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お屋形様の城下を心ゆくまで満喫しました♪

2022-05-13 10:00:35 | イベント
至福のひとときを過ごせる大型連休、
ゴールデンウィーク(GW)。
今年もあっという間に終わってしまいましたが、
皆様はどのようにお過ごしになられたでしょうか?
このご時世、気軽に外出することが難しく日々の疲れを
自宅で癒やす方がほとんどだったかと思われます。
甲府市はそんな皆様のお悩み解決のため、
専門の特別講師解説のもとGW半ばの5月3日(火)、
大泉寺や円光院など武田氏と縁のある史跡や寺院、小路を
歩きながら、当時の思いに浸る特別なイベント
「私の地域・歴史探訪〜信玄公に思いを馳せる生誕の地散策会〜」を
開催いたしました!!参加人数は午前と午後それぞれ
約20名、各地から多くの武田氏愛好家が会しました。
山梨郷土研究会の数野雅彦さんと、武田氏研究会の山下孝司さん
の2名の講師にお越しいただき、さらに臨時講師として
歴史文化財課職員が1人付き、もと午前と午後
それぞれ参加者を引率しこぼれ話や質問も交え、
全員が楽しく学んでいる様子でした。

なかでも大泉寺は武田信虎の菩提寺で
武田三代(信虎、信玄、勝頼)の供養塔もありながら、
武田滅亡後の後世江戸期に設けられた
甲府勤番支配にも深く関係しているという事実に
参加者の方々も驚いて深く関心を寄せられていました。

皆様が普段生活している町並みにも、
なかなか気づくことができない「歴史」が
1つは隠れているものです。これを機会に、
いつもと違う道を歩かれてはいかがでしょうか?
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善光寺さんの屋根は、どうしてT字?(その1)

2022-05-12 19:37:32 | 紹介
昨日から企画展も次のステージへ移行し、信玄ミュージアムとしては、
初の脱 武田家展示!
二日目を迎え、地元の中学生の校外学習もあり、多くの方にご覧いただきましたが、
反応としては、武田じゃなくて、なぜ徳川?、なぜ羽柴?
といった声もいただきました。

しかし、企画展の大テーマは御開帳中の善光寺様なのです。
展示物は非武田でも、甲斐善光寺が甲府にあるのは信玄公のおかげでもあります。
ですので、武田以降の領主の皆さまも信玄公が移した善光寺を保護した、
という点では、無関係ではないのです。
武田氏館跡の主という視点から見れば、こちらもますます無関係ではないので、
結局は、すべての展示は武田につながる、とご説明したところです。
武田ファン、信玄公ファンの方には少し物足りないかもしれませんが・・・。

今回は善光寺御開帳に合わせた貴重な資料展示の機会でもあります。
歴代領主の書状が揃っているのも、展示中の善光寺大本願様の所蔵される
「栗田家文書」だけ。
そして、意外にも山梨県内では初公開。そして、所蔵先でも普段は非公開。
めったに見ることができない史料なのです。
信玄公が移し、のちの領主の方々も保護した善光寺について、
いろいろな角度から掘り下げてまいります。

さて、話は少しさかのぼりますが、善光寺が一躍信仰圏を広げたのは、
鎌倉殿が保護し、信仰したことから始まります。
善光寺の保護者こそが武家政権の棟梁・・・
そして、源氏一門が重んじ、崇めた善光寺如来は尊ぶべき存在・・・
そんな思いもあってか、武田氏の善光寺への関心は、
遅くとも信玄公の父・信虎公から。

「甲陽日記」(※)によれば、信虎公は、大永3年(1523)、7年(1527)と、
短期間に2度、善光寺を参詣。
善光寺諸堂の再建のためだったのではないかとも推測されていますが、
どうだったのでしょう。
(※)「甲陽日記」は武田家家臣・駒井高白斎による用務日誌

信玄公の代となり、戦火を逃れ、古巣の北信から東信に一時遷座されていた善光寺如来さま。
永禄元年(1558)、信玄公はいよいよ善光寺如来を甲府へお移しになります。
善光寺の37世ご住職・鏡空上人、善光寺全般の統治を担当した、別当の栗田氏もご一緒に。

ご遷座の場所に選ばれたのは、本田善光を葬送したと伝承される板垣の郷。
十念精舎という草堂があり、善光の念持仏・観音菩薩像が安置されていたとも伝承されていた場所。
(信玄公の躑躅が崎館(現・武田神社)から甲斐善光寺は、現在の道で徒歩約45分、車で約10分)

