縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

☆言葉狩を糾弾する

2013年06月06日 20時10分55秒 | 色んな情報
☆言葉狩を糾弾する
どなたの言か判らないのですが、引用ー 京免 史朗

朝日やらNHKその他低脳マスコミは彼らの尺度で勝手に弱者の感
情をお得意の台詞<被害者の心情を著しく傷つけた>と述べ、いか
なる反論もリンチのように叩きまくる。
... 一番滑稽なのは<核武装すべき>と言ったら<広島・長崎の被爆者
の気持ちを著しく傷つけた>という。冗談ではない!あのときアメ
リカの人種差別(ドイツは白人であるから原爆を投下しなかった。
あのルーズベルトが日本人の脳はサルと同じと述べた)により悪魔
のごとくシステマティックな原水爆投下ジェノサイドを行った。僕
はアウシュビッツと比べてどちらが残酷なのか判断しがたいのだ。
当然ユダヤ人は戦後ナチスに対して復讐の鬼となり徹底的にナチス
狩を行った。
あのとき理由もなく原水爆投下で全てを失い断末魔で苦しんで死ん
だ人々は死の直前において<この仕打ちへの復讐を忘れるな。二度
とかかる残虐にあわないように将来対処せよ>と叫んだはずだ。そ
の被害者の感情に逆らうように<あやまちをくりかえしません>な
どと唾棄すべき記念碑を建てた偽善者が戦後日本の姿だ。あの記念
碑は<このアメリカの残虐を日本人は決して忘れない>とすべきだ
った。百歩譲ったとしても<赦すことはできても忘れることはでき
ない>とビスマルクの言葉を踏襲すべきだった。
日本がなすべきは、核でアメリカに復讐するのはさておいて、最低
限核武装による核抑止力にて<二度とこんな苦しみに遭遇しないよ
うに>であったはずだ。あのキューバのチェ・ゲバラが広島原爆記
念館を訪問した際、日本はこんな目にあってなおアメリカに尻尾を
振っているのか。まったく信じられないとせせらわらったのはその
通りだ。

そしてこういう正論を吐くものを、蔑称として使う<右翼><右傾
化>で揶揄し言論を封殺するのである。我々は言いたい、まともな
言論を封殺するなら、君達の蔑称<右翼><右傾化>こそ<著しく
正論を述べるものの気持ちを傷つけた>と逆言葉狩しようではない
か!

戦場売春婦の問題もそうだ。日本は戦後しばらく世界最古の商売で
ある売春は法律で堂々と認められていた。あのレマルクの名著『西
部戦線異状なし』では前線が移動するたびに売春宿が移動する話が
書かれている。橋下が言ったとおりそれは歴史的事実なのである。
その事実を述べた途端、低脳マスコミ低脳政治屋どもは<女性の気
持ちを著しく傷つけた><議員をやめろ>と騒いでいる。しかし一
般の女性はそうは思っていないのも事実だ。もっと賢明で大人なの
だ。
日本は触れるべき問題を触れず、今そこにある危機に目をつぶり(
ダチョウが天敵に襲われる際顔だけ砂の中に隠すように)触れない
。真正面から取り組もうと触れたものはマスコミや政治屋どもから
鉄槌を受ける。この偽善と欺瞞が無くならなければ、日本は一切進
化しないだろう。
嫌なこと触れたくないことに堂々とメスを入れるのが政治屋の使命
のはずだ!もっと見る

