縄文人の反乱 日本を大事に

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●油団 ゆとん

2014年07月13日 21時08分56秒 | 色んな情報

●油団 ゆとん
◆『●油団(ゆとん)●   夏の風物詩』 http://amba.to/Ql0soI
 
◆『●油団(ゆとん)●』     http://amba.to/Oi1SfD
 
◆ ●和紙と紙   ●越前和紙  http://is.gd/Y4n5Fo
 
◆油団(ゆとん、ゆたん)     http://is.gd/KHuafv
日本の伝統工芸品の一つ。 幾重にも貼り重ねた和紙の表面 に荏胡麻油を、裏面に柿渋を塗って作られる(漆が用いられることもある)。 暑さをしのぐ ため、夏場に畳の上に敷く(俳句の夏の季語にもなっている)。
 
◆油団 - 日本の手しごと     http://is.gd/fO3C9o
油団と書いて「ゆとん」と読む。油団のことが気になり出したのは、この高濱虚子の俳句を目にしてからだ。夏の季語として使われる油団は、柱影が映り込むほどにつるつるした表面をもつ和紙製品である。どうしても実物が見たくなって探した。
 
◆『油団(ゆとん)』について…夏の「杉原家の座敷」http://is.gd/M5tWBC
和紙を何枚も張り合わせ、荏の油を何度も塗り重ねてゆく、
根気と時間のかかる作品です。
すべて受注生産品です。(たまに、在庫があります。)
油団で昼寝する・・・最高の贅沢・・・
 
◆武田邦彦 (中部大学): 環境よもやま話 その三十 油団  http://is.gd/SXrpNK
― 私たちには「油団」がある ―
 「油団」と書いて“ユトン”と読む。この素晴らしい日本の伝統家具を知っている人は少ない。

 福井県鯖江市に一軒の表具店がある。商号は「紅屋紅陽堂」。日本でただ一軒、油団を作ることができる職人、牧野さんの店である。

 私が油団を知ったのは、井戸理恵子さんらが執筆・編集された「職人(三交社)」という本だった。そこには滅び行く日本の伝統職人芸が美しく描かれており、その一つに油団があったのである。

  油団は数枚の和紙を重ねながら糊のついた独特の刷毛で叩きながら丹念に作っていく。紅屋紅陽堂の離れの作業場、そこは夏の強烈な暑さでむせ帰っているが、そこで牧野さんは淡々と作業を繰り返す。

 そしてできた新品の油団はそれほど優れているものではない。でも、それを10年、20年と使い込んで行くうちに世にも珍しい一品になるのである。
 
◆〜油団(ゆとん)〜 紅屋紅陽堂 http://is.gd/Edq7zF
受け継がれる伝統工芸品
製作技術で初 福井県指定無形民俗文化財に指定
100年近く使い込まれた油団
 
油団は江戸時代の後期頃までは日本各地で作られていましたが、その技が受け継がれ現在でも作っているのは、鯖江市の表具店「紅屋紅陽堂」のみです。
 
紅屋紅陽堂で作られる油団は、厳選した越前和紙を10数枚重ね合わせ、表にえごま油を塗り、裏に柿渋を撒いて作くる、夏場の敷物です。
 
良質な和紙を大量に用い、大変な手間と技術を必要としするため高価であり、昔から名家や料亭などで涼を取るために使われてきましたが、冷房器具の普及などで姿を消しつつあります。


本日午9時に野嵩ゲートに集合し、久しぶりのフェンスクリーン作業を行いました。

2014年07月13日 20時00分39秒 | 色んな情報

本日午9時に野嵩ゲートに集合し、久しぶりのフェンスクリーン作業を行いました。
手登根 安則
参加人数は10名。
皆、久しぶりの再会に笑顔がこぼれておりました。
さて、野嵩の汚損状況は結構酷かったです。
警察官の話によると、彼らは警察官が警ら中に貼ることはせず、引き上げたあとに蝿のように沸いて貼ったようだとの話。...
貼った連中がどんな年齢層なのかは、基地に投げ込まれたビール缶の種類が糖質オフなのを見ても一目瞭然です。
ここの除去作業は20分ほどで終了しました。
喜友名のフェンスは、熱き男Kさんが先に除去してありました。
ここを片付けたあと、上大謝名に移動です。
上大謝名には、バッテンが30個ほど貼られていましたが、ここも20分程度で除去完了。
上大謝名自治会の自治会長さんはなんと、TVや新聞にもよく登場する汎米、反オスプレイの急先鋒ですが、ご自身の足元がこうして汚されているのに、何の動きも取らなかったということは、地域の景観を守ることより、街を汚す反対派に思いを寄せているということでしょうか。
ここのは台風前に貼られています。
地元の自治会で問題にならないのが不思議でなりません。
3箇所で収集したアカテープは、大きなごみ袋1杯分になりました。
けが人も、熱中症になる方も出ず、賑やかで楽しかった作業であったことを、ここに報告させていただきます。

ひとつ剥がせば ひとつだけ綺麗になる。

 


●特攻 ただ涙 ありがとう

2014年07月13日 18時49分53秒 | 色んな情報

●特攻 ただ涙 ありがとう
◆とっ こう【特攻】
「特別攻撃」の略。 「特攻機」 「特攻作戦」
「特攻」に似た言葉»   突撃  突進  人間魚雷  進撃  襲撃
 
◆特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)http://is.gd/A8Msdb
ほぼ生還の見込みがない、もしくは戦死を前提とする攻撃(特別攻撃)を行う部隊戦術の通称。略称は特攻隊(とっこうたい)。ここでは特別攻撃(とくべつこうげき)、略称特攻(とっこう)も合わせて紹介する。
特攻隊は、軍事攻撃に際して、攻撃する者の生存に対する対策が極めて小さい(決死)、あるいは皆無(必死)である部隊戦術。語源は、太平洋戦争初戦で日本海軍によって編成された、ほぼ生還の見込みのない攻撃を行う特殊潜航艇甲標的の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである。第二次世界大戦末期には、爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たり、自爆する生存確率がほぼ皆無であるものが多くなった。日本軍の特別攻撃隊の他、独空軍のエルベ特別攻撃隊の例がある。有名なものに日本海軍の神風特別攻撃隊がある。

転じて特攻は、軍事攻撃以外の捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「Tokko」(トッコウ)、「Kamikaze」(カミカゼ)として通じている。
 
◆神風特別攻撃隊  http://is.gd/6Xxbuo
(しんぷうとくべつこうげきたい、かみかぜとくべつこうげきたい)
大日本帝国海軍の航空機による特別攻撃隊である。1944年10月20日に最初の攻撃隊が編成され、1945年8月15日の終戦まで続いた。最も有名な特別攻撃隊である。
 
◆【戦争】神風特別攻撃隊 実際の映像 .
https://www.youtube.com/watch?v=0eXsQo-CpOg
 
◆日本を守るため命を捨てた特攻隊の実際の映像。
大東亜戦争の黒幕
https://www.youtube.com/watch?v=Stp98UsKhk4&feature=related
 
◆【昔の日本語を学ぶ人達】歌と踊り インドネシアの少女達
https://www.youtube.com/watch?v=sZziY0LrVJ8
 
◆Alinco
この方たちがいなければ現在の日本も人もいなかった
そう考えると本当にこの映像は軽い気持ちで見るようなものではない
心から感謝送る事が必要
飛行機に乗り伊豆から墜落するという行動は並大抵のものじゃできない
今の若者や大人にもできるわけがない。
 
◆Jennifer Y
「日本人がどこででも胸を張って風を切って歩く世界が夢だった」という遺書をみたことがある。今現在そのような世界になっているだろうか。まずは私たちから変わっていかなければならないと思う。日本人である誇りを持て。
 
◆YUKIkazuki
特攻していった人たちにも愛する人がいたんですよね…愛する人の為に自分を犠牲にする 尊敬します。
 
◆特攻隊員の遺した遺書の、心を打たれた一文 - NAVER まとめ  http://is.gd/YsXaIC
会いたい、話したい、無性に。
出典陸軍特別攻撃隊 第20振武隊 穴沢利夫少尉(中央大学)
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/phot47.JPG
探して追加|アップロード
自分の愛する人へ送った言葉。
 
◆父さん、大事な父さん
母さん、大事な母さん
永い間、色々とお世話になりました。
出典神風特別攻撃隊第三草薙隊 永尾 博中尉
 
◆人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に、半分づつさしあげます。
出典陸軍特攻第七十七振武隊 相花信夫少尉
 
