たけなわですね「夏の冷え」。
死亡者も出ている記録的な猛暑に、何を言ってるんだと
お叱りを受けそうですが...。
熱中症は、1)暑い中での、また体調不良時の無理な運動を避ける
2.)水分の補給、の2つを守っていれば防げます。
むしろこの時期、人数としては「夏の冷え」の問題を
抱えている方が多いのではないかという実感を持っています。
緑香庵にみえるお客様の中にも、背中から腰にかけて、
足首から膝の辺り、ひんやりしている方がたーくさんいらっしゃいます。
■タオルで自衛
かくいう私も、汗をよくかくせいか、
汗をかいた後によーく冷えてしまいます。
汗はしっかりかかないといけない、
でもその後の処理に気をつけないと、
汗でぬれた衣類ごと冷房で冷やされるのでなおさら冷たくなる---
というワケで、体のあちこちに小さなタオルを挟み込んで
ひたすら自衛です。
タオルなら簡単に外せる、洗える、干せる。
そんなに何枚もバッグに下着を入れて歩くわけにいかないので、
タオルは便利です。
特にお腹周り、腰回りを守るよう心がけています。
なんでこんなに「冷え」「冷え」と連呼しているかという
その理由を今日はご説明いたしましょう。
■自覚が少ない「冷え」
一般に冷え性というと女性特有のものと思われがちです。
男性はぜんぜん自分には関係がないと思っていませんか。
女性でも、別に手足が冷たくないし、私は冷え性じゃないと
思っている方もいます。
ですが、どんな人にも冷えは現れます。
気がつかないうちに冷えをためこみ、
不調が出てはじめて気がつくというのがよくあるパターン。
言い換えれば不調の前にはたいてい冷えがある。
そのことを自覚できている人の方が少ないのが実態でしょう。
■体温と体内化学反応
「冷え」即ち血行不良、体液の滞りを意味します。
栄養も酸素も不要になった老廃物も、全ては血液、
リンパ液などによって運ばれて行きます。
冷え、イコール体内のインフラ不備。
冷えているから血液が滞るのか、血行が悪いから冷えるのか、
どちらが先かはともかく、それだけでも健やかな毎日の
生命活動に良くなさそうなことは想像できますよね。
冷えているということは実際にその部分の体温が低いということです。
体温が低いことのデメリットは何か。
生命活動のいたるところで行なわれている酵素の反応が鈍くなること、
免疫細胞の活動が鈍くなること、
そしてヒートショックプロテインの生産が衰えること
などが考えられます。
■冷えると間違いが直らない
ヒートショックプロテインとは、
損傷を受けたタンパク質を元通りに修復する機能をもつタンパク質で
体温プラス2度の状態で生産されるものが最もよく活動すると言われています。
体内では、絶えず新しい細胞が生まれていますが、
同時に様々な理由で絶えず無数の「間違い」もおこるので、
好ましくない細胞(間違った細胞)もどんどん生まれています。
たいていはすぐに間違いが修復され、
それでも残ったものは免疫機構により処理されて、
大事に至らずに粛々と毎日の健康が維持されているのです。
しかし、体温が足りないとこのシステムがよく働きません。
「間違った細胞」が見逃されて、それがたくさんになると、
なんらかの症状が現れ発病となるわけです。
ね、温かいということは大事でしょ。
■DNAに書いてある
そして、冷たいということに本当に人は無頓着なものなんです。
何万年もの間、人間の身体は、遺伝子書かれた
「夏は暑いよ。熱中症にならないように汗かいて体を冷やそう」
という仕様書に基づいて、作られてきています。
それをたかだか数十年、クーラーやら冷蔵庫やらを手に入れて
夏でも冷たい部屋でアイスクリームを食べるようになったところで、
そうやすやすと順応できるわけがありません。
太陽の周りをグルグルずーっと回って来たDNAを
甘くみちゃいけません。
意識なんかよりずっと頑固ですからね。
とにかくこの時期の身体 は、すきあらば冷えようとしちゃうんですから。
それを文明の機器でどんどん冷やしたら、
冷やし過ぎになるに決まってるじゃありませんか。
気をつけましょう、夏の冷え。
■冷えるとどうなるか
「冷え」の弊害の出方は多様です。
良く言われるように女性は生殖系に出る方がとても多いです。
足首、首周り、腰、下腹部特に気をつけてくださいね。
男性は筋肉が多い分、熱生産が多いので気づきにくいですが、
「冷え」が精神的な部分にもおおいに関係するようです。
お風呂につかって温まって、毛穴をぽかーんと開けてあげましょう。
楽になりますよ。汗は良く拭いてね。
死亡者も出ている記録的な猛暑に、何を言ってるんだと
お叱りを受けそうですが...。
熱中症は、1)暑い中での、また体調不良時の無理な運動を避ける