砂糖依存症は、怖いです。  柿澤 紀子

2013年06月06日 19時19分20秒 | 色んな情報
砂糖依存症は、怖いです。  柿澤 紀子


白砂糖は危険な物質


白砂糖は自然物ではない。それどころか「白い麻薬」とさえいわれる存在だ。

... 白砂糖は、消化吸収が早いため、体内に入ると直ぐにブドウ糖に変わり、
血液中の糖分を急上昇させる。

血液中に入った糖分は酸性となるために、これを中和しようと
アルカリ性であるカルシウムが動員される。
砂糖がカルシウム泥棒と呼ばれる所以だ。

カルシウムが大量に消費されることで、骨や歯が脆くなり、
骨粗鬆症や虫歯を引き起こす。

また、キレやすくもなる!
白砂糖を摂ると、血糖値が急激に上昇する。

それに対応するためにインスリンが過剰に分泌され、
次は逆に血糖値が急低下する。

血糖値の上下を繰り返すと低血糖症を招く。
そして血糖値を上昇させる際にアドレナリンが放出されるが、

このアドレナリンがカッとする時に出るホルモンで、
「攻撃ホルモン」と呼ばれている。

アドレナリンが分解されて出てくるアドレナクロムは麻薬成分に
含まれる物質で、体内に多量に存在すると正常な判断ができなくなってしまう。

その結果、ホルモン調整機能が麻痺し、自律神経やホルモンバランスが崩れ、
鬱、精神不安定、異常行動などに繋がってくる。

白砂糖の摂り過ぎには絶対に注意して下さい。


生前 つかこうへい氏に慰安婦問題についてインタビュー

2013年06月06日 18時31分10秒 | 色んな情報
生前 つかこうへい氏に慰安婦問題についてインタビュー

阿比留 瑠比
 もう16年も前の話になりますが、直木賞作家で在日韓国人2世でもあったつかこうへい氏に慰安婦問題についてインタビューしたことがあります。つか氏がご存命ならば、現在のぎすぎすした大騒ぎをみて、どのようにコメントされただろうかと思うのでした。著書執筆に当たり、元兵士や慰安所関係者らに取材を重ねたつか氏が、率直に語ってくれた言葉をいくつか紹介します。

 《ぼくは「従軍」という言葉から、鎖につながれて殴られたり蹴られたりして犯される奴隷的な存在と思っていたけど、実態は違った。将校に恋をしてお金を貢いだり、休日に一緒に映画や喫茶店に行ったりという人間的付き合いもあった。不勉強だったが、ぼくはマスコミで独り歩きしているイメージに洗脳されていた》

 《悲惨さを調べようと思っていたら、思惑が外れてバツが悪かったが、慰安婦と日本兵の恋はもちろん、心中もあった。僕は「従軍慰安婦」という言葉が戦後に作られたことや、慰安婦の主流が日本人だったことも知らなかった。彼女たちの境遇は必ずしも悲惨ではなかったことが分かった》
...
 《日本はよくないことをしたし、中には悪い兵隊もいただろう。でも、常識的に考えて、いくら戦中でも、慰安婦を殴ったり蹴ったりしながら引き連れていくようなやり方では、軍隊は機能しない。大東亜共栄圏をつくろうとしていたのだから、業者と通じてはいても、自分で住民から一番嫌われる行為であるあこぎな強制連行はしていないと思う。マスコミの多くは強制連行にしたがっているようだけど》

 《人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るような優しい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人をうらむために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか》

 つか氏の著書「娘に語る祖国 満州駅伝--従軍慰安婦編」はお薦めです。でももう、一般の書店には置いてないだろうなあ。あれからこの本は忘れられていく一方、マス・メディアの慰安婦問題への反応はたいして進歩していないのが残念でなりません。もっと見る

人類の歴史は森林破壊の歴史とさえ言える。

2013年06月06日 17時49分13秒 | 色んな情報
人類の歴史は森林破壊の歴史とさえ言える。

http://sphotos-a.ak.fbcdn.net/hphotos-ak-ash3/q71/s480x480/945125_266639026810783_650710311_n.jpg

「ある日の、グループ、心の喫茶店(MORIYAN)でのマスターの会話。

マスターのMORIYANは、歴史研究や音楽活動のかたわら、時々、店に訪れては、お客さんに、気楽に話しかける。ともかく話題が豊富である。例えば、以下のような会話。

人類の歴史は森林破壊の歴史とさえ言える。
... 左の水槽では一切、水草を使わず、森林破壊と文明の崩壊というイメージを表現してみました。左側には、パルテノン風のギリシャ、中央にはモアイ、そして右側には、ステンドグラス(修道院)を配置。

ギリシアといえば、貨幣(リデア貨幣が有名)、青銅器、陶器、船を先ず思い浮かぶが、それらを作る為の燃料や材料として森林の乱伐をせざるを得なかった。当時、交易で栄えたフェニキアの船材はレバノン杉が用いられた。コロンブスは船を、遠いダンテイツヒ辺りまで行って建造したともいわれる程、

中央のモアイ像であるが、5~6Cに渡ってきた10人ほどの一団からスタートし、16Cに人口7000人以上に爆発し食糧から樹木に至るまで消費し尽くし、互いに殺し合い食い合うまでになって衰退してしまった。

 右のステンドグラス.。11C頃からのヨーロッパの大開墾時代を迎えたが、全耕地の約3分の1は宣教師や修道士達によって開拓された。ゴシック建築で盛んに用いられたのが神を象徴する光=ステンドグラスであった。ステンドグラス1平方メートル作るのに、燃料として50平方メートルもの森林を必要とした。産業革命時、燃料を石炭(コークス)に頼らざるを得なかったのは、イギリスで森林が乱伐され尽くしていたからなのである。欧米全体では、19Cに森林面積が最低となり、以後、多くの国で植林が開始されていった。

