ちょこっと比較♪「武田二十四将図」と「徳川十六将図」(その1)

2022-05-23 13:02:06 | 紹介
全国六善光寺で絶賛開催中の御開帳!
もちろん、お館さまのお膝元、甲斐善光寺でも!

信玄公の下で建立された甲斐善光寺。
その時、絶対秘仏で生身(生きてる!)仏の善光寺如来さまも甲府にいらしたワケで、
そんなご縁もあり、今春の特別展示室企画展は「甲斐国領主と善光寺」がテーマ。
善光寺関連の貴重な書状をご紹介しております。

↑甲斐善光寺のご本尊はこちらから!

第一弾では、武田氏の時代、
第二弾では、徳川氏、羽柴氏による甲斐統治の時代にタイムスリップ😉 
創建から善光寺のもろもろを担当した栗田氏に、新領主が宛てた書状が展示中。
国の領主が変わっても、栗田さんの統治権に変更ないよ(!)という内容。

第一弾では、「武田二十四将図」(個人蔵)もご覧いただいておりましたが、、

今回は、「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)がお目見え。

「武田二十四将図」も、「徳川十六将図」も、江戸時代にさかんに制作された、
戦国時代までは見られないタイプの集団肖像画、またの名を軍団絵。

「武田二十四将図」で言えば、最初は甲州流軍学の書「甲陽軍鑑」に刺激を受けて、
武田家家臣の子孫が、先祖供養に描かせた図像だったとも。
どんな集団肖像画になったのかと言えば、それが仏画さながらで、
お釈迦さまのように描かれた信玄公や家康公を頂点に、
「武田二十四将図」であれば、親族衆、家臣団、国人衆の順にずらり。
仏教の守護神には「十二天」、「十六善神」、「二十四諸天」などがいらっしゃいますが、
「二十四」や「十六」という数字も、仏画の影響によるものかもしれません。

でも、カメラも何もない時代です。
お顔がわからない方々の肖像画は、どうやって描いたのでしょうか。

信玄公の場合は、お館さまが生きていらっしゃったころの肖像画や、
合戦図に描かれたお姿などが元になったと考えられています。
お館さまをご存知の方に、生前のお姿をリサーチしたのかもしれません。
長命の家康公の場合は、肖像画などの記録には事欠かなかったかと。

武田の武将たちの肖像画は、と言えば、
甲州流軍学の書「甲陽軍鑑」が、人選含めてインスピレーションの源。
描かれた武将たちは、軍議の真っ最中と言わんばかりに、あっち向いたり、こっち向いたり。
武田二十四将が、大衆文学、芸能の人気キャラクターになったのもわかる気がします。

それじゃあ、「徳川十六将図」は?
というところで、、本日はこちらで失礼いたします。
次回も、ぜひお付き合いください🙇
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お城散策には良い季節です(その2)

2022-05-20 11:13:54 | 紹介
「武田二十四将」の一人としても名高い馬場美濃守信春。
武田氏の築城に関わること数しれず。そしてその師は、武田の軍配者・山本菅助。
その奥義は、武田氏館跡に遺る馬出、枡形虎口にも見出すことができますが、
城を囲む土塁や塀もまた重要。わずかなスキも命取りになりかねません。

戦国の兵器といえば火縄銃で、館跡の土塁の規模は、その攻撃力に対応したものですが、
土塁の高さは、長槍に対応していたと言ってもいいかもしれません。
というのも、出陣する兵士のほとんどが足軽で、その攻撃手段が長槍だったから。
数に任せて長槍で攻撃されれば、土塁の上からの攻撃はほぼ不可能。
なので、長さ3間(約5.4m)の長槍が届かないように、土塁は3間以上の高さで。
ちなみに、土塁は堀の土を積み上げたものなので、堀の深さも3間ほど。
館跡の堀は一部、空堀。堀を下って土塁を上ることは可能ですが、
その後、気力・体力がどこまで続くかは、推して知るべし。
武田氏館跡・主郭と西曲輪の間の堀跡(右)