2.)水分の補給、の2つを守っていれば防げます。
むしろこの時期、人数としては「夏の冷え」の問題を
抱えている方が多いのではないかという実感を持っています。
緑香庵にみえるお客様の中にも、背中から腰にかけて、
足首から膝の辺り、ひんやりしている方がたーくさんいらっしゃいます。
■タオルで自衛
かくいう私も、汗をよくかくせいか、
汗をかいた後によーく冷えてしまいます。
汗はしっかりかかないといけない、
でもその後の処理に気をつけないと、
汗でぬれた衣類ごと冷房で冷やされるのでなおさら冷たくなる---
というワケで、体のあちこちに小さなタオルを挟み込んで
ひたすら自衛です。
タオルなら簡単に外せる、洗える、干せる。
そんなに何枚もバッグに下着を入れて歩くわけにいかないので、
タオルは便利です。
特にお腹周り、腰回りを守るよう心がけています。
なんでこんなに「冷え」「冷え」と連呼しているかという
その理由を今日はご説明いたしましょう。
■自覚が少ない「冷え」
一般に冷え性というと女性特有のものと思われがちです。
男性はぜんぜん自分には関係がないと思っていませんか。
女性でも、別に手足が冷たくないし、私は冷え性じゃないと
思っている方もいます。
ですが、どんな人にも冷えは現れます。
気がつかないうちに冷えをためこみ、
不調が出てはじめて気がつくというのがよくあるパターン。
言い換えれば不調の前にはたいてい冷えがある。
そのことを自覚できている人の方が少ないのが実態でしょう。
■体温と体内化学反応
「冷え」即ち血行不良、体液の滞りを意味します。
栄養も酸素も不要になった老廃物も、全ては血液、
リンパ液などによって運ばれて行きます。
冷え、イコール体内のインフラ不備。
冷えているから血液が滞るのか、血行が悪いから冷えるのか、
どちらが先かはともかく、それだけでも健やかな毎日の
生命活動に良くなさそうなことは想像できますよね。
冷えているということは実際にその部分の体温が低いということです。
体温が低いことのデメリットは何か。
生命活動のいたるところで行なわれている酵素の反応が鈍くなること、
免疫細胞の活動が鈍くなること、
そしてヒートショックプロテインの生産が衰えること
などが考えられます。
■冷えると間違いが直らない
ヒートショックプロテインとは、
損傷を受けたタンパク質を元通りに修復する機能をもつタンパク質で
体温プラス2度の状態で生産されるものが最もよく活動すると言われています。
体内では、絶えず新しい細胞が生まれていますが、
同時に様々な理由で絶えず無数の「間違い」もおこるので、
好ましくない細胞(間違った細胞)もどんどん生まれています。
たいていはすぐに間違いが修復され、
それでも残ったものは免疫機構により処理されて、
大事に至らずに粛々と毎日の健康が維持されているのです。
しかし、体温が足りないとこのシステムがよく働きません。
「間違った細胞」が見逃されて、それがたくさんになると、
なんらかの症状が現れ発病となるわけです。
ね、温かいということは大事でしょ。
■DNAに書いてある
そして、冷たいということに本当に人は無頓着なものなんです。
何万年もの間、人間の身体は、遺伝子書かれた
「夏は暑いよ。熱中症にならないように汗かいて体を冷やそう」
という仕様書に基づいて、作られてきています。
それをたかだか数十年、クーラーやら冷蔵庫やらを手に入れて
夏でも冷たい部屋でアイスクリームを食べるようになったところで、
そうやすやすと順応できるわけがありません。
太陽の周りをグルグルずーっと回って来たDNAを
甘くみちゃいけません。
意識なんかよりずっと頑固ですからね。
とにかくこの時期の身体 は、すきあらば冷えようとしちゃうんですから。
それを文明の機器でどんどん冷やしたら、
冷やし過ぎになるに決まってるじゃありませんか。
気をつけましょう、夏の冷え。
■冷えるとどうなるか
「冷え」の弊害の出方は多様です。
良く言われるように女性は生殖系に出る方がとても多いです。
足首、首周り、腰、下腹部特に気をつけてくださいね。
男性は筋肉が多い分、熱生産が多いので気づきにくいですが、
「冷え」が精神的な部分にもおおいに関係するようです。
お風呂につかって温まって、毛穴をぽかーんと開けてあげましょう。
楽になりますよ。汗は良く拭いてね。
今年の「初トンボ」は8月1日でした。
トンボを見ると、なんだか夏がもう終わりに向かっている
気がします。
梅雨明けは遅いわ、台風は来るわ、夏の始まりのキラキラの
数日間を今年は味わえぬまま、蒸し暑く寝苦しい真夏に
なっちゃいました。
あー、今年はこんな夏なの?
