2019年11月
琉さん二十歳になりました。
重度の障害がある琉さんはこれまでの20年間、どんな生き方をしてきたか...
ある書類の提出がその生い立ちを振り返るきっかけになり、じっくりと思い出してみようと思いました。
少しずつ息子の人生を書いていこう。
琉さんは1999年11月14日に早産、超低出生体重児(在胎24w3d、628g)で生まれました。
生まれたその瞬間、私は正直幸せ一杯の画に描いたような喜びを感じませんでした。
初めての出産、早くその時が来てしまい医師には無事に生まれても生存率はかなり低いことを告げられていたので
何が何だかどうしてよいのか...自分がどんな感情でいるのかさえのかわからない状態でした。
生まれてきた我が子の姿を見たのは
仕切られたカーテンが奥の窓の光でまるでスクリーンのようになり
手のひらに抱かれる我が子がそのスクリーンの前を横切る姿。
琉さん二十歳になりました。
重度の障害がある琉さんはこれまでの20年間、どんな生き方をしてきたか...
ある書類の提出がその生い立ちを振り返るきっかけになり、じっくりと思い出してみようと思いました。
少しずつ息子の人生を書いていこう。
琉さんは1999年11月14日に早産、超低出生体重児(在胎24w3d、628g)で生まれました。
生まれたその瞬間、私は正直幸せ一杯の画に描いたような喜びを感じませんでした。
初めての出産、早くその時が来てしまい医師には無事に生まれても生存率はかなり低いことを告げられていたので
何が何だかどうしてよいのか...自分がどんな感情でいるのかさえのかわからない状態でした。
生まれてきた我が子の姿を見たのは
仕切られたカーテンが奥の窓の光でまるでスクリーンのようになり
手のひらに抱かれる我が子がそのスクリーンの前を横切る姿。
一瞬
その体は濃い茶色の一つの塊に丸と4つの棒がひょろっと生えていて...豆粒がひとつ…
その体は濃い茶色の一つの塊に丸と4つの棒がひょろっと生えていて...豆粒がひとつ…
男の子でした。
息子はそのまま医師に連れていかれ処置を受けNICUへ
私は急な出産のため産婦人科のベッドが空いておらず婦人科の病棟へ運ばれました。
さっきまで自分のお腹の中にいた命がそこにはいなくなった。いまどうしているのか
息子はそのまま医師に連れていかれ処置を受けNICUへ
私は急な出産のため産婦人科のベッドが空いておらず婦人科の病棟へ運ばれました。
さっきまで自分のお腹の中にいた命がそこにはいなくなった。いまどうしているのか
私の赤ちゃん。
息子に会いたい。
とても不安だけど…でも会いたいと思いました。
NICUに息子に会いに行く。
しっかりと手を洗い、医療用ガウンとキャップを着け体験したことのない緊張感
やっと息子に会える
怖い、でも期待もある...
息子に会いたい。
とても不安だけど…でも会いたいと思いました。
NICUに息子に会いに行く。
しっかりと手を洗い、医療用ガウンとキャップを着け体験したことのない緊張感
やっと息子に会える
怖い、でも期待もある...