「甲陽軍鑑」には、館を囲む塀の工夫も記されています。
一見、シンプルな塀だけど、その実、裏では侵入阻止の塀やら柵を設置していたり。
城内の様子がわからないように、目隠し兼攻撃用施設を用意したり。
虎口つまり出入口の外に、虎口を隠すための曲輪を造ったり。
構えをどこから見ても同じにして、正面はどっち!?裏はどっち!?
と、とっさの時に敵の判断をかく乱する工夫も。

「念には念を」ということでしょうか。
敵に城を攻めこまれた時、いかに敵の攻撃に耐えるか?いかに敵に反撃するか?
そのための工夫がずい所に張りめぐらせたのが、まさに菅助流だったのかもしれません。

「味方は少人数でも敵の攻撃に耐えられるように。
敵が少人数であれば、絶対に落とせないように。
仮に敵の大軍に攻め取られても、取り返しやすいように!」

↑これは、信玄公から馬場美濃守への築城命令。
って、どんな城(!?)と頭を抱えてしまいそうですが(・_・;)
「馬場美濃守なら、できるよね!」という信頼の現れ!?

・・・
甲斐善光寺本堂は、門前町も含めて、信州の善光寺にかなり忠実に再現されたようで、
そこに甲州流がどこまでどう活用されたかは定かではありませんが、
大切な本堂の普請奉行には、菅助流築城術を学んだ馬場美濃守こそが適任だったに違いなく。

5月。とても爽やかな風が吹く季節です。
甲斐善光寺の御開帳も6月29日(水)まで行われています。
武田氏館跡に甲斐善光寺と、信玄公ゆかりの地を訪ねてみませんか。
でもその前に、当館で館跡の”見どころ”の確認をお忘れなく😉
旧堀田古城園のザクロの花も咲き始めました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お城散策には良い季節です。

2022-05-18 18:02:47 | 紹介
昨日までのどんより天気とは変わって、今日はカラッとした青空が広がり、
日中は暑いくらいの陽気になりました。
そのせいか、今年初のトンボがミュージアムの中庭に羽を休めに来ました。
ツツジの花に掴まって休憩中。
トンボは前にしか進まないことから勝ち虫として武将の間でも人気だったとか。

まだ羽化して間もないのか、素早い反応で長くは飛べないようでした。
トンボの姿を見るようになると、あっという間に夏の足音が近づいてきた気がします。
初夏の陽気となりつつある甲府ですが、フィールドワークには良い季節です。

躑躅が崎の先端に築かれた武田氏館も新緑に包まれ、木陰もほどよく涼しく心地よく感じます。
館は、永正16年(1519)に築かれましたが、信虎公の時代に誰が奉行となって
築いたのかわかりません。しかし、信玄公の時代には築城の名手がおりました。
その名も馬場美濃守信春(1514または1515−1575)
有名なお方ですが、御存でしょうか?
「武田二十四将」としても名高く、またの名を「不死身の鬼美濃」とも。
武田氏3代に仕え、そのおよそ40年のキャリアにおいて、70以上の戦に出陣。
これだけの戦歴で、かすり傷ひとつ負わなかった(!)とかで、こんなニックネームがつけられたそう。
築城技術にも長け、武田領国の各地の城には、馬場美濃守普請、と言い伝えられた城は数知れず。
信玄公によって、戦禍を逃れて、長野から甲府に丸ごと移転された善光寺。
現在は甲斐善光寺と呼ばれておりますが、その本堂の普請奉行を担当したのも馬場美濃守。

そんな馬場美濃守が築城術を学んだのが山本菅助(1493または1500−1561)。
菅助は、その分野での専門家を求めていた武田氏に、城取りの名人として採用されたと伝承されています。
その築城術の奥義・神髄は、甲州流軍学の書「甲陽軍鑑」に詳しいのですが、
奥義光る要所の一つが出入口。