「さよならトンボ」という写真集(写真絵本)を見つけました。
写真集はわりと好きでちょいちょい眺めます。
この「さよならトンボ」は子供向けのようでもありますが、
大人の目線で見ると胸に来るものがあります。
生き物は死に向かって生きていることを思い出させられました。
特に冬の写真は言葉を無くします。
機会があったらご覧になってください。
■日々、試行錯誤
一周年を前に緑香庵ではシーツ問題に悩んでいます。
マッサージベッドの敷物はサロンによっていろいろです。
普通の布帛のシーツ、パイルシーツ、ガーゼ素材、
使い捨てタイプの不織布、大判のタオル等々。
ほとんど裸で横たわる場所なので、できるだけ気持ちよく
肌触りのいいものをと思うのですが、
洗濯に耐えること、また適当に扱いやすいもの
(あまりかさがはると洗濯にも乾かすにも困ってしまう)、
となるとなかなか決定打が出ません。
で、ただ今いろいろと試行錯誤中。
行くたびにリネン類が違うというのはサロンとしてはどうか
と思いますが、どんどんマイナーチェンジをしていけるのも
小さな個人サロンの特権と思い、恐れず工夫を重ねていくつもりです。
もうしばらくおつき合いください。
■自分がBGMになる
緑香庵の仕事、未だルーティン化できない部分もたくさんありながら、
最近は色々なことが落ち着いて来ました。
このごろは気持ちの上で少しゆっくりお客様と向かい合えるようになって、
マッサージ後の結果が少し変わって来たように思います。
抽象的な言い方になりますが、
お客様の何にコンタクトすれば良いのか、
私なりに掴めて来た気がしています。
通常、人は自分の一番「表面」で社会と接しています。
多くは意志の力でコントロールされている部分です。
いわゆる接客の瞬間はこの表面とまず対峙することになります。
でも、トリートメントで扱うのは体であり、
「表面」には出ていない、無意識の部分を多く表現している場所に
こそ私の対象はあるわけです。
そこにコンタクトするためには、
「表面」に対してガチンコで臨むとたいてい上手く行きません。
音楽で言うなら、相手が自分のテーマフレーズを
一生懸命ソロで演奏している時に、正面からソロで応酬
しようすると、ある種バトルのようになってしまい
緊張が高まります。
スリリングなセッションにはなるかもしれませんが、
トリートメントで期待するところとは反対の結果を生む可能性があります。
筋肉はほぐれても気持ちが疲れてしまったら意味がありません。
人は「コントロールされそうになる」ことにとても敏感なので、
たとえその施術が方向性として正しかったとしても、
抵抗が生まれるのを避けるのは難しくなります。
むしろ、私はBGM(背景音楽)に徹すること、
しかも質の良いBGMであることが大事だと感じています。
相手がBGMに浸りながら自分の演奏に入り込むうちに、
自分でも気がつかなかった抑圧が外れ、
自由な体、自由な心でよりいっそういきいきと演奏できるように
なっていただければ大成功です。
そのためには前のめりにフォーカスせず、
少し引いてお客様の全景をふんわりキャッチすること、
そしてお客様とふんわりとした時間を共有すること。
ますます抽象的になりましたが、最近心がけているのはそんなことです。
私がきりっとやる気満々でトリートメントすると、
どうも結果が芳しくない気がします。
自分でも眠くなるくらい一緒にぼーっとできると、
お客様もとても深くリラックスしてくださっているように思います。
アロマテラピーのマッサージの醍醐味はなんと言っても
この深ーいリラックスですから。
■毎日に感謝
技術そのもののブラッシュアップも終わりがありませんが、
自分の状態をどうもっていくか、自分自身のあり方の調整、
これも面白くて興味がつきません。
実を言えば、もともと私はあまり人付き合いが上手な方ではないので、
例えば店頭での接客や営業等ではうまく続けて行くことは
できないかもしれません。
でも緑香庵での接客は不思議なほど負担が少ないです。
多分、真正面からのバトルが必要ないからだと思います。
むしろ、色々なお客様から教えていただく
日常のなんでもない話が面白くてしょうがありません。
月並みですが「みんな色々な生活があり、色々な思いをしながら、
毎日生きているのねえー」と感慨を憶えます。
まさにその生きている体に触れさせていただくというのは
本当に責任の重い仕事であり、
ありがたいことだとあらためて思います。
緑香庵は皆様にリラックスを味わっていただき、
自分の体を再認識していただくとともに
自分自身を慈しんでいただく場所ですが、
私にとっても、トリートメントしながら自分自身を再認識し
大切にすることができる場所でもあるんです。
トンボを見ると、なんだか夏がもう終わりに向かっている
気がします。
梅雨明けは遅いわ、台風は来るわ、夏の始まりのキラキラの
数日間を今年は味わえぬまま、蒸し暑く寝苦しい真夏に
なっちゃいました。
あー、今年はこんな夏なの?