そしてちゃんと生んであげられなかった罪悪感。
でも、とにかく会いたい!触れて生きている温もりを感じたい。
看護師さんに誘導され息子の保育器の前に行くと
手のひらサイズの小さい体からいろんな管や線が繋がっていました。
まだ、スクリーンに映るシルエットのような姿しか見ていなかったので
良かった。目も鼻も口も指もある...そんなことを思ったのが第一印象でした。
使い捨てカメラでフラッシュなしで撮ったのできれいな写真はないですが(^-^;
息子は呼吸の際に肺胞から分泌される「肺サーファクタント」が十分に作られず呼吸状態が悪く「呼吸窮迫症候群」を発症していました。
そのため「人工肺サーファクタント」を補充し人工呼吸器を使用していました。
心臓、血圧低めで不安定のため昇圧剤を使用し、動脈開存症や黄疸の治療も行っていました。
面会のたびに機械のアラームがなり、看護師さんが飛んでくるんです。
でも、とにかく会いたい!触れて生きている温もりを感じたい。
看護師さんに誘導され息子の保育器の前に行くと
手のひらサイズの小さい体からいろんな管や線が繋がっていました。
まだ、スクリーンに映るシルエットのような姿しか見ていなかったので
良かった。目も鼻も口も指もある...そんなことを思ったのが第一印象でした。
使い捨てカメラでフラッシュなしで撮ったのできれいな写真はないですが(^-^;
息子は呼吸の際に肺胞から分泌される「肺サーファクタント」が十分に作られず呼吸状態が悪く「呼吸窮迫症候群」を発症していました。
そのため「人工肺サーファクタント」を補充し人工呼吸器を使用していました。
心臓、血圧低めで不安定のため昇圧剤を使用し、動脈開存症や黄疸の治療も行っていました。
面会のたびに機械のアラームがなり、看護師さんが飛んでくるんです。
「よっしー呼吸さぼっちゃダメよ~」って人差し指でお尻を軽くペンペン。
母は恐る恐る保育器の小さな窓から指先で我が子に触れて声を掛けることが精一杯なのに。
母は恐る恐る保育器の小さな窓から指先で我が子に触れて声を掛けることが精一杯なのに。
精神的に辛い
気持ちの余裕なんかない
笑顔でいてもいっぱいいっぱい
いつでも崩れ落ち、人前でも大泣きしそうな毎日でした。
こんなに近くにいるのに母は何にも出来ない。
お世話をすることも
こんなに近くにいるのに母は何にも出来ない。
お世話をすることも
命を繋いでもらっていることも
ただただ見ているだけ。
看護師さんは面会時間外の私が見ていない時間の息子の様子をたくさん話してくれる。
看護師さんは面会時間外の私が見ていない時間の息子の様子をたくさん話してくれる。
「お口の管が取れたから泣き声が聞けますよ」
とてもありがたいことです。
なのに家に帰って見る夢は看護師さんが私の目の前からさっと私の子を連れて行ったしまう...私の赤ちゃん連れていかないで…
夢の中で胸が苦しくなり息が出来なくなって泣きながら目覚める、そんな夢をよく見ました。
とてもありがたいことです。
なのに家に帰って見る夢は看護師さんが私の目の前からさっと私の子を連れて行ったしまう...私の赤ちゃん連れていかないで…
夢の中で胸が苦しくなり息が出来なくなって泣きながら目覚める、そんな夢をよく見ました。
現在でも忘れた頃に見ます。
なんでかな…
毎日病院に通い面会の日々
なんか、とにかく人前で泣かないようにしようと思ってました。泣き虫なので。
管が取れ身軽になった頃に眼科に掛かることもありました。「未熟児網膜症」の為、網膜光凝固術というレーザー治療を行いました。
小さい体で治療をとっても頑張ってきた姿にその時はたえられず母は涙しました。
いっぱい痛い思いをさせてゴメンね。
自分を責める。
同時に身軽になったことでたくさんの幸せが訪れました。
抱っこは出来ないので保育器の中で
絞って持ってきた母乳をお口から飲ませてあげたり
保育器から出てステンレスの桶で入浴に立ち合ったり
そして、念願の抱っこしたり...
家族3人の写真を撮ったり
お口からミルクを飲み始め、体重も1000gを超える頃はたくさん触れ合えるようになりました。
やはり母になった幸せは自分の胎内から生まれた温もりが自分が生きるこの世界でもちゃんと温かいままでいられてるか肌で感じること。
お世話すること、泣き声、匂いを感じること。
触れれば触れるほど愛情がまし、何があっても離れたくない絆が芽生える。
この子にもっともっと必要とされたい。
もっともっともっと、それに応えてあげたい。
本当に生まれてきてくれてありがとう。
たくさんの辛いことを乗り越えて生きていてくれてありがとう。
NICUから新生児科に移り約半年後にやっと自宅に帰ることが出来ました。
当時は主治医にその都度、病状などの説明を受けていたと思うのですが日々、理解することが難しくてとにかく生きて!と思うことが精一杯。
退院後、母子手帳に書いてあることを見るのですがそこでもあいまいな理解でしかなかったです。
当時はインターネットとか便利なものなかったし。。
それに、息子がおうちに帰ってからの生活もそれはそれは平坦ではなかった。
赤ちゃんがいる家庭はみんなそうって思っていたけれど、育児雑誌に載っていない育児との奮闘がこれから始まるのです。