例えば「馬出」(うまだし)という城の出入口の前に設けられた「曲輪」(くるわ)(※)。
(※曲輪は、土塁と堀、またはそれに囲まれた場所)
菅助流の馬出は、敵を討ちやすく、かつ安全に退却できるように配慮されていたということですが・・・
言うは易し行うは難し。
・・・武田氏館跡(現・武田神社)東の大手門正面には、武田氏以後に築かれた石塁が復元されていて、
その下に眠るのが、武田家流築城技術のひとつ、「三日月堀」(三日月型の馬出)。
どんな防御施設だったの(!?)と気になりませんか~。
ぜひぜひ(!)武田家流の馬出の規模などを現地で体感しながら(!)頭の中で再構築(!)してみてください。
説明パネルもございますので♬
こちらが大手門東史跡公園の石塁

・・・
出入口は、どうしたって、敵の侵入と攻撃が集中する場所です。
どこに設置するか、どのように築くか、敵の攻撃をさまざま想定して防御の工夫を凝らす・・・
その一例が、館跡の西曲輪に遺る「枡形虎口」(ますがたこぐち)と呼ばれた出入口。
武田氏時代に館が敵に攻撃されることは、ついぞありませんでしたが、、
たとえ敵兵が枡形虎口から「わー」っと侵入しても、一直線に城内に突入できないようになっていました。
というのも、虎口から内部に通じる門は、正面からずれた位置に設置されていたから。
突入すれば若干の方向転換が必要とされ、自然、敵兵の勢いは削がれることに。
また、敵兵の視線を一瞬でも翻弄させることができれば、虎口を囲む土塁の上からも攻撃しやすくなります。

城に詰めていた味方が土塁の上に駆け上がるための坂も、数種類考案されていたようで、
攻める側にとって危険極まりないエリアが、この「虎の口」でした・・・。

武田氏館跡・西曲輪の桝形虎口。門跡の上から見ると、こんな感じ。
石積みは豊臣政権下で改修されたものですが、武田氏時代の枡形空間はきれいに遺っています。

ちょっと長くなりましたので、今回はこの辺で。
あともう少し、お付き合いください🙇
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月も折り返しですね。

2022-05-15 16:36:13 | イベント
5月の連休が終わって一息と思ったら、あっという間に1週間が過ぎ、
気がつけばもう皐月も折り返し。
新型コロナウイルスも連休後に爆発するかと思っていたところ、
山梨県はそう大きな拡大にならず、関東近県ではかなり優秀な成績です。
下がりもしませんが、跳ね返りもせずで、何とかこのまま終息してほしいです。
まだまだ油断大敵ですが、山梨はこれから果樹シーズン本番となりますので、
感染症対策もしっかりとお願いし、楽しい行楽をお楽しみいただきたいものです。

最近はお天気も優れず、今日も午前は晴れ間も見えましたが、昼過ぎには
どんよりとした曇り空。
全国的に冴えないお天気続きですが、庭の木々や花々には適度に
雨が降るのでありがたいお天気なのかもしれません。
おかげで、今年は旧堀田古城園の庭木や花も元気です。
スタッフも水やりしなくて済むので大助かりです。
でも、お天気が続いてくれないと、こちらのエリアまで足を運ばれる
観光の方も少なくなるので、死活問題(・_・;)
日中晴れて、夜適度に雨が降るのが最高です。
なかなかそう思うようには行きませんが。

さて、5月5日も終わったところで、少し長めに展示していました
5月飾りも16日(月)でお片づけです。

また一年後にお披露目するまでお休みに入りますが、
甲州独特の飾りの「かなかんぶつ」は、展示中にお問い合わせもいただき、
外国人の方からもどこに展示してありますか?なんてお尋ねもありました。
意外と人気が高くて驚きました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺さんの屋根は、どうしてT字?(その2)

2022-05-13 11:48:50 | 紹介
戦国の戦禍を逃れ、信州から甲府にいらしたご本尊の善光寺如来さま。
ご本尊のために、信玄公は信州の善光寺を丸ごと(!)お移しになりました。
本堂をはじめとする伽藍も、門前町も、一切合切、ご建造…。

