★卑弥呼 ★魏志「倭人伝」は無かった?!
聖徳太子と同様謎の多い人物。
資料が少ないようで何とも言えない。
★卑弥呼 - Wikipedia http://bit.ly/yYmpap
卑弥呼(ひみこ、170年頃 - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。
邪馬台国に都をおいていたとされる。
封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。
この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。
ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、百余人を殉葬したとされている(卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩)。
★(ぬひ)http://bit.ly/yeN2VT
律令制における、良民(自由民)に対する(自由のない民)の中の位置づけの一つであり、奴隷階級に相当する。奴は、男性の奴隷。婢は女性の奴隷を意味する。
は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されており、一定の年齢に達したり、その他の条件で解放される場合もあった。
しかしながら基本的には家畜と同じ扱いであり、市場などで取引されていた。
★親魏倭王(しんぎわおう)http://bit.ly/yq742R
魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、西暦238年(239年説もある)に与えられたとされる封号のこと。『三国志』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)に記述されている。
★台与(とよ) http://bit.ly/xk7y62
臺與(とよ、235年頃 - 没年不詳)
日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国の女王卑弥呼の親族にして、卑弥呼の跡を継いだとされる女性・壹與のことである。
魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書』『北史』では「臺與」と記述されている。
「台与」は「臺與」の代用。
豊国を支配拠点とした伝承がある。
臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。
★鬼道(きどう)http://bit.ly/A7oJgx
邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる。
『三国志』魏書東夷伝倭人条に記述がある。
鬼道が何であるかについては、諸説ある。
★魏志倭人伝(ぎしわじんでん)http://bit.ly/AgAxsD
中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。全文で1988(又は2008)文字からなっている。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。陳寿の死後、正史の扱いを受ける。現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされるが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としている。
★封号(ほうごう)http://bit.ly/x1CTQf
授封ないし冊封に当たって授与する称号。
爵号(しゃくごう)とも。
★冊封(さくほう)http://bit.ly/yG3jZW
、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)をともなう外交関係の一種。
「天子」とは「天命を受けて自国一国のみならず近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた[要出典]君主」のこと。
★称号(しょうごう、Title)http://bit.ly/yBRreh
主に個人または団体の公的な身分や地位などを表す呼び名。
★朝貢(ちょうこう)http://bit.ly/wPdWyW
主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。
なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。 朝貢それ自体には政治的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。
★倭の五王(わのごおう)http://bit.ly/yv40DM
5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。
★倭国(わこく)http://bit.ly/zrh7ui
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねるという語義の漢字「倭」を用いた呼称。
漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。
7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
★倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))http://bit.ly/w1mifA
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。
1.紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。
2.奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
★倭人(わじん)http://bit.ly/wYkN9y
中国の人々の名付けた日本人(日本列島住民)の古い呼称。種族名。韓(三韓)、濊などに対応する語。
★大和国(やまとのくに)http://bit.ly/zp0Bky
かつて日本に設けられた地方行政区分の国の一つである。
畿内に含まれ、延喜式での格は大国。領域は現在の奈良県にあたる。別称は和州(わしゅう)。
七世紀後半には「倭国」と表記された。藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」とある。
所布評(そふのこおり)は添評である。
大宝元年(701年)の大宝令で大倭国と書かれ、平城京跡唐出土した計帳の軸の木口に「大倭国志癸上群大神里」(やまとのくにしきのかみのこおりおおみわのさと)「和銅八年/計帳」と墨書した事例がある。
奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に大養徳と字を改め、同19年3月16日(747年4月29日)に「大倭国」に戻した。
「大和国」という表記が正式に決定されるのは天平勝宝9年8月18日(757年9月6日、天平宝字元年と改元)以後とされる。
★延喜式(えんぎしき)http://bit.ly/xCrfFQ
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。
三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。
★格式(きゃくしき)http://bit.ly/Aakt8i
1.「きゃくしき」と読み、律令制における法令の一種である。
2.「かくしき」と読み、対象の身分や社会的地位にもとづく等級、規範および作法。1.を語源とする。
格式(きゃくしき)とは、律令の補完のために出された法令あるいはそれらをまとめた法令集のことを指す。
格(きゃく)は律令の修正・補足のための法令(副法)を指し、式(しき/のり)は律令の施行細則を指した。
★三代格式(さんだいきゃくしき)http://bit.ly/zwjsCv
平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(きゃくしき、律令の補助法令)の総称である。
なお、弘仁・貞観・延喜とは、それぞれの格式が編纂された年代の元号であるが、実際の完成には時間がかかっている。
弘仁格式は嵯峨天皇が藤原冬嗣に、貞観格式は清和天皇が藤原氏宗に、延喜格式は醍醐天皇が藤原時平に、それぞれ命じて編纂させたものである。
★律令(りつりょう)http://bit.ly/ywvtMG
東アジアでみられる法体系である。律は刑罰法令、令は律以外の法令(主に行政法)に相当する。
律令の基本思想は、儒家と法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。
古代中国には、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)があった。
儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。
刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。
★卑弥呼 http://bit.ly/ynx0H5
卑弥呼は、魏志倭人伝に現れる邪馬台国の女王で、239年に魏に使者を送った。
卑弥呼は日本の古文献「古事記」、「日本書紀」の中から探すなら誰に当たるのか?