「さよならトンボ」という写真集(写真絵本)を見つけました。
写真集はわりと好きでちょいちょい眺めます。
この「さよならトンボ」は子供向けのようでもありますが、
大人の目線で見ると胸に来るものがあります。
生き物は死に向かって生きていることを思い出させられました。
特に冬の写真は言葉を無くします。
機会があったらご覧になってください。
■日々、試行錯誤
一周年を前に緑香庵ではシーツ問題に悩んでいます。
マッサージベッドの敷物はサロンによっていろいろです。
普通の布帛のシーツ、パイルシーツ、ガーゼ素材、
使い捨てタイプの不織布、大判のタオル等々。
ほとんど裸で横たわる場所なので、できるだけ気持ちよく
肌触りのいいものをと思うのですが、
洗濯に耐えること、また適当に扱いやすいもの
(あまりかさがはると洗濯にも乾かすにも困ってしまう)、
となるとなかなか決定打が出ません。
で、ただ今いろいろと試行錯誤中。
行くたびにリネン類が違うというのはサロンとしてはどうか
と思いますが、どんどんマイナーチェンジをしていけるのも
小さな個人サロンの特権と思い、恐れず工夫を重ねていくつもりです。
もうしばらくおつき合いください。
■自分がBGMになる
緑香庵の仕事、未だルーティン化できない部分もたくさんありながら、
最近は色々なことが落ち着いて来ました。
このごろは気持ちの上で少しゆっくりお客様と向かい合えるようになって、
マッサージ後の結果が少し変わって来たように思います。
抽象的な言い方になりますが、
お客様の何にコンタクトすれば良いのか、
私なりに掴めて来た気がしています。
通常、人は自分の一番「表面」で社会と接しています。
多くは意志の力でコントロールされている部分です。
いわゆる接客の瞬間はこの表面とまず対峙することになります。
でも、トリートメントで扱うのは体であり、
「表面」には出ていない、無意識の部分を多く表現している場所に
こそ私の対象はあるわけです。
そこにコンタクトするためには、
「表面」に対してガチンコで臨むとたいてい上手く行きません。
音楽で言うなら、相手が自分のテーマフレーズを
一生懸命ソロで演奏している時に、正面からソロで応酬
しようすると、ある種バトルのようになってしまい
緊張が高まります。
スリリングなセッションにはなるかもしれませんが、
トリートメントで期待するところとは反対の結果を生む可能性があります。
筋肉はほぐれても気持ちが疲れてしまったら意味がありません。
人は「コントロールされそうになる」ことにとても敏感なので、
たとえその施術が方向性として正しかったとしても、
抵抗が生まれるのを避けるのは難しくなります。
むしろ、私はBGM(背景音楽)に徹すること、
しかも質の良いBGMであることが大事だと感じています。
相手がBGMに浸りながら自分の演奏に入り込むうちに、
自分でも気がつかなかった抑圧が外れ、
自由な体、自由な心でよりいっそういきいきと演奏できるように
なっていただければ大成功です。
そのためには前のめりにフォーカスせず、
少し引いてお客様の全景をふんわりキャッチすること、
そしてお客様とふんわりとした時間を共有すること。
ますます抽象的になりましたが、最近心がけているのはそんなことです。
私がきりっとやる気満々でトリートメントすると、
どうも結果が芳しくない気がします。
自分でも眠くなるくらい一緒にぼーっとできると、
お客様もとても深くリラックスしてくださっているように思います。
アロマテラピーのマッサージの醍醐味はなんと言っても
この深ーいリラックスですから。
■毎日に感謝
技術そのもののブラッシュアップも終わりがありませんが、
自分の状態をどうもっていくか、自分自身のあり方の調整、
これも面白くて興味がつきません。
実を言えば、もともと私はあまり人付き合いが上手な方ではないので、
例えば店頭での接客や営業等ではうまく続けて行くことは
できないかもしれません。
でも緑香庵での接客は不思議なほど負担が少ないです。
多分、真正面からのバトルが必要ないからだと思います。
むしろ、色々なお客様から教えていただく