◆お母さん、よく顔を見せて下さい。しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
出典神風特別攻撃隊第5神剣隊 茂木三郎少尉
 
◆神風特別攻撃隊のページ  http://is.gd/AyuQcF
 太平洋戦争の末期、日本陸海軍は爆弾を積んだ飛行機を人間に操縦させて、本土へ押し寄せる連合軍艦隊に体当たりするという、もはや戦法とも言えぬ戦法を編み出して組織的に実行しました。飛行機ばかりでなく、人間が操縦する魚雷やモーターボートによる体当たり、さらに陸上では兵士自らが爆雷を抱いて戦車に体当たりする戦法も行なわれていたのです。こうして多くの兵士たちが若い生命を散らしていきました。もちろん古今東西、若い兵士たちが戦死しなかった戦いなどありませんが、太平洋戦争末期の日本軍のように、若い兵士たちが命令一下、100%戦死するしかない作戦に組織化され、大挙して出撃していった例は他にないのではないでしょうか。私は幼少の頃から、この神風特別攻撃隊に関心を持って研究してきました。隊員に対する崇拝、指揮官に対する批判、そして日本人としての反省、それらを気のおもむくままにホームページに書き止めておこうと思います。内容は前後することもあるかと思いますが、後日機会があれば大幅に加筆・編集のうえ出版するかも知れませんので、恐れ入りますが、この内容をどこかへ公表されたいと思われる方がもしいらっしゃいましたら御一報ください。また私自身がどなたかの著作権を知らずに侵害している場合もお知らせくだされば幸いです。


●特攻 ただ涙 ありがとう

2014年07月13日 18時42分51秒 | 色んな情報

●特攻 ただ涙 ありがとう
◆とっ こう【特攻】
「特別攻撃」の略。 「特攻機」 「特攻作戦」
「特攻」に似た言葉»   突撃  突進  人間魚雷  進撃  襲撃
 
◆特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)http://is.gd/A8Msdb
ほぼ生還の見込みがない、もしくは戦死を前提とする攻撃(特別攻撃)を行う部隊戦術の通称。略称は特攻隊(とっこうたい)。ここでは特別攻撃(とくべつこうげき)、略称特攻(とっこう)も合わせて紹介する。
特攻隊は、軍事攻撃に際して、攻撃する者の生存に対する対策が極めて小さい(決死)、あるいは皆無(必死)である部隊戦術。語源は、太平洋戦争初戦で日本海軍によって編成された、ほぼ生還の見込みのない攻撃を行う特殊潜航艇甲標的の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである。第二次世界大戦末期には、爆弾、爆薬等を搭載した軍用機、高速艇、潜水艇等の各種兵器、もしくは専用の特攻兵器を使用して体当たり、自爆する生存確率がほぼ皆無であるものが多くなった。日本軍の特別攻撃隊の他、独空軍のエルベ特別攻撃隊の例がある。有名なものに日本海軍の神風特別攻撃隊がある。

転じて特攻は、軍事攻撃以外の捨て身による体当たり・自爆攻撃という意味で使われることもある。日本国外においても「Tokko」(トッコウ)、「Kamikaze」(カミカゼ)として通じている。
 
◆神風特別攻撃隊  http://is.gd/6Xxbuo
(しんぷうとくべつこうげきたい、かみかぜとくべつこうげきたい)
大日本帝国海軍の航空機による特別攻撃隊である。1944年10月20日に最初の攻撃隊が編成され、1945年8月15日の終戦まで続いた。最も有名な特別攻撃隊である。
 
◆【戦争】神風特別攻撃隊 実際の映像 .
https://www.youtube.com/watch?v=0eXsQo-CpOg
 
◆日本を守るため命を捨てた特攻隊の実際の映像。
大東亜戦争の黒幕
https://www.youtube.com/watch?v=Stp98UsKhk4&feature=related
 
◆【昔の日本語を学ぶ人達】歌と踊り インドネシアの少女達
https://www.youtube.com/watch?v=sZziY0LrVJ8
 
◆Alinco
この方たちがいなければ現在の日本も人もいなかった
そう考えると本当にこの映像は軽い気持ちで見るようなものではない
心から感謝送る事が必要
飛行機に乗り伊豆から墜落するという行動は並大抵のものじゃできない
今の若者や大人にもできるわけがない。
 