現在、全国の六善光寺で7年ぶりの御開帳が行われておりますが、
このたび、長野市の善光寺大本願様のご厚意により、
当館でも甲斐善光寺関連の貴重な書状などを展示させていただいております。

そこで、善光寺さんのこと、もっと知りたい(!)と調べてみたら、
なかなかどうして興味深い。
色々ありますが、そのうちの一つが本堂・・・ということで、
善光寺本堂のT字型の屋根のお話第2弾です。

よろしければこちらもどうぞ🙇

善光寺本堂の特徴といえば、「橦木造」(しゅもくづくり)なのですが、
どうしてT字型なのでしょう。とっても気になります。

橦木造は、鎌倉時代末から室町時代初期頃に成立した建築様式。
成立以前は、神社などのように、本堂と参拝する場所は分かれていたのですが、
荒天時などのために、参拝者用の礼堂が設置され、その後、本堂と礼堂が一体化。
もともと本堂の入り口は、屋根の棟と平行の面に、
礼堂の入り口は、棟と垂直の面にあり、
その二つをくっつけて建てたから、上空から見るとT字の屋根に。
「善光寺山内古地図」一部(「甲斐路」No.89、山梨郷土研究会より)
屋根の頂上部の棟に赤いマークをつけると、T字型になります。

本堂が橦木造に転換していった中世は、どんな時代だったのでしょう。
ひとつの事象としては、飛鳥時代、奈良時代にはすでにあった極楽浄土へのあこがれが、
平安後期に広く流布された末法への危機感から、
浄土信仰がより一層高まっていたということが。
ただひたすらに念仏を唱えれば救われる。
阿弥陀さまにすべてを任せる絶対他力の浄土宗など、
鎌倉仏教が生まれたのもこのころでした。

極楽浄土の仏さま、一光三尊阿弥陀如来をご本尊とする善光寺。
宗派を問わず、しかも女人も救済。善光寺にも、多くの人々が救いを求めて押し寄せたに違いありません。
実際、善光寺は本堂を24時間開放!
多くの信者が、そこで一晩中念仏を唱え、翌朝のお勤めを待ったといいます。

鎌倉から室町へ。末法に加えて、時代も転換する時、
確かなものにおすがりたいという気持ちはとても自然なこと・・・。
そんな人々の願いに応えるかのように、善光寺は間口も広く、信徒を受け入れ、
本堂も、これまで厳然と分かれていた聖と俗の空間が、境界を維持しつつも、
一つの建物内で共存するように。

善光寺の撞木造から聞こえてくるのは、「もっともっと!」という声。
もっともっと多くの人を救いたい。もっともっと、本堂は、浄土を統べるご本尊にふさわしく。
だから、信徒の空間だけでなく、外観も大きく、屋根も大きく高くしたい!
新たな建築技術の導入や国内の技術の進歩と共に、
理想の姿が追及され、善光寺は再建を経るごとに規模を大きくしていきました。

ひとつひとつの構造物が一体となって、善光寺たらしめているワケですが、、
上空からしか見えないけれど、屋根の上の撞木こそ、その最たるもの。
極楽浄土に向けて、救いを求める人々に向けて、屋根の上の大きな撞木が
鐘の音を響かせる・・は考えすぎ!?

こちらは甲斐善光寺(甲府市)

最後に・・屋根の棟がT字型の寺社は、他にもあります。
東大寺法華堂、諏訪大社下社秋宮がその例です。
T字型の屋根にいたるまでに、それぞれに歴史あり。興味は尽きません。

・・・
全国六善光寺にて、現在も御開帳が続いています。
信玄ミュージアム・特別展示室では、御開帳に合わせ
「甲斐国領主と善光寺」と題し、貴重な歴史的資料を展示中です。
5月11日(水)からは、武田氏にかわって、
その後の領主、徳川・羽柴両氏と善光寺との関わりを書状を通して探ります。
ぜひ、ご覧にいらしてください🙇
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする