縄文人の反乱 日本を大事に

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

広島県世羅高校女子生徒が修学旅行で韓国に行った時の体験

2013年06月30日 21時29分17秒 | 色んな情報
広島県世羅高校女子生徒が修学旅行で韓国に行った時の体験
京免 史朗
 広島県世羅高校女子生徒が修学旅行で韓国に行った時の体験を掲載している2008年のブログの記事を紹介します。

広島県世羅高校女子生徒が韓国で・・・・。
【以下、女子高生の体験記】
こんばんは。初めて書き込みします。
私は高校2年で今日修学旅行から帰ってきました。
旅行は韓国に行って来ました。

初めての海外旅行で行く前はすごく楽しみだったのですが、なんだかとてもいやな思いをしました。
誤解がないようにしておきますが、韓国の人に別に嫌な感情とか持っていません。
... というより、あまり韓国に興味がなかったのです。だけど韓国行きが決まってからいろいろ韓国の勉強をしました。だからこそ今回の旅行は残念なことばかりでした。

旅行中、大きな体育館みたいなところで元従軍慰安婦のおばあさんのお話を 聞く機会があったんです。私は昔日本の軍隊が酷いことをしたからこれは素直に申し訳ないと思います。 だからお話も真剣に聞いていました。

お話が終わって、信じられないことを私たちは要求されました。

司会をしていた男性が「このおばあさんに手をついて謝りましょう」と言ったのです。
???、確かに私たちは日本人だけど、どうして手をついてまで謝らなくちゃいけないんだろう、と 疑問に思っていたら先生方が「それでは、みんな正座して頭を下げて申し訳ありませんと言いましょう」と言いだし、先生が「申し訳ありません」と最初に頭を下げました。

突然のことにみんな少し唖然としていると、「おい、早くしないか!」と先生の怒鳴り声!

私のクラスのちょっと態度の悪い男の子達が「どうして私が土下座しなくてはならないのか!」と答えると、体格のいい教師が強引にその生徒を座らせました。

その生徒は普段みんなに怖がられている悪い生徒でしたが、このときばかりはみんなその生徒に同調していました。

一番頭のいい男子生徒が普段は先生に口答えとかしたとこ見たことないのですが、猛烈に先生に 抗議しました。それに同調するかのように「私はしない」「やらない」の声があがり始めもう周りは騒然としました。

そうしたら韓国の関係者の方々がなにやら怒りだして先生に怒鳴りつけていました。 元慰安婦のおばあさん激しい怒った口調で言っています。 それからしばらく先生の謝れというのと一部生徒の拒否で口論した後、先生方が「土下座ではなく座っていてもいいから頭を下げなさい。おまえ達は 日本の恥を外国で晒す気か!」と言って、結局、私たちは頭を下げさせられ「申し訳ありません」と謝りました。

私は納得がいかない思いでいっぱいでした。 確かに私たち日本人の祖先が過去に韓国の人に苦痛を与えたのかもしれませんがその理由で私たちが土下座をする必要があるのでしょうか? これは修学旅行の第一日目におこったことでその後は、もうめちゃくちゃでした。 まだまだいっぱい嫌なことがありました。友達の中には先生に切れてさらに韓国が大嫌いになった人もたくさんいます。 こういうこと(謝ること)は普通なのですか?

修学旅行から帰ってこのことを父に話したら絶対におかしいと怒っていました。

学校に抗議するといって いましたが、私はあまり騒ぎを大きくしてもらいたくないのでやめてもらいましたが。

私はあまり勉強もできなくて学校自体もそれほど偏差値のいい学校ではありませんが、初めて 真剣に日本のこと、日本人であること、韓国のこと等考えました。

私は間違っているのでしょうか?当たり前のことなのでしょうか?

(13)敵はロシアと寒さだった

2013年06月30日 16時01分28秒 | 色んな情報
(13)敵はロシアと寒さだった
日本会議地方議員連盟
【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】
(13)敵はロシアと寒さだった
2013.6.30 12:37 (1/3ページ)

.
ロシアとの戦いに勝利、奉天に「入城」する大山巌総司令官ら満州軍=明治38年3月14日、「機密日露戦史」(原書房刊)から
...
「総力戦」勝ち抜いた陸軍


 漫画家の森田拳次氏は戦前、満州の奉天で育った。現在のグローバル東北部、遼寧省瀋陽市だ。森田氏は絵と文でつづる『グローバルからの引揚げ 少年たちの記憶』の中で思い出を次のように描いている。

