ」などの児童向け娯楽作品など、
”教養の大衆化”が進みます。
宝塚大劇場、日比谷映画劇場などの大劇場が建設されたのもこのころ。

生活様式も、もちろん変わりました。
鉄道網の充実。地下鉄の開通。流通も発達。
甲府駅には富士身延鉄道線に続き、親しみ込めて「ボロ電」と呼ばれた山梨電気鉄道線も乗り入れます。
山梨県韮崎出身の小林一三は、自身が経営する阪急電鉄の梅田駅に阪急百貨店を開業。
「駅に着いたらお買い物♪」を実現するターミナルデパートの誕生です。
甲府の岡島百貨店も、1936年(昭和11)に開業しています。
ウエイトレスや「バスガール」とよばれたバスの女性車掌など、新しい職業の誕生が拍車をかけて、女性の洋装化も進みます。
ライスカレー、オムライスなどを出す洋食レストランに、カフェーが人気。
インスタントコーヒーやカルピスが開発されたのもこのころ。

モダニズムの楽し気な雰囲気の一方で、
1929年の世界恐慌に引っ張られ、1930・1931年(昭和5・6)に昭和恐慌、
1931年(昭和6)の満州事変、1937年(昭和12)の日中戦争。
時代は太平洋戦争へ確実に向かっていきました。
昭和モダンが、不安や動揺、懐疑などで表現されたモダニズム※と言われる所以です。
※「モダン層とモダン相」、大宅壮一、1930年(昭和5)

人がいて、ものがあってこその空間。
今の旧堀田古城園で、昭和モダンの雰囲気を感じ取るのはきっと難しい。
でも、レコードに録音された音楽が、何かヒントを与えてくれそうです。


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八幡さまはお忙しい!

2020-06-07 10:57:51 | イベント
源氏の守護神、八幡神。もちろん武田氏の守護神も八幡神。
甲府の「山八幡宮」は、甲斐国にやってきた源義清が、甲斐源氏の守護神としてお迎えしたのが最初。


「石和八幡宮」は、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請されました。その後、武田氏館の造営にともない甲府に遷座。
最終的に、甲府城築城の時に、現在の府中八幡宮の地にいたります。
ちなみに「石和八幡宮」は、のちに徳川家康が社領を寄進して再建したと言われています。今でも建物は新しいですが、健在です。


話は変わりますが、この八幡さま、早い時期から神仏習合されて、
鎮護国家、仏教守護の神・八幡大菩薩に。その後、阿弥陀如来(!)が八幡神の本地仏(※)とされました。
(※)この世の様々な神々は、仏や菩薩が、人間を救い、悟りへ導くために
いろいろな姿になって現れたものとする考え方があります。本地とは根本となる仏や菩薩のことを言うそうです。

新型コロナウイルスの影響で、みんなで作る「大仏アプリ」も人気のようですが、
日本の大仏と言えば、奈良・東大寺の「奈良の大仏」と鎌倉・高徳院の「鎌倉の大仏」が代表格。
奈良の大仏は廬舎那仏ですが、鎌倉幕府のおひざ元の大仏は阿弥陀如来(!)。
八幡神を守護神とした源氏の影響も見え隠れ、しませんか。

阿弥陀如来と言えば、武田信玄が、川中島合戦での焼失を免れるため、
信州善光寺を丸ごと甲斐善光寺として甲府に移していますが、そのご本尊も阿弥陀如来。
八幡さまは、神さまになったり、仏さまになったり、大忙し。と思うと、鳩という姿はちょっと便利?
そんな片鱗が、八幡宮だけでなく、阿弥陀さまをご本尊とする信州善光寺にも見られます。

写真を撮りに行けなくてごめんなさい。
でも、信州善光寺の山門の額にも「鳩」が隠れているんです。何羽も。
「牛に引かれて善光寺参り」ということで、額の中には、牛の顔まで表現されています。
甲斐善光寺には、残念ながら鳩文字がありません。
でも、江戸から念願の甲斐善光寺詣りをした(!?)という伝承の霊牛の角の記念碑があります。
この牛、誰に導かれたかはわかりませんが、善光寺と牛も、ちょっとご縁があるのかも!?




