城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

小諸城@長野県

2024-01-02 12:00:00 | 100名城
2024年1月2日

年が明け2024年、おそらく激動の一年が始まることでしょう。
被災された地域の方々の無事を祈り、一日も早い復興を願っております。

新年一発目の城巡りは小諸城からスタートしました。



個人的に小諸市自体、あまり馴染みがなかったので地図でチェックしてから車で向かいました。

ちょうど長野市と群馬県高崎市の中間くらいでしょうか。
電車の場合は信濃鉄道の小諸駅の目の前に城跡があります。

小諸城は日本100名城に選定されている名城。

最初に向かったのは大手門。
大手門は駅前北口にあり、
本丸や二の丸のある曲輪と大手門と付随する三の丸のある曲輪は、しなの鉄道の線路で分断されています。



こちらは大手門公園として独立した広場となっています。
完全に街の一部に溶け込んでいて、市民の為の広場となっています。



ゆったりとした感じが良きです。



肝心の門は迫力満点の櫓門。
国重要文化財に指定されています。



慶長17年(1612年)に仙石秀久によって建造された門で、当時は瓦葺は珍しかったらしく瓦門とも呼ばれていました。



今回は中に入れませんでしたが、限られた日によっては観覧することもできるようです。



鏡柱も巨大で、城の玄関口として申し分のない威厳さを備えながらも華麗な外観。

書院造のテイストが入っていて、内部は畳張りの居間になっているようです。

普通は天守や櫓も含めて、城の建築物は木の板で床を構成することが多いので、かなり珍しい櫓門です。



表口の城門は城の顔なので個人的には一番好きです。

ちなみに小諸城の大手門。
他の城と比べて何か違和感にお気付きだろうか?

通常これだけ立派な石垣を備えたら、石垣の上に櫓を乗っけるのですが、よく見ると小諸城は門と石垣が独立している不思議な作りをしています。



上が小諸城の大手門。下が江戸城の外桜田門。
比べると違いがハッキリ分かります。隣にある石垣の方が門より高いです。

小諸城は城下町よりも低いところに造られた穴城であり、日本で唯一の造りをしています。



門の隣の石垣は展望できる場所となっています。
公園となっている広場は、当時三の丸がありました。



右手には馬場があったそうです。

線路の下を潜ることができるので、駅の南側に向かいます。



潜ってすぐに迎えるのは三の門。
こちらは石垣の上に土塀を建て、その土塀と櫓門が接続しています。

ちなみに、門に掲げられた懐古園と書かれた文字は徳川家康の筆らしいです。



お土産屋の脇を通って本丸に向かいます。



既に立派な石垣がお出迎えします。
他の城よりも一つ一つの石材が大きいので、迫力があります。



振り返っての一枚。
堅固な石垣と三の門がカッコいいです。



坂を登り切るとニの門跡があり、石垣で造られた虎口になっています。

この虎口の石垣にどんな建築物が建っていたのか、当時の様子がすごく気になります。



虎口を抜けるとすぐに二の丸の入り口と巨大な枡形になっています。



二の丸入り口。



脇には大きな鏡石があります。



二の丸跡は見晴らしが良き。
第二次上田合戦時に、徳川秀忠率いる徳川本陣は上田城を見晴らせるこの二の丸に置かれました。

そして上田城を舞台に歴史に残る戦が勃発します。



二の丸から見た虎口。

上から見下ろすことが無いので、この角度から見れるのはレアかも。
上から見る虎口も美しいです。



本丸方面に直進すると、左手に南の丸が現れます。



南の丸は少し高めに置かれています。



一方、右手には北の丸があります。



防御機能性を兼ね備えた曲輪が、綺麗に配置されています。



先の本丸を目の前にして黒門橋を渡ります。
二の丸と本丸は完全に分断されていて、この黒門橋を渡ることでしか、攻め込むことができないようになっています。


黒門橋の下は地形を削り落としたような、大迫力で巨大な堀切?堀?になっています。

下から攻略することも不可能とすると、やはり本丸を攻めるには黒門橋を渡るしか無いようです。
しかし、数千数万の軍勢がこの橋に集結したら、一気に攻撃を受けて甚大な被害は免れないですね。



黒門橋を渡ると、いよいよ本丸跡です。
本丸も一段上がっていて、直線的に三の丸→二の丸→本丸と段になった連郭式の城郭なのが分かります。



本丸を目の前にして最後の虎口が現れます。
ニの門より高い、約5m程の石垣に囲まれます。




本丸跡は現在、懐古神社となっています。
こちはで御城印を購入することができます。

神殿の脇の細い道から天守台跡に行くことができます。



天守台はコンパクトですが、豊臣秀吉が天下統一した時代には金箔瓦の三層の天守がありました。

秀吉の子飼でもある仙石秀久の城だったので、金箔瓦が許されたものと思われます。

金箔瓦は限られた城にしか使うことが認められていませんでした。



天守台から見た石垣!



柵がないので少し怖いですが、この角度から天守台の石垣を撮れるのもレアです。



ちなみに天守は寛永の初めに落雷で焼失してしました。

その後、江戸幕府からの許しが出なかった為に再建はされませんでした。



石垣は野面積みで高さは約6m。
天守が隅に置かれ、本丸を囲むように石垣で取り囲んでいます。

さらに、この石垣の上を歩くことができます。



天守から見た景色。
先には北アルプスの絶景を望むことができます。

いつも通り、昔もこの景色を眺めていたのだろうと妄想します。
過去も現代も、そしてこれからも変わることなく人を魅了し続ける景色です。



石垣の上を歩いて本丸を後にします。



本丸跡を下から確認!
下から見ると、より一層美しい石垣を眺めることができます。









下から見た天守台。
先ほどの上から見下ろす石垣も良きですが、やはり石垣は下から見上げた方が個人的に好きかな。



富士見台からの眺望。

目の前には千曲川が流れており、小諸城は千曲川の断崖を利用し、さらに浅間山の田切地形の深い谷を空堀として活用しているので天然の要害によって堅固な城となっています。





二の丸、本丸はこんな断崖の上に配置されています。

小諸城は武田信玄の命を受けた、軍師山本勘助が縄張りをして城郭を整備したと伝わっています。

武田氏が滅びると織田信長の家臣、滝川一益の持城となり、織田信長が倒れると北条氏が侵攻。

その後は徳川、北条、上杉、真田による争奪戦になりました。

最終的には豊臣秀吉の仲裁があって徳川の所領に。

しかし、豊臣秀吉が天下を統一すると徳川家康は関東に移封。
仙石秀久が小諸五万石の大名として城主になります。

江戸時代、小諸藩初代藩主となった仙石秀久は大手門や石垣を含めた城郭整備、城下町や街道の整備も行いました。
その後、小諸城の城主は徳川氏・松平氏などに変わり、元禄15年(1702年)与板藩(新潟県長岡市)から移封された牧野氏が十代・170年に渡り藩主を勤めました。
小諸城の歴代城主を見ても、戦国時代に重要拠点だったことが分かります。
まるで山城のような天然の遺構と、近世の石垣などの遺構が同時に見ることができて魅力ある城でした。


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