◆Jennifer Y
「日本人がどこででも胸を張って風を切って歩く世界が夢だった」という遺書をみたことがある。今現在そのような世界になっているだろうか。まずは私たちから変わっていかなければならないと思う。日本人である誇りを持て。
 
◆YUKIkazuki
特攻していった人たちにも愛する人がいたんですよね…愛する人の為に自分を犠牲にする 尊敬します。
 
◆特攻隊員の遺した遺書の、心を打たれた一文 - NAVER まとめ  http://is.gd/YsXaIC
会いたい、話したい、無性に。
出典陸軍特別攻撃隊 第20振武隊 穴沢利夫少尉(中央大学)
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/phot47.JPG
探して追加|アップロード
自分の愛する人へ送った言葉。
 
◆父さん、大事な父さん
母さん、大事な母さん
永い間、色々とお世話になりました。
出典神風特別攻撃隊第三草薙隊 永尾 博中尉
 
◆人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に、半分づつさしあげます。
出典陸軍特攻第七十七振武隊 相花信夫少尉
 
◆お母さん、よく顔を見せて下さい。しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
出典神風特別攻撃隊第5神剣隊 茂木三郎少尉
 
◆神風特別攻撃隊のページ  http://is.gd/AyuQcF
 太平洋戦争の末期、日本陸海軍は爆弾を積んだ飛行機を人間に操縦させて、本土へ押し寄せる連合軍艦隊に体当たりするという、もはや戦法とも言えぬ戦法を編み出して組織的に実行しました。飛行機ばかりでなく、人間が操縦する魚雷やモーターボートによる体当たり、さらに陸上では兵士自らが爆雷を抱いて戦車に体当たりする戦法も行なわれていたのです。こうして多くの兵士たちが若い生命を散らしていきました。もちろん古今東西、若い兵士たちが戦死しなかった戦いなどありませんが、太平洋戦争末期の日本軍のように、若い兵士たちが命令一下、100%戦死するしかない作戦に組織化され、大挙して出撃していった例は他にないのではないでしょうか。私は幼少の頃から、この神風特別攻撃隊に関心を持って研究してきました。隊員に対する崇拝、指揮官に対する批判、そして日本人としての反省、それらを気のおもむくままにホームページに書き止めておこうと思います。内容は前後することもあるかと思いますが、後日機会があれば大幅に加筆・編集のうえ出版するかも知れませんので、恐れ入りますが、この内容をどこかへ公表されたいと思われる方がもしいらっしゃいましたら御一報ください。また私自身がどなたかの著作権を知らずに侵害している場合もお知らせくだされば幸いです。


●『えんぶり(朳)青森県の豊作祈願の祭り』

2014年07月13日 12時59分58秒 | 色んな情報

●『えんぶり(朳)青森県の豊作祈願の祭り』
◆『えんぶり(朳)青森県の豊作祈願の祭り』 http://amba.to/PBTq9Y
 
◆『●正月行事』 http://amba.to/XheYhl
解説文:  東北各地には初春(小正月)の祝いに、田植等田作りの順風満帆、豊作の様を前もって演じみせる田植踊が広く行なわれてきたが、このえんぶりはその一種であり、田植前の杁【えぶり】ならしのところに力点のおかれた八戸地方一円に発達したものである。
 馬首を形どったような大きな烏帽子【えぼし】をつけた太夫(三人~五人)が、首を傾け傾けして杁(棒の先に鳴子板や金輪をつけたもの他)を地面に突き立て、あるいは摺るようにして踊る。
 
◆え ぶり 【柄振(り)・ 朳 】
① 土塊を砕いてならしたり,穀物の実などをかき集めたりするのに用いる農具。長い柄の先に横板をつけた鍬(くわ)のようなもの。
② 能楽の小道具の一。竹の先に板をつけたもので,雪かきの具に用いる。
   ・・・・・・・・・・
・えん ぶり 【 朳 】
① 東北地方で,朳(えぶり)のこと。
② 青森県八戸地方を中心に小正月(1月15日),現在では2月17日頃に行われる豊作予祝の田植え踊り。
 