そして、同年10月、普請が開始。
本堂は永禄8年(1565)に完成し、入仏供養が行われます。
建設は長期にわたり、甲斐善光寺全体は、元亀3年(1572)に完成。
残念ながら、初代の本堂は、宝暦4年(1754)の火災で消失してしまいますが、
「善光寺山内古地図」には、火災前の甲斐善光寺の境内の様子が。
それによれば、現存する信州善光寺本堂に、規模、形式ともにとっても近い。
信玄公は、かなり忠実に、信州善光寺を甲斐に移した(写した!)と推測できそうです。

善光寺建築の特徴と言えば、本堂の「撞木造(しゅもくづくり)」。
「撞木」とは、仏具の一種で、鐘を打ち鳴らすT字型の棒のこと。
善光寺本堂は、屋根の棟が撞木のようにT字型になっていることから、こう呼ばれています。


「善光寺山内古地図」一部(「甲斐路」No.89、山梨郷土研究会より)
屋根の頂上部の棟に赤いマークをつけると、T字になります。
本堂の奥側(右)の屋根に、手前(左)の屋根が垂直にくっついているイメージ。

記録によれば、信玄公が建立した甲斐善光寺の本堂の規模は、
梁間12間(約21.8m)、桁行28間(約51m)、高さ7丈5尺(約22.5m)。
奥行きが約51mもあったのは、
入口から奥に向かって、外陣(土足で入れる参拝の場)、内陣(参拝者がお参りする畳敷きの場所)、
内々陣(ご本尊が安置される場所であり、読経が行われる場所。
参拝者が足を踏み入れることはできないけれど、お戒壇巡りは内々陣の床下で。)の
3つの空間が縦に並んで構成されているから。

でも、なぜ、屋根の棟がT字型なのでしょう。
そのあたりを、もう少しみてみたいと思います。
次回もぜひ、お付き合いください🙇

こちらは現存の信濃善光寺本堂の正面図と平面図(左)と、同じく現存の甲斐善光寺本堂のもの(右)。
赤く記した「T」が屋根の棟です。
「重要文化財善光寺修理工事報告書第二集」
(「甲斐路」No.89、山梨郷土研究会より)
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企画展「甲斐国領主と善光寺」の中期展示が始まりました。

2022-05-11 17:31:08 | 紹介
ロナウイルス感染拡大とお天気も心配された、ゴールデンウィークが終わり、
信玄ミュージアムも少し落ち着いた平常に戻りました。
信玄公没後450年カウントダウン企画展も、本日11日から中期展示に入りました。
今回の小テーマは、「徳川・羽柴氏と善光寺」です。
甲斐国領主は、武田家滅亡後、1600年に至るまでめまぐるしく交替し、
善光寺に関わる展示も、ここから武田氏以外の大名たちの史料が登場します。
そこで、知らない方にもわかるように、今回のテーマに関わる歴史をご紹介します。

天正10年(1582)、武田家滅亡後、織田信長から甲斐国を与えられた河尻秀隆が
本能寺の変の混乱の中、一揆勢に討ち取られ、無主空白地と化した甲府盆地の
「国中」地域にはいち早く徳川家康が入りました。
また、東からは小田原北条氏が侵攻し、都留郡から富士北麓の「郡内」地域を
占拠しました。
同時に、北条氏直が率いる本軍が上野国で滝川一益を撃破して信濃国に入り、
そのまま南下して甲斐国への侵攻を図り、徳川勢を挟撃する体勢をとりました。
徳川軍は新府城、北条軍は若神子城で対陣し、数的不利の徳川軍が地理に明るい
旧武田家臣団を配下に加えて有利に進め、和睦により甲斐国は徳川氏の領有と
決まりました(天正壬午の乱)。

この頃に出された書状が今回の展示資料の一つ。
徳川家康が北条氏との和睦がまとまった翌月の11月に栗田永寿に宛てた善光寺や
門前町支配を武田家同様認める内容の「徳川家康判物」。
戦国時代には、各家で多少礼式は異なりますが、命令・許認可系の書状は、
徐々に印判を用いることが増えていきました。
そんな中、家康から栗田氏に出されたのは、「判物」と呼ばれる花押の書状。
花押という大名独自のサイン入の書状は、ステイタスが上昇したようですので、
栗田氏と善光寺の格を知る上では重要な史料です。