 私は、授業でよく、「皆なが食べているハンバーガーが二酸化炭素の増加-地球の温暖化につながってるんだぞ」と言っている。牛肉を得るためには広大な牧場を必要とし、その為にアマゾンでは次々と森林が焼き払われている。森林は自然のダムといわれるように、地下に大量の水を保水し、光合成の過程で、葉っぱからそれらを蒸発させて、再び雨を降らせる。森林のあるところ、水が絶えず循環しているが、これを乱伐してしまえば、雨は降らず、地表は干ばつと大洪水を繰り返し、土壌の流出を招く。ガンジス川下流域のバングラデッシュで、大洪水が頻繁に起こるのも、流出した土砂が下流に運ばれ、河床が上がっているからなのである。21Cの最大の環境問題は「水」であり、いかに森林を守ってくかが大きな課題であろう。そうした意味では「肉食をやめ、魚と米に食生活の中心を移す」、日本で言えば、江戸時代のリサイクル型の社会しかもう地球上の文明が存続してゆく道はないのではなかろうか?もっと見る

●6月6日   芸事を始めるには良い日

2013年06月06日 17時49分13秒 | 色んな情報
●6月6日   芸事を始めるには良い日
★6月6日 - Wikipedia http://p.tl/Qv23
・楽器の日、お稽古の日( 日本)
  全国楽器協会が1970年に制定。芸事は6歳の6月6日から始めると上達すると言われていることから。
・邦楽の日( 日本)
  東京邦楽器商協会(現 東京邦楽器商工業協同組合)が1985年に制定。理由は楽器の日と同じ。
・いけばなの日( 日本)
  理由は楽器の日と同じ。


★華道(かどう)(生け花から転送)http://p.tl/MXN5
植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組み合わせて構成し、鑑賞する芸術である。「花道」とも表記し、またいけばな(生け花、活花、挿花)とも呼ばれる。 ただし華道という呼称は「いけばな」よりも求道的意味合いが強調されている。華道にはさまざまな流派があり、様式・技法は各流派によって異なる。
 
華道は日本発祥の芸術ではあるが、現代では国際的に拡がってきている。欧米のフラワーデザインは、3次元のどこから見ても統一したフォルムが感じられるように生けるとされる。華道の場合、鑑賞する見る方向を正面と定めている流派も多くあるが、3次元の空間を2次元で最大限に表す流派もある。また華道は色鮮やかな花だけでなく、枝ぶりや木の幹の形状、葉や苔となどすべてを花材とし鑑賞する点でも、海外のアレンジの概念とは一線を画している。

★邦楽(ほうがく)http://p.tl/nU6Q
主に日本の伝統的な伝統音楽、古典音楽などを指す呼称である。
和楽、国楽とも呼ばれる。日本のポピュラー音楽との区別のため、「純邦楽」とも呼ばれる。

★楽器 http://p.tl/Jn8r
音楽を奏でるために用いる音の出る器具である。広くは音を出すことができるものすべてを楽器とすることもあるが、一般的には音を出すために作られた器具を指す。
 
音を出すものでも、風鈴や梵鐘、カウベルなど演奏を目的として作られていないものは楽器とは言わず、音具と呼ぶという風説もあるが、区別は全く不明確で、一般的な概念ではない。
 
多くの楽器は、
・振動源(励振系):振動を作り出す部位(弦、リード、マウスピース、声帯など)
・共振系(共鳴系):共振(共鳴)によって音を大きくする部位(共鳴箱、共鳴筒、口腔など)
の双方から成っているが、後者を持たない物も見られる。


★ ● 第百八十一段 ●  6月6日は「藝事」の日?
 6月6日は、「楽器の日」、「いけばなの日」、「コックさんの日」でもある。その謂われは、「コックさんの日」を除いて、「芸事は6歳の6月6日に始めるとよい」と言われているからというものによる。
◆さて、なぜ、6歳の6月6日に芸事を始めるとよいとされているのか?
 私たちは指を使って数える場合、親指、人差し指、中指……の順番で指を折りながら数えます(もちろん、そうじゃない人もいるだろうけど!)。こうすると、小指を折り曲げたところで、5になります。
 そして、6です。今度は、小指を立てるはずです。そこで、「子が立つのは6」ということらしい。
 
◆一方、「コックさんの日」は、絵描き歌『かわいいコックさん』の歌詞の中に「6月6日」が出てくるからだ。例の
 
 6月6日に雨ザアザア降ってきて……
 
という歌です。子どもの頃、よく書いたなぁ。
 2010年の6月6日、奈良は、雨は降らなかった。

★『6月6日芸事習い初めの日に、事寄せて』 http://amba.to/18ZvPz9

★芸事は3歳から: ●なぜ芸事は3歳なのか? http://p.tl/wcfr
 しかも脳の臨界期は5歳から6歳なので、3歳の内から始めておき、4歳の段階で或る程度の技術に達してしまえば、脳の臨界期に於いて芸事に関する脳のシナプスを大いに増やすことができるようになるのだ。脳の臨界期に於いてどれだけ脳のシナプスを増やせるかで、その人の芸術レベルはほぼ決まってしまうのだ。