◆えんぶり(朳)http://is.gd/g0xnVc
初春の神事として青森県八戸市一円を中心とする東北各地で広く行われる予祝芸能の一種で、八戸市における保護団体は八戸地方えんぶり連合協議会。


●観音様

2014年07月13日 12時44分26秒 | 色んな情報

●観音様
◆『母と女神と観音様』 http://amba.to/1qvJcwv
 
◆『【たけしの教科書に載らない日本人の謎!仏教と怨霊と天皇…なぜホトケ様を拝むのか】』 http://amba.to/1qvJx2l
 
◆鎮守の神様 【・歌詞】村祭(むらまつり)  ??? http://blog.goo.ne.jp/s6990714726/e/76de64c7225fcb9601925820a014d154
 

 
◆観音様(かんのんさま). http://is.gd/ibzI1J
 
◆観音さま - 不洗観音寺  http://is.gd/mpWRsV
朝、起きて、会社に行って仕事をする。帰って来て、食事をして寝る。同じリズムで流れていく日月火水木金土・・・人間というものはこういう道をたいていのときは、すらすらとたどっている。ところが、ある日、”なぜ”という問いが頭をもたげる。すると驚きの色に染められた倦怠の中ですべてがはじまる。すべてがはじまる-これが重大なのだ。(新潮文庫「シジフォスの神話」より)
 
◆ブッダとお釈迦様と観音様との違いを  http://is.gd/Iqr6qJ
 
◆観音さまの教え | 音羽山 清水寺    http://is.gd/Si0MTe
当山の御本尊である十一面千手観世音菩薩をはじめとする、観世音菩薩は通称「観音さん」と呼ばれ、日本で最も馴染みのある仏さまです。
観世音とは「心で自由自在に世の中の音を観る仏」といわれ、その観音さまの心とは、次の五観です。
1、  真実を求め真理を愛する心、真観。
2、  清く澄んだ、私利私欲に走らず、利他を重んずる心、清浄観。
3、  あらゆるものを平等に観ずる心、広大智慧観。
4、  他の苦しみを自らの苦しみとして共感できる心、悲観。
5、  他の楽しみ、喜びを共に観じられる心、慈観。
 
◆厄ばらいの寺 安来 清水寺 - 観音様ってどんな仏様? http://is.gd/X9Ricc
観音様ははとても沢山のお名前を持っていらっしゃいます。観世音菩薩、観自在菩薩、観世自在菩薩、施無畏大士、光世音等々と呼ばれていますが、皆さんがよくご存知のお名前は観音教と言うお経に出てくる「観世音菩薩」般若心経に出てくる「観自在菩薩」と言う呼び名でしょう。それにもう一つ、観音像の印を説明する時によく言われる「施無畏大士」でしょうか。
 
◆観音菩薩、 観音さま、観音様(仏像事典写真画像付き)http://is.gd/P3FKN4
梵語でアバロキテーシュバラ、光世音菩薩、観自在菩薩、ともよばれ、「観音」とは苦しみの中にいる衆生が一心に観音の名を念じると、直ちにその「音」を「観」じて救われることから観音という名前が付きました。


●道祖神 どうそしん

2014年07月13日 11時21分15秒 | 色んな情報

●道祖神 どうそしん
◆さい の かみ 【障の神・塞の神・〈道祖神〉】
⇒ さえのかみ(障神)
   ・・・・・・・・・・
・さえ の かみ 【障の神・塞の神・〈道祖神〉】
悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神。旅の安全を守る神。また,生殖の神,縁結びの神ともする。さいのかみ。どうそじん。
   ・・・・・・・・・・
・どうそ じん 【道祖神】
村境や峠などの道端にまつられる,禍・悪霊を防ぐ神。旅の安全をもつかさどる。婚姻や出産の神とされることもある。地蔵・猿田彦神と習合したものも多い。さえのかみ。手向けの神。道陸(どうろく)神。
 
