~・ 蓮 ・~  我が家の三姉妹

娘たちの記録を残したくブログはじめました。

母さんの思い出

2012年08月30日 | 父と母のこと

 火葬場の使用の関係で,通夜が翌々日の8月31日,葬儀が9月1日になりました。

 父と弟は,遺影にする母の写真を探していました。

 わたしが昨年,"oyabaka"の撮影会に参加したときに,母と一緒に行き,撮ってもらったのを思い出し,遺影にしていただきました。

 プロのカメラマンが三人の笑顔を撮れる様に何枚か撮ってくれたうちの1枚です。

これを母との思い出として,遺影にしていただきました。

         

 

 通夜のあいさつはもちろん長男でもあるわたしの弟。

  弟は,母を既に”自分の子どもたちのばあちゃん”という認識が強く,あいさつも孫と出掛けるのが楽しみだった・・・ とか言ってました。

 わたしは,自分が小さい頃の母,わたしが学生の頃の母,ばあちゃんになったばかりの頃の母・・・ そんなことを思い出していました。

 実家に帰って,棺の中に入れるものを父とみていると,たんすからわたしの三人の娘に渡し忘れたと思われるお年玉が見つかりました。

 あとは,よく来ていたGパンとトレーナー,毎日枕にしていたクッション・・・ 

 1週間前に大丸で買ったというブレスレット・・・  それらを棺の中に入れるように準備しまめした。

        あと,自分の幼少期のアルバムを父に探してもらって持ってかえることにしました。

   それに写っている母は今のわたしより若く,時代を感じる写真でした。

   そのアルバム,よく見てたな~。

 

 他は,弟の嫁さんが備してくれた孫からの寄せ書きを入れることに。

 うちの子たちは・・・ 通夜の日に寮から戻ってきた長女は 『毎回ミュージカルなど見にきてくれてありがとう。』 と書けたけれど,

 次女はこんなときに肺炎になってしまい急遽入院  三女はまだ文書なんて書けません。 

 二人分のメッセージをわたしが書きました。(ほぼ私の言葉ですが・・・)

  そんなわけで,最後の最後まで子どものことで母のそばにはついてあげれなかった・・・・

 

 通夜の日や葬儀のあと,いろんな方たちから母の思い出話を聞き,母が思っていたよりも皆に慕われていたことを実感しました。

 自治会の方々から今年の金比羅祭りのこと,母の以前の職場の人たちに食事に行ったこと・・・等

   また,母のいとこからは母との子どもの頃の話も聞きました。

  母と一緒に幼少期に遊んでいたときのこと,母の父親が軍隊から帰ってきたときのこと・・・ などなど・・・

 

  多くの参列者が母をしのび・・・ 母も喜んだか・・・ まだまだこの夜に残りたくて後悔しているか・・・

 

   火葬場で母の最後を見,燃えていく空を見上げ・・・ 数時間後,母は骨となりました。

   もう,母はいません。

   リハビリに連れて行ってやりたかったのに・・・ 少しは母の世話をしたかったのに・・・

   たまに帰ったときに話相手になってやったのに・・・

   実家に帰っても,母はいません。

   父はいるけれど,弟の子たちが権利が強く,居場所はないです。(前からですが・・・)

  事故の当日は感じなかった寂しさが込み上げて,ひとりになると涙が止まりません。

 

  いつになったら母のことの諦めがついて,心から『ありがとう』 と思えるようになるのでしょうか・・・

   そして,ひとりになった父のことが心配です。

  


突然の出来事

2012年08月30日 | 父と母のこと

 

8月29日,午後6時30分ごろ・・・ 母は息をひき取りました。

連絡を受けて半日・・・ あっという間の出来事でした。

 