6月6日ですね。芸事を始めるには良い日となってます。

2013年06月06日 17時43分57秒 | 色んな情報
6月6日ですね。芸事を始めるには良い日となってます。
桂 吉坊 
6月6日ですね。芸事を始めるには良い日となってます。本当は縁があれば、どんな日でも思い立ったが吉日でしょうが、ええ日です。
おかげさまで、そうやって小さい頃から精進されている方々とご一緒させて頂きます。僕は小さい頃からやってるような顔してますが、顔はしてますが、初めてお稽古していただいたは16、入門は17です。芸事なんか、なーんも知らんと入りました。
 色んなことありますけどね、たとえ17で入ったのが遅かろうが早かろうが、そんな事は死ぬ前に考えたらええか、てなことをね。君は...早く入ったから、とか遅く入門したから仕方ないとか、何言うてんねん思いますな(あら?ちょっと過激な事言いました?)。もちろん、早く入るに越した事無いです、そう思う事はいくらでもありますけど、そんなん一旦入ったら関係無いです。遅く入ったと思うなら追い越せ、早く入ったんなら追いつかれんな(あら?どんどん歌劇…違う過激に♪)。
 「お前ともっと前に会ってたらなあ」とある人に残念がられました。それは僕も残念でした、めっちゃ。涙出そうになりました。さりとて今の自分が、都合良く過去の自分を誰かに出会わせる事は不可能な訳で。そうすると、僕にとって、その人と今、会える時間が、これから会う時間がなお愛おしい時間になりますよね。愛おしいとはまた大層な。ほなそれに気がついた後の時間は、前よりいい時間過ごしてるんちゃう?と思います。
…だいぶ話はまとまってませんが、其れは何故かと言うと、他にやるべき事をやらずに一生懸命この文章に向き合っているからです(逃避)。

 毎年のように、この日は一番はじめにお稽古していただいた時の事を思い出します。しっかりしなくてはなぁ。そんな事考えながら、ぼんやりしてます。あかんがな。

 写真は、本日発売と聞いていた本が、実は10日の間違いだったと知らされた時の顔(イメージ)。あるいは、楽屋で今日のプログラムを見たら、やる演目が既に書かれていて、しかも久しぶりすぎて良く覚えてないネタだった時の顔。もっと見る
http://sphotos-f.ak.fbcdn.net/hphotos-ak-prn1/p480x480/942944_466113143476326_582179530_n.jpg

「ペンは剣よりも強し」は元 「権力の下では、ペンは剣よりも強し。」 として使った

2013年06月06日 11時53分08秒 | 色んな情報
「ペンは剣よりも強し」は元 「権力の下では、ペンは剣よりも強し。」 として使った

京免 史朗
引用

“日本では、政権を批判する時に、「ペンは剣よりも強し」という言葉を使う。
この言葉は、フランスの枢機卿リシュリューが最初に使った言葉で、使われた当時は、違う意味で使われている。
「権力の下では、ペンは剣よりも強し。」といったのである。
... 国家に逆らい反乱を企てる者に対して、「お前らは国家と戦うために剣を持つだろうが私はその必要はない、逮捕状や死刑執行にサインするためにペンを持つ。
自分の身を危険にさらして剣をもって反乱者に対峙する必要などない、ペンをもってサインすれば、身を危険にさらさないでお前ら反乱者を始末できる。」
という意味で使った言葉だ。 権力の誇示や拡大のために使われた言葉だ。
権力に屈しない言論の重要性を説いた言葉じゃない。
当たり前だ、その言葉を使った人物は枢機卿という権力者なのだから。
日本のマスメディアは後者の意味で使ってるが、現在の日本のマスメディアの様態ではこの言葉の意味は、本来の前者の意味がふさわしい。
マスメディアという権力者のペンによって多くの日本国民が社会的に殺された。”

靖国神社・遊就館へ修学旅行の宝塚の素晴らしい中学に共産党と教育委員会がクレーム?

2013年06月06日 11時53分08秒 | 色んな情報
靖国神社・遊就館へ修学旅行の宝塚の素晴らしい中学に共産党と教育委員会がクレーム?
中曽 千鶴子 ★おつるの秘密日記 から転載   http://p.tl/z0L9
 拡散お願いします!! 
大阪では橋下市長が教委廃止法案を提出しましたが、

兵庫県、宝塚市の教委の発言を見ると、橋下市長の廃止法案がまさに必要だと感じられます。  

 教委廃止法案を提出=維新
  時事通信 6月5日(水)20時10分配信


日本維新の会は5日、地方自治体に設置されている教育委員会を廃止し、教育行政を首長が管理するとした地方自治法などの改正案を衆院に提出した。教育の政治的中立を目的に首長から独立している教育委員会を、首長直属の「教育部局」に改める内容。教育部局のトップは特別職とし、首長が任命する。教育行政の最終的な権限・責任は教委でなく、首長が担うべきだとする橋下徹共同代表(大阪市長)の主張を踏まえた。 
 


靖国神社・遊就館へ修学旅行の宝塚の素晴らしい中学に共産党と教育委員会がクレーム?