◆道祖神   歴史民俗用語辞典
読み方:ドウソジン
道路の悪霊を防いで旅人を守護する神。
別名 道陸神、さえのかみ
 
◆道祖神(だうそじん)隠語大辞典
読み方:どうそじん
生殖器神の一なり、さいのかみともいふ。また道陸神(だうろくじん)ともいふ。道祖神は伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が泉津平坂(よもつひらさか)で伊奘冊尊に会して絶妻の誓を立て此地より来るなかれとて投げられたる杖より成れる岐(しなど)の神又は同尊が根の国、底の国に到りて、穢れたるを清めんとて、日向の国の橘の小門の阿波岐(あはぎ)ケ原(はら)で禊したまへる時に投げられし時より成るといふ衝立船戸神(ついたてふなどのかみ)を祀つて災禍を除くものとせられ、又、塞(ふさぎ)の神ともいはれ、猿田彦命(さるたひこのみこと)をもこの神とし、旅行、縁結びの神とされ、日本各地の結婚、恋愛の風俗に多大の関係を有する原始的生殖器崇拝の意味をもつた神。
 
◆道祖神(どうそじん、どうそしん)http://is.gd/H4ntsW
路傍の神である。集落の境や村の中心、 村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の形態で祀られる神で、松尾芭蕉の「奥の細道」では旅に誘う神様として冒頭に登場する。村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されている。 古い時代のものは男女一対を象徴するものになっている。餅つき(男女の性交を象徴する)などにもその痕跡が残る。
 
◆『●道祖神(どうそじん、どうそしん) 日本宗教のルーツ』 http://amba.to/QhqLJ7
 
◆『●魔除け●鬼瓦●道祖神●「蘇民将来(そみんしょうらい)之子孫」』 http://amba.to/QhqEgR


【皆さん、荒神谷遺跡の謎を解いてみませんか】 

2014年07月13日 08時29分40秒 | 色んな情報
中塩 秀樹さんの写真
中塩 秀樹さんの写真
中塩 秀樹さんの写真
中塩 秀樹さんの写真
中塩 秀樹さんの写真
 

 

【皆さん、荒神谷遺跡の謎を解いてみませんか】 
中塩 秀樹 
 30年前の夏、島根県出雲市荒神谷で発見された銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個は、なぜきれいに並べて、土に埋められていたのか? いまだに古代のなぞは私たちの好奇心をかりたてる。弥生時代に、銅剣や銅矛を使った祭礼をやめて、土に埋めるようになった事件は何か?

【荒神谷遺...跡とは】

荒神谷遺跡は、今からちょうど30年前、昭和58年(1983年)広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡分布調査で、調査員が田んぼのあぜ道で一片の土器(古墳時代の須恵器)をひろった事がきっかけとなり発見されました。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本の銅剣(どうけん)が出土しました。
遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にあります。
銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年
には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土しました。

【世紀の大発見】
 
■銅剣358本
荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土しました。この発見はわが国の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫る大きな出来事となりました。

■銅鐸6個と銅矛16本
銅剣358本のすぐ近くに埋められていた銅鐸6個と銅矛16本の組合わせは、これまでに例のないものでした。銅鐸は国内最古型式のものが含まれ、銅矛には北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様があるなど、荒神谷青銅器の発見は、弥生時代についての興味と関心を大いに深めるきっかけとなりました。

■銅剣とは
銅剣は実用の武器として弥生時代のはじめ頃に大陸から伝わり、日本で作られるようになってから、祭器へと変わりました。出土した358本の銅剣は、いずれも50cm前後の中細形といわれる型式で、「出雲型銅剣」といわれるようになりました。
358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

■銅鐸とは
銅鐸は神を招くカネといわれています。弥生時代前期の終わりごろ、日本では祭りのための道具として使われました。銅鐸は実際に鳴らすもの(聞く銅鐸)でしたが、しだいに大型化し、鳴らさずに遠くからあおぎみるだけのもの(見る銅鐸)へと変わっていきました。 銅鐸勢ぞろい

■銅矛とは
銅矛勢ぞろい
銅矛は銅剣、銅鐸とともにマツリのための道具として使われました。
銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。銅矛もまた銅剣と同じように、弥生時代前期には、根元の袋部分に柄をつきさす「細形」の武器でしたが。しかし中期以降は大型化して実用的でない「中細形」「中広形」「広形」へと変化していきます。荒神谷で発見された全ての銅矛の袋部には鋳型の土が残されたままでした。このことは、銅矛を武器として使用するより、祭器として使用する目的があったと考えられます。