★邪馬台国発見 第四部:卑弥呼の生誕地 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ylloPKviRP8&feature=fvsr
★邪馬台国発見 第五部:女王卑弥呼 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=jWJO60a16Xs&feature=related
★邪馬台国発見 第九部:卑弥呼の墓 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SFUeHNvsb1w
★猪群山は卑弥呼の墓だ!!!! - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=v39TepUWnkM&feature=related
★卑弥呼に関する史料 http://bit.ly/ziwDaj
出典は全て魏志倭人伝からです。
卑弥呼に関しては国内に記録がないため、これだけが頼りです。でも海を隔てた中国の歴史書なんで、どこまで正しいかはわかりません。
一説には方角が間違っていると言われています。
とりあえずそれは省きました。
★魏志「倭人伝」は無かった?! http://www.ten-f.com/yamataikoku.html
通称「魏志倭人伝」の書き出し部分。勿論、写本である。原本は散逸。
のっけから、何時か何処かで聞いた事があるような山っ気の多い見出しを立てたのは、奇をてらい読者の関心を惹こうとしただけで、別段深い理由があってのことではない。
ただ、まんざらウソでもないことは確か。何故なら、誰もが古代の日本を語るとき引き合いに出す中国の歴史書『魏志』には『倭人伝』という独立した「伝」など存在していないからである。
聖徳太子と同様謎の多い人物。
資料が少ないようで何とも言えない。
★卑弥呼 - Wikipedia http://bit.ly/yYmpap
卑弥呼(ひみこ、170年頃 - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)。
邪馬台国に都をおいていたとされる。
封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。
この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。
ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、百余人を殉葬したとされている(卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩)。
★(ぬひ)http://bit.ly/yeN2VT
律令制における、良民(自由民)に対する(自由のない民)の中の位置づけの一つであり、奴隷階級に相当する。奴は、男性の奴隷。婢は女性の奴隷を意味する。
は、一般的に職業の選択の自由、家族を持つ自由、居住の自由などが制限されており、一定の年齢に達したり、その他の条件で解放される場合もあった。
しかしながら基本的には家畜と同じ扱いであり、市場などで取引されていた。
★親魏倭王(しんぎわおう)http://bit.ly/yq742R
魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王・卑弥呼に対して、西暦238年(239年説もある)に与えられたとされる封号のこと。『三国志』東夷伝倭人条(『魏志倭人伝』)に記述されている。
★台与(とよ) http://bit.ly/xk7y62
臺與(とよ、235年頃 - 没年不詳)
日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国の女王卑弥呼の親族にして、卑弥呼の跡を継いだとされる女性・壹與のことである。
魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書』『北史』では「臺與」と記述されている。
「台与」は「臺與」の代用。
豊国を支配拠点とした伝承がある。
臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。
★鬼道(きどう)http://bit.ly/A7oJgx
邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる。
『三国志』魏書東夷伝倭人条に記述がある。
鬼道が何であるかについては、諸説ある。
★魏志倭人伝(ぎしわじんでん)http://bit.ly/AgAxsD
中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、日本において一般に知られる通称である。江戸時代の漢学者の中で『三国志』という書名を用いず『魏志』『蜀志』『呉志』などと称する慣習があったため、この通称が用いられた。正式な名前は「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。全文で1988(又は2008)文字からなっている。
著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。陳寿の死後、正史の扱いを受ける。現存する数種の版本のうち、「百衲本」が最も善本とされるが、現在の中国では諸本を校訂した「中華書局本」が多く通行しており日本語訳もこれを底本としている。
★封号(ほうごう)http://bit.ly/x1CTQf
授封ないし冊封に当たって授与する称号。
爵号(しゃくごう)とも。
★冊封(さくほう)http://bit.ly/yG3jZW
、称号・任命書・印章などの授受を媒介として「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ、名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)をともなう外交関係の一種。
「天子」とは「天命を受けて自国一国のみならず近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた[要出典]君主」のこと。
★称号(しょうごう、Title)http://bit.ly/yBRreh
主に個人または団体の公的な身分や地位などを表す呼び名。
★朝貢(ちょうこう)http://bit.ly/wPdWyW
主に前近代の中国を中心とした貿易の形態。中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して皇帝側が恩賜を与えるという形式を持って成立する。
なお、周辺国が貢物を捧げることを進貢(しんこう)、皇帝がその貢物を受け入れることを入貢(にゅうこう)という。 朝貢それ自体には政治的な臣属という意味はなく、その点で冊封とは区別される。
★倭の五王(わのごおう)http://bit.ly/yv40DM