日常のなんでもない話が面白くてしょうがありません。
月並みですが「みんな色々な生活があり、色々な思いをしながら、
毎日生きているのねえー」と感慨を憶えます。
まさにその生きている体に触れさせていただくというのは
本当に責任の重い仕事であり、
ありがたいことだとあらためて思います。
緑香庵は皆様にリラックスを味わっていただき、
自分の体を再認識していただくとともに
自分自身を慈しんでいただく場所ですが、
私にとっても、トリートメントしながら自分自身を再認識し
大切にすることができる場所でもあるんです。
二十代のころ趣味で陶芸をやっていた時のことです。
私はまだ習い始めたばかりで、手捻り(てびねり。ロクロをつかわず
手で作るもの)ばかりを作っていました。
先生が妙に「味がある、味がある」と誉めてくれるのですが、
自分ではなんだか、もっちゃりとして格好悪いなという気がして、
先生が何を良しとしてくれているのかさっぱり理解できませんでした。
1年ほどしてロクロを触るようになり、
どうにかブレずに中心の通ったものができるようになってくると、
だんだん見えて来たんです、「真円」が。
町で売られている茶碗でも、たとえ工場生産の物でも、
すっきりとした「真円」のものとわずかに歪んでいる物との
違いが感じられるようになって来たのです。
そうすると今度は、初めの頃のいびつな作品の良さも
じわっとわかるようになってきました。
■「感じる」と「できる」
何かができるようになる(Do)ということと、
何かを感じられる(Feel)ようになるということは、
いつも同時進行です。
感じられるとは、感覚の目盛(めもり)を細かくしていくことであり、
感覚できる領域を広げることでもあります。
このことなしに、「できない」から「できる」へ移行することはありません。
また、「感じない(わからない)」から「感じる(わかる)」までの間には、
無数のトライ&エラーが隠されていて、
意識に上らない領域での試行錯誤が実はたくさん行なわれているはずです。
《緑香庵のベランダも夏です》
声の修行をやっていた頃(われながら経歴に脈絡が無いなあ)、
ヴォイストレーナーの先生に「2週間でまず耳が変わる。」と
言われたことがあります。
まず耳が変わって、然る後に自分の発声が変わってくる。
なるほど、 CDから聞こえる歌い手たちの声の聴こえ方が
変わってくるのが自分でも分かった瞬間がありました。
まるで「体の様子を聴いている」ような、
またそれを自分の体の中で再現しているような、
不思議な感じでした。
そういう瞬間にすかさず声を出すと、面白いようにコピーできました
(ワンフレーズくらいなら)。
ふと我に帰るとすぐできなくなるのですが。
そういう時は、耳で聴いて脳で処理して再現してという感じではなく、
体全体でキャッチして体全体でアウトプットするという感じになるのです。
■最近やっとわかってきたこと
さて、これらのこと全てに共通するのが、言い古されたことではありますが、経験する「量」と「時間」の必要性です。
量にはもちろん質の側面も含まれます。
特に今感じるのが「時間」の要素。
緑香庵を始めてようやく1年になろうとしています。
拙い私の技術でも喜んでくださるお客様がいること、
何度もリピートして来てくださる方がいること、本当にありがたいです。
そんな中で、私の「Feel」にもそれなりの変化がやってきています。
1年前にはわからなかったこと、
学校で先生からいくら言われても実感として理解できなかったこと、
そういうことのいくつかが、トリートメントしながら
最近少しわかるようになってきました。
それが何か具体的に言葉にすることが出来ないのですが、
強いて言うなら、知識としての骨の形、筋肉の位置が、
人の体のシステムとして全体的にしっくり手に感じられる
ようになってきたというか、
手から得られる情報量が格段に増したというか…。
手だけではなく目も。
たとえばわずかに硬直して血行不良になっているような部位が、
見た目の違和感としてキャッチできるようになったというか…。
■いつでも「途中」ですが...