 「満州の冬は厳しい。…濡れ手拭いなどあっという間に棒のように凍りつく」

 瀋陽は緯度的には北海道南端とほぼ同じで、さして高緯度にあるわけではない。だが冬は内陸性の寒さに加え、シベリアからの厳しい季節風にさらされる。1月の平均気温は氷点下10度を大きく下回り、最低気温の平均は氷点下18度近くにまで下がる。

 明治38(1905)年冬、この酷寒の奉天付近で、日本とロシアの大軍がにらみ合っていた。

 日本陸軍は開戦間もない37年4月末、黒木為●(ためもと)司令官率いる第一軍が朝鮮半島から鴨緑江を渡り、満州に攻め入った。5月5日には第二軍(奥保鞏(やすかた)司令官)が遼東半島に上陸、こちらは半島の西側、遼東湾に沿って、ロシア軍を押し返しながら北上した。

 さらに6月末、新たに編成された第四軍(野津道貫(みちつら)司令官)がやはり遼東半島から北上し、一、二軍と合流、「満州軍」としての体制を整えた。

 そして8月28日からは奉天の南約70キロの遼陽に陣取るロシア軍に総攻撃をかけ、2万3千人以上の死傷者を出しながら遼陽を落とし、奉天方面へと進む。

一方、苦戦の末に38年初頭に旅順を陥落させた乃木希典司令官の第三軍も、ほとんど休む間もなく北上して戦列に加わる。さらに朝鮮半島北部に新たに鴨緑江軍(川村景明司令官)も編成され奉天方面に向かった。

 こうして1月段階での日本軍は総勢25万人に上った。日本国内の陸軍留守部隊はゼロに近い。文字通りの「総力戦」である。一方、アレクセイ・クロパトキン総司令官率いるロシア軍は32万人がシベリア鉄道で送り込まれていた。

 だが日本軍にとって、もうひとつの敵は寒さと病気だった。

 3年前、陸軍第8師団が多くの犠牲をはらいながら、青森県の八甲田山で雪中行軍を試みた一つの理由が、冬の戦いに備えるためだったことは先に書いた。

 それでも将兵たちのほとんどはこんな寒さは知らなかった。衣服や寝具なども、ロシアに比べ酷寒地向けではない。さらに慣れない地で腸チフスを患い、栄養不足による脚気(かっけ)も蔓延(まんえん)する。

 明治から大正にかけての文豪・森鴎外は軍医でもあり、日露戦争では第二軍の軍医部長として戦地に赴いた。戦いで負傷した兵の手当てや病気治療のもようを野戦衛生長官あてに報告し、今、鴎外全集の中に収められている。

 奉天の南でロシア軍と対峙(たいじ)していた38年2月16日付の報告では第二軍だけで新たに26人が凍傷を負い、腸チフスは198人、脚気に至っては955人が新たに発症した、とある。まさに満身創痍(そうい)の軍隊だった。

寒さの中、戦端を開いたのはロシア軍だった。1月25日、奉天西南の黒溝台付近で、日本軍の左翼(西)を攻めた。

 日本軍もこれに反撃、小康状態となったが、満州軍の大山巌総司令官は2月20日、総攻撃を指示した。氷が解ける春になると、ぬかるみで動きにくくなるからだ。

 2月22日、右翼(東)の鴨緑江軍が行動を開始、27日には左翼の第三軍が、ロシア軍の背後を突くかのように前進を始めた。

 一種の陽動作戦だったが、クロパトキンはこれにはまり、軍が右往左往する間に、一、二、四軍が中央から攻撃をかけた。ロシア軍は北に向かって退却を始める。3月10日、ついに奉天が陥落、大山総司令官の「入城」となる。

 クロパトキンはロシアで名将とされたが、一連の戦いで日本軍を必要以上に恐れ退却を繰り返し、後にロシア国内で非難をあびた。

 いずれにせよ日本陸軍は「世界一」とされたロシア陸軍ばかりでなく、満州の寒さや種々の病気にも打ち勝ったのである。(皿木喜久)

                   ◇

【用語解説】首山堡(しゅざんぽ)の戦い

 明治37年8~9月の遼陽の会戦では遼陽の南側の首山堡をめぐる攻防が焦点となった。小高い山や田畑からなるこの地をロシア軍が要塞として固めていたからである。

 日本軍は8月31日から第二軍を中心にこの首山堡に総攻撃をかけた。中でも大隊を率いる橘周太少佐(死後中佐)は、先頭に立って首山堡の中心、一四八高地を奪う。だがロシア軍の反撃を受け戦死、高地は奪い返されるが、翌日第二軍が攻略に成功、遼陽の会戦勝利の突破口となった。橘はこれにより海軍の広瀬武夫中佐と並ぶ陸の「軍神」と呼ばれることになる。

●=木へんに貞もっと見る
.