【祥瑞の思想、昭和天皇の海外ご訪問とエンペラー・ウェザー】

2014年07月13日 08時11分41秒 | 色んな情報

【祥瑞の思想、昭和天皇の海外ご訪問とエンペラー・ウェザー】

昭和天皇が海外にゆかれた時のちょっと不思議な出来事のお話です。奇跡と見るか、偶然の重なりと見るか、世の中にはいろんなことがあるものです。
アンカレッジ到着後、随員の小坂尚志宮内庁総務課長から同庁に入った報告によると、離陸30分後にアラスカの空に輝くオーロラが見え、陛下は窓に額をくっつけるようにしてご覧になった。(『読売新聞』昭和50年10月1日)
 この新聞記事は昭和天皇が訪米された時の記事です。それに先立つこと昭和46年に昭和天皇はご訪欧され、その時両陛下の御召飛行機のパイロットを務められた富田喜久雄氏インタビュー記事が文藝春秋に載ったことがあります。
 天皇、皇后両陛下をお乗せした特別機が、アンカレッジを飛び立って、ご訪欧の第一歩である、コペンハーゲンへ向かった直後のことでした。空いっぱいに、実に見事なオーロラが出たんです。私たち操縦席にいる仲間は、このコースを何べんも飛んでいるのですが、これほど見事なオーロラを見たことがない、というほどきれいでした。
 両陛下はお発ちになる前、ぜひオーロラを見たいとおっしゃっていたそうですが、これは冬でないとなかなか見られない。この時期ではちょっと無理でしょうと、宮内庁の方に申し上げておいたんです。それがどうして、冬でも何年かに一度というようなオーロラがでたんですからね。(富田喜久雄「天皇をお乗せした三万キロ」『文藝春秋』昭46年12月号)  
 御召の飛行機は、ちょうどオーロラにとりまかれて、縦に横にサラサラと流れていくような光に包まれて飛んだそうです。冬にしか見られないオーロラが秋のさなかに、しかも冬でさえめったに見られないような見事なものが昭和天皇の御召飛行機を包むように現れたのですから富田氏の驚きようが、記事にあらわれていて、富田氏は「こういうのを瑞光というのかもしれません」と語っていました。
 天子様の御徳が、自然現象に及び、奇瑞を顕すという考えが、支那の思想に古くからあり、一般に祥瑞と呼ばれて、我が国にも早くから伝わり、天皇の御徳をおたたえする出来事として数多く、記録されています。富田氏はまさにそんな感じに思えたのです。そして昭和天皇の2度目の外国訪問でも、秋であるのにまたもオーロラが現れたのですから、祥瑞というものを信じたくなるではありませんか。
 天皇陛下のご行動にはいつも天候の恵みがついてまわるというのはよく聞く話です。そのため天皇晴れという言葉もあります。訪欧の旅にご出発の前の9月26日は東京は豆台風の接近で大雨になり、翌日のご出発が案じられるほどでした。ところが一夜明けた27日は文字通りの日本晴れでスモッグも洗い流され、一点の雲もない碧空に御召機は光を放ちながら翔けのぼりました。昭和天皇が御訪欧された時の随員であった作家の北条誠氏は、『皇城の人びと』の中で書いています。
 アンカレッジで、御召機は、今年はじめてのオーロラに包まれた。コペンハーゲンでは、一足先に私が到着した時は小雨だったが、御召機到着の30分前に晴れあがり、美しい虹が架かった。その虹の橋に乗って御召機が浮かんだ。
 ブリュッセルでは濃霧、その為、私は到着が遅れた。しかし、陛下の御召機は一本の帯のように割れた霧の間から、無事予定通り着陸したという。
 五たび、ロンドンで「奇跡」を見て、私はもう偶然とは思えなかった。
 両陛下より一時間半早く着いた私は、ヒースローの空港の上で、たっぷり名物の霧に見舞われたが、その霧が御到着の頃には晴れ上がった。御滞在の三日間、既にもう冬のロンドンでは信じられない青空が続いていた。御出発の朝、陛下より四五分後に出発する私の飛行機は、湧き起こった濃霧で離陸不能となり、各便とも2時間から3時間遅れた。
 昭和天皇のご行動はことごとく天候に恵まれ、予定通りに運ばれたにもかかわらず、北条氏のように先発後発の随員たちの場合は、なぜか微妙な差で、こうも違いが出ました。