昨今、広島、長崎、沖縄へ反戦平和学習をし続ける関西の小中学校、また韓国へ修学旅行し、生徒に土下座までさせる広島の高校、中国や韓国への修学旅行が問題となっているのは

兵庫県立大学付属高校、松戸国際高校、新潟中央高校

兵庫県立大学付属高校や、長崎西高校では、生徒により「韓国への修学旅行は嫌だ」と反対運動がおこっています。

そんな中、なんと、宝塚のある中学校がこの5月に東京へ修学旅行、ディズニーと、靖国神社、遊就館へ平和学習に行かれたとの事、

なんと、素晴らしい企画でしょうか。
修学旅行は、おもに学年団の先生方が決定するかと思いますが宝塚には、素晴らしい教員がいらっしゃるのですねと感動です。

私も毎年のように靖国神社、遊就館へ行きますが、日教組、左翼の偏向した自虐史観と日本が悪だと教え、生徒のアイデンティティを奪い誇りを奪う平和学習と比較して、

靖国神社、遊就館では、平和のために戦った日本軍の兵士さんの崇高な精神や真の日本の歴史を学ぶことができます。
多くの英霊、先人に感謝をし、日本を誇りに思い、その上で真の平和を
心から願うことができるのが、遊就館だと思います。

そんな素晴らしい中学校の教育は日本全国に広がるべき見本です。

が、そのせっかくの素晴らしい取り組みになんと、
共産党がクレームをつけ、そして教育委員会が、この修学旅行が間違いだったかのような認識を示したとのこと。

戦争が起きないようにという教育に反するという見解ですが異常。
靖国神社、遊就館に行くことがなぜ戦争が起きることにつながるのか
教育委員会は一度も遊就館に行った事がないのであろう
真の平和を願い、戦争を回避するためのしっかりとした知識と意識が得られるのが遊就館である。

私は、過去に教育の仕事をしており、日教組、教研集会にも
ピースおおさかのような反戦博物館の内容も、今、各地の学校がしている広島・長崎・沖縄平和学習の内容も、大阪が実施している
八月六日の平和登校日などで行われる映画や平和反戦学習も知っている。私の保守的な観点からではなく、極めて公平な中立の立場で比較検討したとしても、よほど靖国神社の遊就館の方が真の平和について学べると思う。 質問した共産党の議員も答えた教委も、遊就館に実際に行った事がないのではないのか。 
下記、市議会の動画を見ると、安倍首相、橋下市長批判からはじまり、日の丸、君が代などに言及、しかもこの質問に対し、ヤジも飛ばないのが驚きです

この中学のホームページでせっかくの修学旅行に遊就館に行った事の報告が削除されています。圧力がかかったのでしょう。
これを企画した学年団の素晴らしい先生方の思いと、いい思い出づくりをしたであろう子供たちの思いを踏みにじる事だと思います。
先生方は苦渋の思いをしてらっしゃるのではないかと憂います   

こんな一方的な宝塚市教育委員会はなくした方がいい。



下記は、宝塚市 佐藤基祐議員より


先週、宝塚市議会の代表質問で、共産党の議員が「修学旅行で遊就館(靖国神社併設の資料館)へ行くのはけしからん」との発言 があり、

それに答えた教育委員会の言は、なんと「そういったことが起こらないよう、以後注意する」 といったものであった。

戦争の悲惨さをシッカリ認識して先人を敬う行為は、目的意識なくやみくもに広島などに行って平和を祈るよりも価値が高いし、旅行先で様々な側面から歴史を認識することこそ教育の本義であり、その場所を選定し中学生に深い洞察を促しえた本市中学教員は、むしろ逆に賞賛されるべきではないのか。

「以後、遊就館には行かせないようにする」ことこそ、政治の教育に対する著しい介入とは言えまいか。 
 


 あまりに反応が大きかったので、下記当該の「遊就館」修学旅行問題に関し、正確なやりとりを記載します。
 なお、本会議の映像は下記のURLから見ることができます。最後の10分くらいのところから始まります。(1:58:00~)
  http://gikai.gikai-tv.jp/dvl-takarazuka/movie/W_H25/201305140015001001001.asx 

 ・本市中学校1校の修学旅行先に「遊就館」が選ばれ旅行スケジュールの中で訪れた
・戦争を二度と起さない教育方針から逸脱するのでは?
・戦争を二度と起さない教育の観点から、見学先は慎重に検討すべきであった
・戦争を二度と起さない教育を継続するという観点から、今後、教育委員会としては「遊就館」等の利用を考えていない...