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八幡さまの七変化

2020-06-06 15:58:58 | イベント
全国各地にいらっしゃる八幡さま。
ご利益はいろいろとあるようですが、本来は弓矢八幡、武運の神。
ちょっと意外ではありませんか。

それでも、多くの武士が八幡神を氏神、守護神としたのは、ちゃんとご利益があったから。

八幡神の数ある奇跡(!?)のひとつが、
平安時代後期、現在の東北を舞台にした前九年の役での源氏方の勝利。
官軍を率いた源頼義の祈りにこたえて「大風」を巻き起こし、
堅固な敵陣を炎でつつみ、長い戦に終止符を打ったとも。
はたまた、別の場面では「鳩」の姿で頼義を導いた(!?)とも。

そうなんです。八幡神の使いは「鳩」なのです。
新型コロナウイルスで話題になった「ヨゲンノトリ」は「烏」のようですが・・・

とにもかくにも、八幡神という武神の使いは「鳩」であり・・・
「鳩」と言えば、現代では平和の象徴。そのイメージと「戦」は結び付きにくいのですが、
八幡宮の総本宮、大分の宇佐八幡宮が571年に創建された時の物語に、
「鳩」は神の化身としてすでに登場しています。

伝承によると、569年、宇佐神宮境内のひし形の池のほとりに、
ひとつの身体に8つの頭をもつ鍛冶をする翁が現れた。それを見たものは病気になったり、死んだりした。
大神比義(おおがのひぎ)なる人物が見に行くと、翁の代わりに鷹がおり、そして金の「鳩」になった。
「神が人を救うために変身されている」と悟った比義は、3年間断食をし祈り続けたところ、
光輝く3歳の童子があらわれ、自分が応神天皇であることを告げます。
そして、再び鷹となって松にとどまり・・・宇佐八幡宮に鎮座された。
つまり、八幡神は、神になられた応神天皇。

この第15代天皇は、実在したとすれば4世紀後半。
生まれは九州。そこから大和に入ったと言われています。
また、この時代は、朝鮮半島から多くの技術が導入され、文化的に発展したとも。
八幡は、もとは「やはた」と読み、いつの頃からか「はちまん」と読むようになったようですが、
諸々の状況から、応神天皇と朝鮮半島との密な関係も指摘されるところ。

ともかくも、宇佐八幡宮は皇祖神をお祀りしているともいえますが、
その神さまがなぜ武神なのでしょう。
応神天皇の大和入りに関係するのかもしれませんが、
逆転の発想で、八幡神を守護神とした源氏が、戦で神威を発揮したことで、
「弓矢八幡」と崇められた(!)という説もあるようです。

八幡神の使いは鷹なの?鳩なの?
いずれにせよ、各地に八幡宮を分祀したとき、道案内をしたのは「鳩」だそう。

そして、道案内したそれぞれの土地に、「鳩」は留まったようなのです。
あの境内にたくさんいる鳩が、どこまで関係するのかはわかりませんが、
「えさちょうだい♪」と足元に近づいてくる鳩に気を取られず、
目線を上に、神社のどこかに掲げられている大きな額をご覧ください。



こちらは、甲府市の「府中八幡宮」の扁額(へんがく)です。
「鳩」、見つかりましたか?


甲府の金手駅そばの「山八幡宮」にも、ちゃんといらっしゃいます。
金色の「鳩」ですね。


「山八幡宮」のお賽銭箱にも😊 

つがいのような「鳩」がつくる八幡さまの「八」の字。
「八」は古来より「聖数」とされ、「たくさんある」という意味で「八」百万の神々などにも使われてきました。
しかし、詳しくは触れませんが、「八」には「数が多い」以上の概念が潜んでいるようです。
また、「鳩」には「九」の字が含まれますが、「九」は数字の最後。そして最初の転換点。
そのイメージが転じて、究極、最高、そして神の鳥!?