 ちょうどお昼12:00にだんなから携帯が入りました。 『お前知っちょるか? お母さん,海に落ちて救急車で運ばれたって~や。』

 気が動揺し,父にすぐ確認の連絡を。 父は母が落ちたという現場へすでに行っており,今から救急車で病院へ行くというところだった。

 仕事中だったわたしは,出張していた上司にすぐに連絡をとり,急遽お休みをいただき,搬送先の病院へ駆け込みました。

 救急車より先に着き,受付の職員へ聞いて,救急室の前で待ちました。

 なかなか来ないので,外へ出て救急車を待つことに。ちょうど救急車が到着。

 父と弟の嫁さんが付き添って母が運ばれてきました。

 看護婦をしていた弟の嫁さんが母の様態を詳しく教えてくれました。 

 病院の職員の方の支持で救急室に入って母の姿を見たときには,瞳孔が開き,母は意識がありませんでした。

かなりの水を飲んでおり,『もう脳は機能しておりません。脳死の状態です。』と医師から告げられ・・・ 

 『海に落ちた』という知らせのときから ”もうだめだ・・・” と思っていましたが,あまりの突然に驚愕し,心残りのことがたくさんあって・・・

 そばにいてやれなかったこと,なかなかかまってやれなかったこと・・・ いろんな後悔が頭の中をめぐり・・・ 母に『ごめんね。』と言いたい気持ちでいっぱいでした。

 心臓を動くようにする強い薬を打って,しばらく心臓がうごいていましたが,時間が経つにつれ,血圧も下がってきて,搬送されて3時間くらい経った頃には血圧も測れなくなり・・・

時間がと共に血圧が下がっていく・・・ 18時を過ぎた頃 血圧は上が20代になったり,脈も乱れはじめ・・・

 母の目から2粒の涙がこぼれてきました。 そう,14~5年前,母の父親,じいちゃんが亡くなるときも目から涙が出てきたのを見ました。

子どもながらに『悲しんでいる』と思っていましたが,死ぬ前に涙腺も緩んできての現象だったのです。

 人口呼吸でがんばっていた母は息をひき取りました。 最後に何も言わずに・・・ 

 

 看護婦さんと弟の嫁さんと母の体をきれいに洗いました。

 『わたしはこの母の体から産まれてきたんだ。 ここまで大人に育ててくれてありがとう。』 そう思いながら・・・

 わたしが子どもの頃の母のことを思い出していました。

  おしっこをささげてくれてたこと。

  パンツをはかせてくれてたこと。

  布団に一緒に寝てたこと。母がわたしを温いと言って抱いて寝てたこと。

 あの頃の母は若くて元気だった。 

 母は車の免許を取ったのが遅く,運転は達者ではなかった。 わたしが小さい頃も操作ミスで港の岸壁に落ちたことがある。

 そのときは,干潮時で,落ちたところに舟があったのとまだ若いのもあって,海に沈む前に母は自力で脱出して助かった。

今回は悪条件が重なって・・・ 年で体も弱って,落ちたのは満潮時。

 気づいたころには,車は沈み始め・・・

 はじめに見つけたのは,弟の子どもだった。 三男が 『誰か”助けて” って聞こえる。』って外に出ると母の車が海に・・・

 弟の子に聞いたら,『ばあちゃんが”助けて”と言って車の中にいるのを見た。』 と・・・ まだ小学生の子どもたちには大人に知らせるのが精一杯。 とおりかかった大人へ助けを求め,近くの郵便局へ。そこの職員と近くのうちのおじさんが海に飛び込んだけれど,素人ではどうもならず・・・ そうこうしているうちに覆面の警察が来て,もぐって母を助け出したとのこと。

 車の戸を開けると母は車内で浮いていたのか自然に出てきたそうだ。もう意識がなくなった母を警察の方が抱えてあげて,心臓マッサージをしたが・・・

 沈んでまもなく助け出されたように見えたけれど,水難は5分以上水につかっって,脳に酸素がいかなくなると危険な状態だそうだ。

 

 そのときの状況を後から聞いて・・・ 一瞬の出来事だけど 母は怖かっただろうな~。 何もこんな死に方しなくても・・・

 

 その晩,母が眠る自治会館和室で母と父と,娘次女と一晩過ごしました。

 心の中で 母がひょっとしたら話ししに出てきてくれるか~ なんて思いながら。

 いろいろ 考えてしんどくて 眠れないまま朝がきました。

 

                                                        

  


oyabaka 2012 ゆかた撮影会

2012年08月28日 | 三女の育児

今年も参加しました。

 

