松ひとり言

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京都文化博物館の黒田清輝展に見る≪昔語り≫と清閑寺

2014年06月25日 16時51分14秒 | 日記

《黒田清輝展のポスターですが残念ながら売ってないんです  なんでやね~》

先週6月19日!清閑寺から円山まで  頑張って歩いた記録をブログしました

ず~と以前から『小督の局』の供養塔のある清閑寺へ行きたかったのが実現出来た

高倉天皇との悲恋物語の終焉の地・・・清閑寺・・・そこに黒田清輝が尋ねていた事実を

清閑寺で初めて知ったのでした「昔語り」の絵は50年以上前から知っていたのに

それに13年前にも黒田清輝展に行っているのです、3年前に亡くなった母と一緒に

場所は滋賀県瀬田にある『滋賀県立近代美術館』でした(湖畔しか記憶にないんです)

《これが13年前のポスターです、額に入れて飾ってます、だから今回も欲しかった》

誠にお恥ずかしい事です 今回の京都文化博物館での黒田清輝展が僕にとって

大変意義深いものになり、改めて黒田清輝の絵にたいする本物の姿勢を知りました

それは、当たり前の事ですが、基本がどれだけ大切であるか、人生に於いてもですが

一つの作品に対して、スケッチやデッサンを驚くほど入念に描いている事でしょう

その手帳が今回の展示で数多く出展されています、筋肉の動きまで研究していようとは

まるで、ミケランジェロやレオナルドダビンチの域に達していたと言っても過言ではない

重要文化財の【湖畔】や【智・感・情】も素晴らしいのですが、我々京都人としては

誠に惜しくも焼失してしまった【昔語り】こそが名画中の名画ではないかと思うのです

僕にとって、特にこの昔語りの内容が、”小督と高倉天皇”の悲恋物語であると言う事です

話に入る前に、まず絵を見て頂きましょう・・・焼失しているので下絵しかありませんが

《全体の絵としては、上の作品が残っているだけです、右端に高倉天皇の御陵が描かれています》

黒田清輝は1866年島津藩士、黒田清兼の長男として生まれたが、

清兼の兄清綱の養子となる、1884年義理の兄がフランス公使館に

赴任するのに、法律家を目指していた清輝は、同行する事と成る

しかし元々画家の才能のあった黒田は周囲の勧めから画家になる決心を

そして、ラファエルコランと言う画家に師事する事と成った

フランスでの9年間の滞在中、徹底してデッサンを勉強した、そして力をつけて

9年後に帰国して、一番に尋ねたのが京都であり、この清閑寺であったのです

そこで、住職から平家物語の中の”小督の局と高倉天皇”の悲恋物語を聞くのです

当時の権力者”平清盛”はまだ幼少の高倉天皇に我が娘”徳子”を嫁がせます

しかし、しっくり往かない高倉に美しい小督を与えます、にも関わらず清盛は激怒

最初は小督から身を引きます、高倉は悲しみの中で、小督が嵯峨野にいる事を知り

笛の名手”仲国”に連れ戻させます、一度は戻ったものの、清盛の逆鱗のもと

今度は「頭を丸めて、追放にしろ」との怒りのもと、ここ清閑寺へ幽閉されます

この様な話を住職から聞いた黒田は、住職の話の旨さと内容に感動して

この話を時の文部大臣西園寺公に話すと、すぐに住友家に伝わり、

製作の依頼と資金援助を受ける事となり、二年間はこの作品の製作に没頭する 

《下絵のその又下絵です、何度も何度も、デッサンを繰り返し、2年懸けた大作が焼失とは》

    

  《この物語の主役格の昔語りをしている僧侶、顔だけ、手だけとまだまだあります、》

  

   

  

  《この男衆の後姿、会場には裸体で、しかも筋肉の入り方まで細かく描いている》

今回の展示でいかに≪昔語り≫に力を入れているかが、その量で分かります

≪昔語り≫のコーナーを一部屋の70%使っていることでもわかるでしょう

7月の21日まで開催されています、京都観光を兼ねていらっしゃいませんか

 

《この2作品は、いくら探しても見つかりませんでした、湖畔の次に見たかった作品やったのに》

少し余談ですが、先程の13年前のポスターにも日付が入っていますが

2001年は何度も言っている様に『李白生誕1300年』の年でした、

これを見てください・・・・

 

黒田清輝の滋賀県での展覧会の年、しかも一ヵ月後に出発しています

李白も行った?、楽山大仏、峨眉山、そして今回のメイン、江油市にある

李白記念館への4泊5日の詩吟旅でした、詳しくは又近日中に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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