緑香庵通信

三軒茶屋から世田谷線で6分・松陰神社前のアロマテラピーサロン。

梅干し2018

2018-06-24 14:02:49 | 「緑香庵」的なもの

夏至に梅干しを漬けた。

梅干し初トライは2011年だったな。

老親の介護で肉体精神ともに破裂しそうだった時、

八百屋の店先で熟れすぎてお安くなってる梅を見かけ、何の気の迷いか1kgばかり漬けてみたのが始まり。

不思議なことに、地に足がついたというか、久しぶりに生きた心地がしたというか、バランスが帰ってきたように思えて、この作業が気に入ってしまった。

それから毎年、梅農家さんから完熟して自然に落下した梅を送ってもらって漬けている。

いわゆるスロウなライフしてるわけでもなく、丁寧な暮らしでもなく、ただただなんとなく面白くて続けている。

今年の梅は少し小ぶりかな〜。

 

箱を開けるとまるで桃のような甘い香り。

 

優しく洗って(完熟なので傷みやすいからね)

焼酎をスプレーしてから

 

塩をまめまめして(昔ながらの20%)

 

桶に並べ

 

水入りペットボトルの重しをして

 

出来上がり。

 

すぐに梅酢が上がってくるので、そのまま夏の始まりのピーカン照りまでしばらくの間洗面所の奥でお休み。

 

そうです。サロンで漬けてますのよ。うふふふ。

自宅じゃ土用干しの時に面倒見れないからね。

7月のお天気の良い日、運が良ければベランダでの梅干しがご覧いただけまーす。

(これは去年2017の土用干し)


師走です〜

2017-12-04 19:55:39 | 「緑香庵」的なもの

ご近所さん、国士館大学のイチョウもそろそろ終わりに近づいてきました。

 

今年は更年期の着陸前後の小さな不具合やら、帯状疱疹やら、アクシデントが幾つかありながらも、大きな変調には至らず、概ね無事に暮れていきそうです。相変わらず実家の介護も順調に?継続中。来年もそこそこの健康に恵まれるなら、やれることを出来る範囲で粛々とやっていきたいものだと願っております。

若い頃は「健康」に気を使う中高年を「そんなにまでして長生きしたいかね」と揶揄したりもしたものでしたが、今まさにその中高年になって思うのは、イヤイヤ健康一番でしょ。「破天荒」や「無頼」がかっこよく見える時代は誰にでもあるもの。その素敵な「不」健康の下に実はとんでもない束縛が隠れていることを当時は見抜けなかった。

体調を崩して気づくのは、少しの痛みや不調があるだけで、体も頭も感情もそれに支配されるということ。生き物としては当然のことだけれど、休もうとするのは体だけでなく、全身がその不調の解決に向かいます。たとえ無視しても意識の下では多くのエネルギーがそこに注がれていく。中でも多くのエネルギーを消費する脳が一番省エネを切望するらしい。思考が狭くなり感情も柔らかさを失うのを感じます。それがとても嫌。健康でいたいのは結局「自由でいたいから」。だからこそ、病を得ながらも思考をくもらせず、感受性を伸びやかに広げている人の手記などを読むと、本当に頭が下がります。

年をとり、細胞がだんだん使い古しになっていくことは避けられませんが、それでも今ある自由をなるべく手放さないよう、ささやかな筋トレ、間抜けな自分の姿を毎度確認するだけのダンス、ごくごく大雑把な食べるものへの関心、などなどを、来年も地味に続けていこうと思うわけです。

 

友人からのプレゼント「光る葉っぱ」がどうも咲きそうな気配。

寒いのにね〜。頑張るのね〜。

 


お客さまはなんでも知っている

2016-03-25 10:06:10 | 「緑香庵」的なもの

面白い本、心地よい音楽、美味しい食べ物、花粉症にいいサプリから身体の動かし方まで、新しいことを教えてくださるのはいつもお客さま。びっくりするほどどんぴしゃの情報を運んできてくれます。