八幡さまがなぜ武神で、そのお使いが「鳩」である訳、残念ながらはっきりしません。
それでも、八幡信仰には、たくさんの物語が織りこまれている、ということは言えそうです。

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八幡さまがいっぱい!

2020-06-04 15:36:42 | 紹介
戦国時代、明日の命もわからない世の中だったからでしょうか。
多くの武将が神仏に帰依していたといわれています。
信玄をはじめとする武田家も同じ。様々な寺社と深い関わりをもっていたようです。
そんな甲斐武田家の氏神は、八幡神。

皆さまの住む土地にも、きっといらっしゃる。全国津々浦々、多くの土地を守る八幡さまですが・・・
八幡神の「八」は「聖数、たくさんあること」を、
「幡」は、「ご神体や神域など、神さまの依代(よりしろ)となる旗🏁」という意味だそうで。
名は体を表すとは、まさにこのこと!?

ここ山梨にも、たくさんの八幡さまがお祀りされています。


武田氏館跡のすぐそばには、館の造営後に源氏である武田氏の氏神様として祀られていた、
石和八幡宮(現笛吹市)から分祀された八幡宮がありました。
その場所は、今は「古八幡」と呼ばれています。


その後、武田家が滅亡して豊臣秀吉の時代に拠点を甲府城に移した際、ちょっと南にお引越し。
通称「府中八幡」。


こちらは、甲府市の金手駅そばにある”山”八幡宮。
平安時代後期、甲斐国にやってきた源義清が建てた八幡宮を勧請して、現在の甲府市愛宕町に。
甲府城築城の時、再びお引越しして、築城守護の神社になります。

その他、韮崎の武田八幡宮、石和八幡神社、山梨市の大井俣八幡神社などなど。
本当にたくさん。

こんなにたくさんの八幡さまがいらっしゃるのも、
源氏が勢力を広げるたびに、守護神として八幡宮を建立したからという説あり。
とってもうなずける話ですが、どうしてそんなに八幡さまが必要だったのでしょう。

たぶん、それは、八幡神が武運の神さまだから!

論より証拠(!?)戦い専門の神さまはやっぱり頼りになる(!)というお話を最後にひとつ。

時は平安時代後半、現在の東北地方、陸奥国に赴任した源頼義(988-1075)が、
土着の有力豪族の安倍氏と戦った前九年の役(1051-1062)。
長い長い戦を制したのは、源頼義でした。
彼を勝利に導いたのが八幡神であり、
この時、父・頼義と共に戦った長男義家(1039-1106)は、河内源氏の祖となり、
この血筋から源頼朝や足利尊氏が輩出されることから、
前九年の役の勝利は、
河内源氏が武家の棟梁の証・征夷大将軍を名乗る根拠に(!)なっていった・・・と言われています。

源氏を勝利に導いた八幡神は、どのように頼義を助けたのでしょうか?
八幡さまのお話はもう少し続きます。よろしければ、お付き合いください。
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6月19日(金)、信玄ミュージアム、再開いたします!

2020-06-04 14:26:59 | イベント
新型コロナウイルスの感染蔓延防止のため、2月末から臨時休館して3カ月強。
山梨県をふくむ各地の非常事態宣言も解除され、
感染症予防対策を講じ、信玄ミュージアムも再オープンの日が決まりました。

6月19日(金)9:00開館 🎉
※閉館時間は、若干短縮となる予定です。

しばらく限定的な開館となりますが、段階的にご見学いただけるエリアを広げてまいります。
できるだけ、ご来館のみなさまにお楽しみいただけるように考えておりますが、
入館時の手続き等、ご不便をおかけすることもあるかと思います。
ご理解とご協力のほど、よろしくお願いいたします。
また、詳細につきましては、甲府市役所ホームページならびにこのブログでご報告いたします。


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