5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」などに冊封された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。
★倭国(わこく)http://bit.ly/zrh7ui
古代の中国の諸王朝やその周辺諸国が、当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して、なよなかな女性や人に委ねるという語義の漢字「倭」を用いた呼称。
漢字の朝鮮半島における百済や新羅に対応する語である。2世紀から7世紀まで、倭国と対外的に称している史料が散見されるが、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。
7世紀後半に、対外的な国号を日本に改めている。なお、倭人については紀元前2世紀頃から『漢書』地理志などの史料に現れている。
★倭(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音))http://bit.ly/w1mifA
紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼称。
1.紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこく)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。和、俀とも記す。
2.奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
★倭人(わじん)http://bit.ly/wYkN9y
中国の人々の名付けた日本人(日本列島住民)の古い呼称。種族名。韓(三韓)、濊などに対応する語。
★大和国(やまとのくに)http://bit.ly/zp0Bky
かつて日本に設けられた地方行政区分の国の一つである。
畿内に含まれ、延喜式での格は大国。領域は現在の奈良県にあたる。別称は和州(わしゅう)。
七世紀後半には「倭国」と表記された。藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」とある。
所布評(そふのこおり)は添評である。
大宝元年(701年)の大宝令で大倭国と書かれ、平城京跡唐出土した計帳の軸の木口に「大倭国志癸上群大神里」(やまとのくにしきのかみのこおりおおみわのさと)「和銅八年/計帳」と墨書した事例がある。
奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に大養徳と字を改め、同19年3月16日(747年4月29日)に「大倭国」に戻した。
「大和国」という表記が正式に決定されるのは天平勝宝9年8月18日(757年9月6日、天平宝字元年と改元)以後とされる。
★延喜式(えんぎしき)http://bit.ly/xCrfFQ
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。
三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけであり、かつ細かな事柄まで規定されていることから、古代史の研究では重要な文献となっている。
★格式(きゃくしき)http://bit.ly/Aakt8i
1.「きゃくしき」と読み、律令制における法令の一種である。
2.「かくしき」と読み、対象の身分や社会的地位にもとづく等級、規範および作法。1.を語源とする。
格式(きゃくしき)とは、律令の補完のために出された法令あるいはそれらをまとめた法令集のことを指す。
格(きゃく)は律令の修正・補足のための法令(副法)を指し、式(しき/のり)は律令の施行細則を指した。
★三代格式(さんだいきゃくしき)http://bit.ly/zwjsCv
平安時代に編纂された弘仁格式、貞観格式、延喜格式の三つの格式(きゃくしき、律令の補助法令)の総称である。
なお、弘仁・貞観・延喜とは、それぞれの格式が編纂された年代の元号であるが、実際の完成には時間がかかっている。
弘仁格式は嵯峨天皇が藤原冬嗣に、貞観格式は清和天皇が藤原氏宗に、延喜格式は醍醐天皇が藤原時平に、それぞれ命じて編纂させたものである。
★律令(りつりょう)http://bit.ly/ywvtMG
東アジアでみられる法体系である。律は刑罰法令、令は律以外の法令(主に行政法)に相当する。
律令の基本思想は、儒家と法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を万能とする法治主義である。
古代中国には、国家や社会秩序を維持する規範として、礼、楽、刑(法)、兵(軍事)があった。
儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。
刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、律から独立し行政法的なものになった。
★卑弥呼 http://bit.ly/ynx0H5
卑弥呼は、魏志倭人伝に現れる邪馬台国の女王で、239年に魏に使者を送った。
卑弥呼は日本の古文献「古事記」、「日本書紀」の中から探すなら誰に当たるのか?
★邪馬台国発見 第四部:卑弥呼の生誕地 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ylloPKviRP8&feature=fvsr
★邪馬台国発見 第五部:女王卑弥呼 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=jWJO60a16Xs&feature=related
★邪馬台国発見 第九部:卑弥呼の墓 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SFUeHNvsb1w
★猪群山は卑弥呼の墓だ!!!! - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=v39TepUWnkM&feature=related
★卑弥呼に関する史料 http://bit.ly/ziwDaj
出典は全て魏志倭人伝からです。
卑弥呼に関しては国内に記録がないため、これだけが頼りです。でも海を隔てた中国の歴史書なんで、どこまで正しいかはわかりません。
一説には方角が間違っていると言われています。
とりあえずそれは省きました。
★魏志「倭人伝」は無かった?! http://www.ten-f.com/yamataikoku.html
通称「魏志倭人伝」の書き出し部分。勿論、写本である。原本は散逸。
のっけから、何時か何処かで聞いた事があるような山っ気の多い見出しを立てたのは、奇をてらい読者の関心を惹こうとしただけで、別段深い理由があってのことではない。
ただ、まんざらウソでもないことは確か。何故なら、誰もが古代の日本を語るとき引き合いに出す中国の歴史書『魏志』には『倭人伝』という独立した「伝」など存在していないからである。