今年は公共交通を使って会場まで行ってみました。

川棚温泉駅からJRで,下関駅から唐戸までサンデン交通のバスで。

いつもチャイルドシートに縛られての移動の三女にとってはとても嬉しかったようです。

受付をして,待つこと1時間。

受付でいただいたカフェでのソフトクリーム無料券(お子様1人分)をいただきにカモンワーフ内のカフェへ

           http://kamonwharf.com/shoplist/category-shoplist/cafe/vanes.html

     雰囲気もよくって,わたしはチャイティーをいただきましたが,苦いけどおいしいお茶ではまってしまいそうでした。

その後,カモンワーフのステージで和太鼓の演奏が始まり,最後に会場の人たちに太鼓を叩くように呼び込んでて,三女は 『叩いてみたい』 と言い出し,前に出たら演奏のお兄さんが連れて行って叩かせてくれました。  すっごい 2歳でひとりで出て行くこの度胸

                 

 ようやく撮影の順番が来て・・・

 なんだかいつもと違って緊張してる感じ・・・ いつもの自然な表情が出せず・・・ でしたが。

 oyabaka 2012 ゆかた撮影会

 

 ちなみに前回1歳のときの撮影会のもの  いい表情がでてます。  

oyabaka撮影会 2011

 

 

                                                

                                     


実家の様子・・・

2012年08月25日 | 父と母のこと

今年のお盆は仕事でした。

さすがに2年も育児休暇取っといて,みんながゆっくりお休み取れるときに取るわけにも・・・ というか子どもたちの用事で他の日に結構お休みを取らなければならないので。

なので,お盆明けの週末に実家へ久々にゆっくりお泊りに行きました。

平日は仕事,休日は子どものことと毎日が忙しくて,様子が悪くなってきてる母のことは頭の隅で気になりながらもなかなか行けないまま・・・

たまにはゆっくり行って話し相手にでもと。

母の様子は痴呆が進んでいるわけでもなく,相変わらずマイペースの様子。

数年前,弟家族とは別居しているので,年寄り(?!)二人の生活。 と言っても近くに住む弟の子どもたちが出たり入ったりで父は寂しくは無い様子。 だけど,家事をまったくと言っていいほどしなくなった母の変わりに食事の準備と孫の子守,そして自営の仕事・・・ と父は文句も言わずこなしています。

もともと父は料理が上手でした。わたしが子どもの頃,便秘気味だったわたしのために煮込み野菜の料理をよくしてくれました。

大きくなってからは,わたしが下ごしらえして,父が調理と味付け・・・ かたずけはわたし。 といま思えばいい連携プレイでした。

あの頃の母といえば,どちらかと言えば洗濯,掃除ときれい好きの母でした。

わたしが小さい頃なんて,家族みんなの服を自分が風呂に入ったときに,たらいで全て手洗い。  『服が痛むから』 と丁寧にすすぎまでしたら,最後に脱水機にかけるだけでした。

きっと,今,わたしが大量の洗濯物に追われているように・・・ 

なのに,最近は・・・ 仕事で汗まみれになった父の服もきちんと洗剤を入れて洗ってるのかわからないくらい臭いがとれてなかったり,

タオルはごわごわだったり,カビが所々あったり・・・

炊飯器の中も2~3日保温にしてるのかと思うくらいの臭いがしたり・・・

自分のうちを思うと若い世代の人がいないってこんなんだろうな。 一緒に住んでる旦那の親がねたましくもなりました。

わたしが早くに結婚して家を出たばっかりに・・・ 母はきっとわたしともっと一緒にいたかっただろうし・・・

子どものころ母とよく出掛けた。

 幼少のときは,まだ車の免許を持ってない母はわらびやつくしを取りに野山に散歩へ連れて行ってくれた。

 小学校のときは女の子は『お誕生日会』が定番でクラスのお友だちを家に招待してみんなで食事をし,遊んで・・・ ということも人並みにしてくれた。

 弟にはひどかった母。 わたしには何を期待していたのか,優しかったが朝はよく喧嘩した。

 車の免許をとってからは,買い物によく行った。

 小学校高学年のときは,お宮の行事で巫女を踊るため,車で40分くらいのお宮に習いに行ったりするのも送迎してくれてたな~。

 

 母のことはあまりいい思い出は無い気がしてたけれど,こうしてみると母親らしいことしてくれてた・・・

 

 いまは足腰も悪くなり,歩くのがきつそうで,一緒に出掛けても負担になる。 話をしても何回も同じことを言うし・・・。

 

 そんな母になってしまったとわかっていながらまたかまってやれない日々が続く・・・