 でも、やはり「戦争を二度と起さない」という観点を重視するのであれば、修学旅行先に組み込まれて構わないのではないか、教育委員会が「行かない」ことにお墨付きを与えていいものか、疑問が残ります。

鍛冶俊樹の軍事ジャーナル 第107号 米軍を恐れる中国軍

2013年06月06日 10時32分50秒 | 色んな情報
鍛冶俊樹の軍事ジャーナル 第107号 米軍を恐れる中国軍

中国軍の副総参謀長がシンガポールで開かれたアジア安全保障会議で2日、尖閣などの問題について「棚上げが賢明」と発言したそうである。一見譲歩とも取れる発言に引っ掛かるお人好しな日本人がいそうだが、中国の発言は実は支離滅裂である。
そもそも問題は何かと言えば、日本領である尖閣を中国がある日、突然「自国領だ」と言い出して領海に侵入していることである。自分で問題を引き起こしておいて「棚上げ」もないものだ。いうなればコンビニで万引きをして、店員に咎めらると「この問題は棚上げにしよう」と言っている様なものなのである。
さらに注目すべきは中国が「対話による解決」を主張している点だ。「話し合い」による解決といわれると納得してしまう日本人は多いだろうが、万引きした商品をポケットから出す事もなく「この商品の所有権については対話で解決しよう」などと言われて納得していたら、外交官どころかコンビニの店員も務まるまい。
... さて実際にコンビニでこんな事を言う万引き犯がいるかどうかは知らないが、仮にそんな万引き犯がいたとしたら、「この問題は棚上げにしよう」という発言の真意は「警察を呼ぶな」ということであろう。そして「対話」により警察が来ない事を確認した後、奪い取る算段であろう。
国際社会でしばしば警察に擬せられるのが米軍である。アジア安保会議は各国の軍首脳が集まる会議であり、米軍首脳も参加している。今回の中国軍首脳の発言は尖閣のみならずフィリピンなど東シナ海、南シナ海の島々について発言していることから、やはりその真意は「米軍を呼ぶな」であろう。
米軍を国際社会において正義の味方とみなすのには、轟々たる反論があろう。だが中国が米軍を国際社会の警察と見なしているのが、今回の会議で期せずして浮き彫りになった。米軍はやはり東アジアに必要な存在である。他ならぬ中国がその必要性を逆証明してくれたのである。
 もっと見る

桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍

2013年06月06日 10時13分48秒 | 色んな情報

桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍
京免 史朗

桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍

終戦の翌年、1946年の春、日本に帰還していた京城
(大韓民国の首都ソウル。日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。

日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、二日市へ集結した。

対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも日赤の事務長から連絡を受け、
用件も明確には伝えられないまま、二日市に赴いた。

そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、
二日市保養所でその勤務にあたった。

二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた在外同胞援護会救療部によって、
戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された。

引揚の混乱の中で暴行を受け、
妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った。

2005年9月末、私は、筑紫野の女性グループならびに
『関釜裁判を支援する会』事務局のメンバーと一緒に、
二日市保養所に看護師として勤務した経験をもつ村石正子さんからお話を聞く機会を得た。

二日市は、古い温泉街しかない寂しい場所だったと村石さんは、当時を回想する。
人目につかぬよう、鄙びた温泉地の奥にその場所は、選定されたのであろう。

朝鮮半島や中国東北部に取り残された日本人居留民の引揚救護活動を行なうべく、
旧京城帝大医学部関係者によって戦後すぐに設立されたソウルの「罹災者病院」や
朝鮮各地を廻った「移動医療局」の活動は、

文化人類学者・泉靖一氏の巧みな手腕によって「在外同胞援護会救療部」へと組織化され、
旧厚生省の援助をも引き出し、様々な引揚救護活動に従事することになった。

保養所の設置には、旧京城帝国大学医学部の関係者が関与していたためか、
開設の当初、村石さんら京城日赤の看護師が召集を受けた。

日赤で1年、上の上級生が班長となった。

村石さんと同様に他の看護師たちも自分たちが何故この地に呼ばれたのか、
はっきりとした職務を告げられた者はいなかった。

〈不法妊娠〉が云々ということは聞いたが、
それが具体的に何を意味しているのかわからなかったという。

保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。

建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として使用された。
そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで手術台が1台置かれていたという。
棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか準備されていなかった。

大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、運ばれてくる女性たちの姿を見て、
村石さんは、事の次第を理解した。

異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き、
汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた。

引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、
膨らんだおなかを見れば、それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、
いや増すばかりだった。

戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく必ず性暴力の被害が生じる。

この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、
蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、加害男性の子を宿してしまう。

人間という個体の生殖の営みが、
これ程、哀しく不条理なものであると感じられることはない。

凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、
女性たちは概して無言のままだったという。迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。

まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、
衣服の着替えを用意し、2~3日休養してもらう手順だった。

旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。

手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。精神と肉体に凄まじい傷を負い、
言葉を半ば喪失していた女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。