「きっと加藤さん、好きだと思いますよ」と、教えていただいた物語にどっぷりはまり、今や虜の上橋菜穂子。私設、作家の殿堂に仲間入り。(ちなみに殿堂入りは他に2名。フィリップ・K・ディックとジョン・アーヴィング。こりゃどうでもいいか。)

 

 

自分だったらおそらく手に取らない表紙なんだけどなあ。でも読んでみたら大好きな世界だった。お客さまは私より私のことを知ってらっしゃる。介護問題で心も頭もパンパンの時は、到底ファンタジーなど読む気になれなかったけれど、こうしてみると、やっと私の中身も落ち着いてきたらしい。何度も繰り返し味わって楽しんでいる。とうとう実写版「守り人シリーズ」も始まりましたね。ワクワク。

物語は頭の中でいつも声で聞こえている。それが実際の役者さんの声になるのが、心配でもあり楽しみでもあり。やっぱりワクワク。


お見送りはみんなで寄ってたかって

2013-04-07 10:33:15 | 「緑香庵」的なもの
「しぬときはひとりぼっち」というレイ・ブラッドベリの小説があった。
本当にそうだな、と思う(以下、小説の内容とは関係ない)。

生まれる時は、ひとりで生まれてくることはできない。
必ず生む人、母親が必要。
受精のためには父親が必要。
だが、死ぬ時はどうだろう。
命の火を吹き消す死神がいるのだろうか。
生き物としての人の死は、死んでいく人の中でひとりで進行し成し遂げられる。

■ 人間は看取る動物である
看護だ介護だお別れだと、主にそれは家族だが、
死に際して大騒ぎする動物が他にいるだろうか。
生物にとって最大の恐怖である「死」に意味付けし解釈することで、
なんとか折り合いを付けようとするのは、
人間に特有の仕事なんじゃないだろうか。
巨大化した大脳皮質の外側が一生懸命やっていること、つまり文化。
人間は看取る動物なのである。

■ 寄ってたかって見送る
だとすれば、いっそお見送りは社会みんなで寄ってたかってするのが、
より人間的なのではないかしら。
血を分けた子供に手を握られて最期の息を引き取ることが最良の終わり方だと、いつ誰が決めたんだろう。
何故それを固く信じているのだろう。
そうでありさえすれば、その死は孤独じゃないとでも言うのだろうか。
それはある時代のある文化の限られた小さな価値観にすぎないような気がする。
もちろん本人の望みは尊重されるべきだけれど。

子供の到着を待つためだけに、過剰な延命処置がされることもあるそうだ。
血が繋がってるからとかそうじゃないからとか関係なく、寄ってたかってみんなでお見送り、それでいいんじゃないのかなと思う。
むしろその方が孤独死なるものを避けられるような気がする。
私のような子供を持たぬものは、もうそれで寂しく惨めな死が約束されちゃったんだとすれば残念きわまりない。
そうじゃなくありたいと願う。

■ 関わる
死ぬ瞬間はできれば穏やかであればありがたいが、
それだって選べないし、どんな不条理に巻き込まれるやも知れないし。
「しぬときはひとりぼっち」だからこそ、
そのときは見知らぬ皆さんに「寄ってたかって」よろしくお願いしたい。

私もこれから出会うかもしれないお見送りには、
なるべく遠巻きにしないで、おせっかいと言われても関わろうと思うんだ。


家に猫がきた

2013-03-18 09:00:00 | 「緑香庵」的なもの
あまりプライベートなことを書くのもどうかと思いつつ。
血中の脂質の増減まで開陳してるくせに。

実家に猫がきましたの。昨年の夏。
も、たまらんの。
実はすごい猫好き。
我慢できないのでのせちゃいます。
よいこです。

ていうか、この世の全てのねこはよいこです。
Koro