もうひとつは、羽柴秀勝の書状「羽柴秀勝判物」。
豊臣秀吉の小田原征伐後に徳川家康が関東に移ると、徳川氏との境界となった
甲斐国には秀吉の親族の羽柴秀勝が入りました。
同じ名前の秀勝が複数存在するので、間違われることもありますが、甲斐を治める
ことになったのは、秀吉の姉の子の秀勝です。
ところが、甲斐一国を与えられたものの、息子が京都から離れた遠国で寂しい、と
姉から訴えられた秀吉が願いを聞いて、美濃へ転封したのだとか。
いずれにせよ、在任期間は短く、その間に甲斐に残した足跡も限られる中、
栗田氏に与えた安堵状は大変貴重な史料なんです。
しかも、県内では印判を押した書状はありますが、花押入の判物はかなりのレア。
秀勝の堂々たるサインと花押は必見です😄 
 いずれも善光寺大本願所蔵(転用禁)

そして、最後に「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)。
徳川家康を支えた家臣団の中から精鋭揃いの16名が描かれた絵画も展示中。
家康統治下で甲斐を治めた平岩親吉、鳥居元忠をはじめ、本多忠勝や酒井忠次
ら重臣級も勢揃いです。
作者は狩野秀信(柳雪)。
一人ひとり繊細なタッチで描かれていますので、こちらも見応え充分。
来年のNHK大河は、「どうする家康」でしたでしょうか。
その頃にはもっと親しみを込めて見ることができるのでしょうけれど、
今回は、予習としてどうぞご覧ください。

なお、御城印は5月9日(月)まで春限定版でしたが、
本日より通常版信玄公龍朱印に戻りました。
春版は来年までお待ちくださいませ。
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甲府の春は短い!

2022-05-05 15:28:00 | 紹介
連休最終日。
本日も暑い一日となりました。
ついひと月前に桜が満開で、春を迎えたばかりだったのですが、
ちょうど連休初日からなかなかの暑さ。
施設内の㈱桔梗屋様のカフェで出されている、桔梗信玄ソフト+
が売れているのも納得の気温です。

初夏を感じる連休でしたが、今朝はこれからの季節に備えて
今季初、旧堀田古城園中庭の立ち手水の流水テストを兼ねて
久々の放水でした。
すると、今年も竹筒の中から驚いて飛び出したのはカエル君1号。
信玄ミュージアム開館以降、毎年定位置をキープしている常連さんです。
竹筒への愛着は変わらず、ちょこんと飛び乗っています。

そして、生け垣の中をよく見ると、樹木に同化したカエル君2号を偶然発見。

この子たちも含めて、夕方になるとカエルの合唱が聞こえてくるので、
きっと、まだまだ隠れているのでしょう。

アマカエルの寿命は、野生で4・5年と言われています。
立ち手水のカエル君1号は、おそらく今年で4年目。
鳥やヘビなどの外敵にも襲われず、毎年顔を見せてくれる愛くるしいキャラなので、
少しでも長生きして、元気な姿を見せて欲しいものです。

ご来館の際は、竹筒を覗いてみてください。
きっと、眼が合いますよ😊 


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ゴールデンウィーク中日の様子

2022-05-04 18:07:00 | 紹介
4月下旬頃のお天気予報では、不安定な連休と言われていましたが、
おかげさまで好天に恵まれ、甲府は2日続けて暑い一日となりました。
武田神社を参拝しつつ、整備されて史跡公園となっています館の正門、
大手側も石塁などに登って戦国時代の武士たちと同じような体感を
楽しむ方々も見られました。
新緑に包まれ、史跡散策にはもってこいの陽気です。

信玄ミュージアムにも多くの来館があり、一日中人が絶えない状況でした。
感染症対策をしながら開館していますが、本日は、多くの方が入館されたこともあり、
企画展開催中の特別展示室に設置したコロナ対策のCO2モニターから
初めて換気を促すサインが出ました。
おかげでお昼ころに換気のための入館制限を行いましたので、
待ちきれずにお帰りになった方には大変申し訳ないことをしました。
これも感染拡大予防の取り組みですので、ご容赦ください。

5月5日も平常通り開館いたします。
常設展示室は、各窓開放で換気も十分ですが、特別展示室は、混雑時に
入館規制を行う場合がありますので、ご理解のほど、よろしくお願いいたします。
皆さまのご来館をお待ちしています。
翌6日は、定休日の振替で休館となりますので、くれぐれもお気をつけ下さい。




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