妊娠7ヶ月になる女性の手術に村石さんは、偶然、居合わせたために立ち会うことになる。
7ヶ月になるとお産と一緒のため、ドクターの他に助産婦1人も手術に駆り出された。

生まれ出た嬰児は、7ヶ月とは思えないくらい大きく、
赤い髪と白い肌を持った美しい女の赤ちゃんだったという。

ロシア人との混血なのか色白で端正な顔立ちを村石さんは、
60年後の今も不思議に忘れることはできない。

女性は、自らが産み落とした子どもの産声を聞くと反射的に乳/房が張ってくる。
母親としての感情も自ずと生起してくる。

そのため、産声を聞かせまいと嬰児は、すぐ首を絞められ、窒息させる手筈になっていた。
更に医師が頭にメスを入れる。声を挙げることもなく、無辜の命は暗闇の中へ押し戻される。

しかし、その折だけは違っていた。

お昼の食事を済ました後、手術室の前を通りかかると、
どこからか猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。

手術室を覗くと、頭にメスが立てられたまま、
それでも絶命することなく赤ちゃんが泣いていたという。

村石さんは気が動転し、慌てて「先生、先生!」と手術した医師を引き戻した。

再び窒息させられた嬰児は、もう二度とこの世に声を発することはなかった。

村石さんは、この折の記憶だけは他の同僚にも長年、語ることはできなかったという。

多くの嬰児の遺骸がどのように処理されたのか、はっきりとしたことは不明である。
一部はホルマリン漬けにされ、大学病院へ引き渡されたとか、
保養所の敷地に埋められたという証言がある。

(『証言・二日市保養所』引揚げ港・博多を考える集い編、
『沈黙の40年』武田繁太郎、『水子の譜』上坪隆)

しかし、村石さんは、一度病院の廊下から嬰児の遺骸を埋めている様子を目撃した。

保養所の雑用をしていた年配の男性が、桜の樹の下に埋めていた。その人は、
どういう関係になるのか小さな子どもも含め、家族で保養所に住み込んでいたという。

無心に作業する老人の傍らには、薄紅色の蕾を膨らませ、
満開に咲き競い、やがて散りゆく桜の樹が控えていた。

終戦から約半年が過ぎた1946年春のことである。
文字通り桜の樹の下には、小さき屍が無数に埋まっていた。

かつて、来る日も来る日も堕胎された嬰児の遺骸を土中に埋める作業を繰り返していた
初老の男性がいた。

黙々と、春の柔らかい日差しを受けながら桜の根元の土を掘り、埋葬していったのだ。

この人は何を思い、土を掘り返していたのだろう…あるいは敢えてもの思うことは、
回避していたのだろうか。

こうして戦争が終わるたびに誰かが、埋葬のため土を掘り返してこなければならなかった。
その営為は、過去から現在まで綿々と繰り返されている。

引揚途上で、日本人の女性が蒙った惨禍については、周知の事実として広く知られている。

しかし、ここでも戦争だった。
仕様がなかったことなのだ…という戦争に纏わる諦念が支配し、
被害女性の苦悩の実相は、固く封印されてきた。

まして、始末された嬰児たちが何ゆえに生を享け、
何ゆえに光を見ることなく闇に引き戻されなければならなかったのか。

-《戦争》という1文字に塗りつぶされ、誰もその核心に触れることなどできない。

http://www.hoshusokuhou.com/archives/27937619.html

桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍

2013年06月06日 10時13分48秒 | 色んな情報
桜の樹の下 ― 語られなかった引揚の惨禍
京免 史朗


終戦の翌年、1946年の春、日本に帰還していた京城
(大韓民国の首都ソウル。日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。

日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、二日市へ集結した。

対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも日赤の事務長から連絡を受け、
用件も明確には伝えられないまま、二日市に赴いた。

そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、
二日市保養所でその勤務にあたった。

二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた在外同胞援護会救療部によって、
戦時中の愛国婦人会保養所の建物を利用し、1946年3月に開設された。

引揚の混乱の中で暴行を受け、
妊娠した女性の中絶や性病の治療等に約1年半にわたって携った。

2005年9月末、私は、筑紫野の女性グループならびに
『関釜裁判を支援する会』事務局のメンバーと一緒に、
二日市保養所に看護師として勤務した経験をもつ村石正子さんからお話を聞く機会を得た。

二日市は、古い温泉街しかない寂しい場所だったと村石さんは、当時を回想する。
人目につかぬよう、鄙びた温泉地の奥にその場所は、選定されたのであろう。

朝鮮半島や中国東北部に取り残された日本人居留民の引揚救護活動を行なうべく、
旧京城帝大医学部関係者によって戦後すぐに設立されたソウルの「罹災者病院」や
朝鮮各地を廻った「移動医療局」の活動は、