 さらに北条氏は書いています。
 アムステルダムの動物園前で、反日分子が陛下のお車に無礼を働いた時の事だ。
 突然空が曇り、小雨がばらつき、竜巻のような突風が枯葉を巻き上げ、カメラの三脚をなぎ倒した。ほんの2、30分で、陛下の動物園御出発と共に、その雨風はやんだ。
そして、最後のケルンの空港では、
 御召機の出発をお見送りして、私たちは食堂に入った。ビールで乾杯しているとき、一天俄にかき曇り、大雨に稲光まで加わって、私の乗るハンブルク行の飛行機は一時間出発が遅れた。
 まさに嘘のような話である。昭和の今日、私は「神風」を信じるほど古風ではない。しかし「偶然」とすれば、この連続はむしろ不気味ではないか。
 五たび、すなわち、御出発時、アンカレッジ、コペンハーゲン、ブリュッセル、ロンドンでの「神がかり」的な体験に遭遇して、北条氏は、このように感想を結んでいます。
ところが「奇跡」は五たびではありませんでした。
 御召機のパイロットの富田氏はさらに書いているのです。
 ジュネーブからボンに行く途中、ミュンヘンの上を通ったんです。いま、オリンピックの会場の建設工事が進んでいます。両陛下はぜひそれをご覧になりたいということでしたし、ドイツ側も見ていただきたいということだったので、会場上空を高度を下げて、ひとまわりしてきました。
 不思議なことに、事前に一度、同じコースで自分たちが飛んだ時には、靄がかかっていて、ほとんど見えなかったのに、「それが両陛下が乗られて行ってみると、雲ひとつない上天気で、きれいに見えたんですからね。」そして帰路、昭和天皇はグリーンランドを見たいとおっしゃられています。行きはちょうどお休みの時間でご覧になれなかったのです。
 何とかして見えるようにしたいと思いながら飛んでいると、パッと雲が晴れて、下の飛行場の光まではっきり見えたんです。
 それとマッキンレー山脈。これはアンカレッジにだいぶ近づいてからですが、予報によれば、雲が多いので「見えるとは申し上げるな」という事にしておいたんです。ところがこれも、そこまで行くと全然雲もなしになりましてね。山ぜんぶが見えるわけですよ。
 昭和天皇が2回目の外国訪問で訪米されたとき、その前一週間は大雨でニューヨーク、ワシントンでは、主要道路さえまるで川のようになり、特に飛行場と市内をつなぐ道路が出水で一時寸断されたほどでした。26日、キッシンジャーとの会談でニューヨークからワシントンに向かった宮沢外相は到着に手間取っており、関係者は、このまま降り続けば、天皇のお立ち寄りの際、道路状態が悪く不手際があってはと心配していましたが、
 天皇御出発の29日、米国はほとんど全土にわたって久々の快晴に恵まれ、絶好の歓迎日和となった。天気予報によると、この好天は天皇がバージニア州ウィリアムズバーグに御訪米の第一歩をしるされる30日も持続する見通しで、特に先週いっぱい連日の大雨を記録した東部沿岸も29日は雲ひとつない秋晴れ。悪天候を心配していた米当局やワシントン、ニューヨーク等の日本側関係者は、「よいお天気のもとで天皇をお迎えできる」とほっとしている。(産経新聞 昭和50年9月30日) と報じられました。
 アンカレッジのあと、ウィリアムズバーグの空港に降り立たれたとき、「薄雲の空から両陛下を歓迎するかのように、突然まぶしいバージニアの陽光が、空港エプロンに降りそそぐ」(読売新聞 50年10月1日)といった場面が展開しました。
 ワシントンでは、早朝雨がぱらついていましたが、御到着時にはすっかりあがっていました。昭和天皇が、ホワイトハウスでフォード大統領のあと、御挨拶の言葉を述べられた途端、
 雲の隙間から、サッと明るい日差しが一面に飛び込んできた。思わず群衆の間から「オー」と歓声が上がった。実況中継していたABCテレビのベル記者が「さすが天皇。お日様を呼び戻すとは」と放送していた。(読売新聞 50年10月3日)
 その後は、快晴続きで“エムペラー・ウェザー”が全米土を覆いつくしたのでした。
聖王の御徳に天が感応してあらわしているという祥瑞の思想、みなさんはどうお考えでしょうか。