まあ、とにかく上手く言葉にならないのですが、
それとともに私のアウトプットがどう変化していくのか、
自分でも楽しみなところです。
いつもお客様の前に立つ私は「途中の」私で申し訳ないのですが、
それでもその時点では生涯最高に仕上がった状態なので許してください。
もっと成長して、明日はよりよいトリートメントができるように、
「途中の」私は頑張らなくちゃね。
私はまだ習い始めたばかりで、手捻り(てびねり。ロクロをつかわず
手で作るもの)ばかりを作っていました。
先生が妙に「味がある、味がある」と誉めてくれるのですが、
自分ではなんだか、もっちゃりとして格好悪いなという気がして、
先生が何を良しとしてくれているのかさっぱり理解できませんでした。
1年ほどしてロクロを触るようになり、
どうにかブレずに中心の通ったものができるようになってくると、
だんだん見えて来たんです、「真円」が。
町で売られている茶碗でも、たとえ工場生産の物でも、
すっきりとした「真円」のものとわずかに歪んでいる物との
違いが感じられるようになって来たのです。
そうすると今度は、初めの頃のいびつな作品の良さも
じわっとわかるようになってきました。
■「感じる」と「できる」
何かができるようになる(Do)ということと、
何かを感じられる(Feel)ようになるということは、
いつも同時進行です。
感じられるとは、感覚の目盛(めもり)を細かくしていくことであり、
感覚できる領域を広げることでもあります。
このことなしに、「できない」から「できる」へ移行することはありません。
また、「感じない(わからない)」から「感じる(わかる)」までの間には、
無数のトライ&エラーが隠されていて、
意識に上らない領域での試行錯誤が実はたくさん行なわれているはずです。
《緑香庵のベランダも夏です》
声の修行をやっていた頃(われながら経歴に脈絡が無いなあ)、
ヴォイストレーナーの先生に「2週間でまず耳が変わる。」と
言われたことがあります。
まず耳が変わって、然る後に自分の発声が変わってくる。
なるほど、 CDから聞こえる歌い手たちの声の聴こえ方が
変わってくるのが自分でも分かった瞬間がありました。
まるで「体の様子を聴いている」ような、
またそれを自分の体の中で再現しているような、
不思議な感じでした。
そういう瞬間にすかさず声を出すと、面白いようにコピーできました
(ワンフレーズくらいなら)。
ふと我に帰るとすぐできなくなるのですが。
そういう時は、耳で聴いて脳で処理して再現してという感じではなく、
体全体でキャッチして体全体でアウトプットするという感じになるのです。
■最近やっとわかってきたこと
さて、これらのこと全てに共通するのが、言い古されたことではありますが、経験する「量」と「時間」の必要性です。
量にはもちろん質の側面も含まれます。
特に今感じるのが「時間」の要素。
緑香庵を始めてようやく1年になろうとしています。
拙い私の技術でも喜んでくださるお客様がいること、
何度もリピートして来てくださる方がいること、本当にありがたいです。
そんな中で、私の「Feel」にもそれなりの変化がやってきています。
1年前にはわからなかったこと、
学校で先生からいくら言われても実感として理解できなかったこと、
そういうことのいくつかが、トリートメントしながら
最近少しわかるようになってきました。
それが何か具体的に言葉にすることが出来ないのですが、
強いて言うなら、知識としての骨の形、筋肉の位置が、
人の体のシステムとして全体的にしっくり手に感じられる
ようになってきたというか、
手から得られる情報量が格段に増したというか…。
手だけではなく目も。
たとえばわずかに硬直して血行不良になっているような部位が、
見た目の違和感としてキャッチできるようになったというか…。
■いつでも「途中」ですが...
まあ、とにかく上手く言葉にならないのですが、
それとともに私のアウトプットがどう変化していくのか、
自分でも楽しみなところです。
いつもお客様の前に立つ私は「途中の」私で申し訳ないのですが、
それでもその時点では生涯最高に仕上がった状態なので許してください。
もっと成長して、明日はよりよいトリートメントができるように、
「途中の」私は頑張らなくちゃね。