文化人類学者・泉靖一氏の巧みな手腕によって「在外同胞援護会救療部」へと組織化され、
旧厚生省の援助をも引き出し、様々な引揚救護活動に従事することになった。

保養所の設置には、旧京城帝国大学医学部の関係者が関与していたためか、
開設の当初、村石さんら京城日赤の看護師が召集を受けた。

日赤で1年、上の上級生が班長となった。

村石さんと同様に他の看護師たちも自分たちが何故この地に呼ばれたのか、
はっきりとした職務を告げられた者はいなかった。

〈不法妊娠〉が云々ということは聞いたが、
それが具体的に何を意味しているのかわからなかったという。

保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。

建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として使用された。
そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで手術台が1台置かれていたという。
棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか準備されていなかった。

大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、運ばれてくる女性たちの姿を見て、
村石さんは、事の次第を理解した。

異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を風呂敷で巻き、
汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、次々と保養所に運ばれてきた。

引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く刈り込んでいたが、
膨らんだおなかを見れば、それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、
いや増すばかりだった。

戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく必ず性暴力の被害が生じる。

この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、
蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、加害男性の子を宿してしまう。

人間という個体の生殖の営みが、
これ程、哀しく不条理なものであると感じられることはない。

凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、
女性たちは概して無言のままだったという。迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。

まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、
衣服の着替えを用意し、2~3日休養してもらう手順だった。

旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。

手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。精神と肉体に凄まじい傷を負い、
言葉を半ば喪失していた女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。

妊娠7ヶ月になる女性の手術に村石さんは、偶然、居合わせたために立ち会うことになる。
7ヶ月になるとお産と一緒のため、ドクターの他に助産婦1人も手術に駆り出された。

生まれ出た嬰児は、7ヶ月とは思えないくらい大きく、
赤い髪と白い肌を持った美しい女の赤ちゃんだったという。

ロシア人との混血なのか色白で端正な顔立ちを村石さんは、
60年後の今も不思議に忘れることはできない。

女性は、自らが産み落とした子どもの産声を聞くと反射的に乳/房が張ってくる。
母親としての感情も自ずと生起してくる。

そのため、産声を聞かせまいと嬰児は、すぐ首を絞められ、窒息させる手筈になっていた。
更に医師が頭にメスを入れる。声を挙げることもなく、無辜の命は暗闇の中へ押し戻される。

しかし、その折だけは違っていた。

お昼の食事を済ました後、手術室の前を通りかかると、
どこからか猫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。

手術室を覗くと、頭にメスが立てられたまま、
それでも絶命することなく赤ちゃんが泣いていたという。

村石さんは気が動転し、慌てて「先生、先生!」と手術した医師を引き戻した。

再び窒息させられた嬰児は、もう二度とこの世に声を発することはなかった。

村石さんは、この折の記憶だけは他の同僚にも長年、語ることはできなかったという。

多くの嬰児の遺骸がどのように処理されたのか、はっきりとしたことは不明である。
一部はホルマリン漬けにされ、大学病院へ引き渡されたとか、
保養所の敷地に埋められたという証言がある。

(『証言・二日市保養所』引揚げ港・博多を考える集い編、
『沈黙の40年』武田繁太郎、『水子の譜』上坪隆)

しかし、村石さんは、一度病院の廊下から嬰児の遺骸を埋めている様子を目撃した。

保養所の雑用をしていた年配の男性が、桜の樹の下に埋めていた。その人は、
どういう関係になるのか小さな子どもも含め、家族で保養所に住み込んでいたという。

無心に作業する老人の傍らには、薄紅色の蕾を膨らませ、
満開に咲き競い、やがて散りゆく桜の樹が控えていた。

終戦から約半年が過ぎた1946年春のことである。
文字通り桜の樹の下には、小さき屍が無数に埋まっていた。

かつて、来る日も来る日も堕胎された嬰児の遺骸を土中に埋める作業を繰り返していた
初老の男性がいた。

黙々と、春の柔らかい日差しを受けながら桜の根元の土を掘り、埋葬していったのだ。

この人は何を思い、土を掘り返していたのだろう…あるいは敢えてもの思うことは、
回避していたのだろうか。

こうして戦争が終わるたびに誰かが、埋葬のため土を掘り返してこなければならなかった。
その営為は、過去から現在まで綿々と繰り返されている。

引揚途上で、日本人の女性が蒙った惨禍については、周知の事実として広く知られている。

しかし、ここでも戦争だった。
仕様がなかったことなのだ…という戦争に纏わる諦念が支配し、
被害女性の苦悩の実相は、固く封印されてきた。

まして、始末された嬰児たちが何ゆえに生を享け、
何ゆえに光を見ることなく闇に引き戻されなければならなかったのか。

-《戦争》という1文字に塗りつぶされ、誰もその核心に触れることなどできない。

http://www.hoshusokuhou.com/archives/27937619.html