もやもや病と言うと、へんてこな名前の病気だと思われますが、実際は笑い事じゃない大変な病気です。
原因は未だ解明されておらず、頭を掻っ捌いて手術を受けるか薬を飲むかしかの治療の方法しか無い病気です。どう言う運命のめぐり合わせか、私はこのもやもや病と運命を共にする事になりました。生まれつきの病気なので、付き合って24年にもなりますが、病気の存在に気付いたのは19歳の頃でした。
2002年の3月、突然の脳内出血(発病)、日本への帰国、半年に渡る入院、二度の脳外科手術、リハビリ…を経て現在に至りますが、病気と付き合うようになってから現在までの事を冗談も踏まえてエッセイにしてみました。
この病気は根本的には治す事が出来ない病気ですが、死ぬかも知れなかった体験を経て、ここにもやもや病のエッセイを綴る事が出来るのは嬉しい限りです。
お時間が有れば、一度見てやって下さい。
細路希のもやもや病エッセイ
血管撮影、血流の検査など検査の結果、やはり手術をするより方法は無かった。
ただ、脳の手術という事で、失敗すれば命の保証は出来ないし、手術したところで絶対に成功する保証もモヤモヤ病を根本的に治す事は出来ないと、主治医に言われた。でも、手術をしなければ、今後、また、モヤモヤ病の発作が起きて、身体が麻痺してしまったり、下手すれば脳梗塞や脳内出血を起こして、死んでしまう可能性も大きいと言われた。正直言って、迷っていた。当時の私は、まだ19歳で、20歳の誕生日も迎えていなかったし、まだまだ、やりたい事も山ほど有った。何よりも、死ぬのは嫌だったので、例え手術が成功と言えなくても、手術しようと決心した。このまま何もしないのも、選択の一つだったが、この先、病気が悪化して、長生き出来ないと言われて、そんな不安を抱えたまま、この先の人生を送るなんて、そんなのは私のポリシーに反していた。
それに、中国にいるダーリンが、私が元気になって戻って来るのを心待ちにしていた。それは、私にとって何よりの心支えだった。私はあんまり利かなくなった右手で、ダーリンに手紙を書いた。
『私は自分でやると決めたら、絶対に途中で音は上げない。』
私は、そう言う女で、性格は極めて男勝りである。しかも、何でも体験だと考えている所が有り、人に騙されようが、怪我しようが、何だろうが、他の人が体験していない事や、めったに体験出来無い事を経験した時、『良い勉強になった』、『良い体験をした』と思いながら、生きている。だから、この、モヤモヤ病の手術だって、私の見聞を豊かにしてくれたと信じている。
余計な知らないと言うのは、本当に幸せな事だ。私は幼い頃から、学校の体育の授業などで、思いっきり走ったり、急に跳び上がるような運動をすると、目の前が真っ暗になったり、吹奏楽部でトランペットを吹いたりすると頭がボーっとする様な事が良くあった。気分が悪くなると、学校の先生は『肺活量が足りないからだ』と、言っていたので、私も自分が運動不足のせいだろうと考えていた。学生時代は剣道部に所属し、自分の体を鍛えるように努力した。もともと、丈夫ではない体に鞭打って、運動をした。体は丈夫とは言えなかったが、体育の成績は良かった。
特に持久走や長距離走、水泳、サッカー、マット運動が得意だった。しかし、私がモヤモヤ病をもって生まれた事は、私自身はおろか、両親さえも知らなかった。その位、ほかの患者とは違って健康な状態を19年も維持していたのは、医者も驚いた程だ。若年性のモヤモヤ病の発病は、親が子供をテンカンの発作や知能障害と勘違いし、大きな病院で受診して発見されるケースや、私のように脳内出血を起こして発見される事が多いそうだ。ただ、この場合、知能障害や運動障害などが出る事が、多いらしく、私の様なケースは稀だとも言われた。ただ、病気の重さで言えば、左右両方の脳動脈に奇形があり、脳内血流も健康な人に比べると、ずっと悪い。
ただ、前方の血流の悪さを補う為に、後部の血管が非常に良く発達している、と言うのが医者の私の脳ミソに対する、診断結果だった。
ご存知でない方はインターネットで調べて頂くとして、モヤモヤ病と言う病気は原因不明の脳動脈の奇形が原因で、運動障害や言語障害、知能障害、脳内出血や脳梗塞が起き、それで発見される事が多いそうです。
私の場合、2002年3月に当時留学していた広州市内の大学の学生寮で、突然、脳内出血を起こし、病院に運ばれた。
私は寮の自室で脳内出血を起こした時、必死に廊下を這って寮内で一番中国語が上手な留学生の部屋に行き、助けを求めた。騒ぎを聞いた寮の管理人の女性が救急車を予防と120に電話をしたが、道が混雑しているいて到着までに20分以上はかかると言われたため、私は中国人の担任の先生と留学生の友人に付き添われ、タクシーで中山大学附属第三医院に運ばれた。
中国の病院はお金を先払いしないと、治療はしてくれない。
私は脳内出血を起こしたまま、適切なな治療を受けられなず、病院の廊下に30分も放置された。
脳と言うのは、非常にデリケートで、一旦細胞が死んでしまうと、もう元には戻すことが出来ないともいう。
この時起こした脳内出血は私の脳に取って、相当なダメージだったと思う。今は普通に生活できているが、一体どれだけの脳細胞がやられたか…数える訳には行かないけれど、とても心配している。
検査の結果、
私の病状は中国では手に負えない程の病状だったので、とりあえず病院で腰椎から髄液を抜いて、脳室近くで出血した血液を抜く治療を行った。髄液を抜くのは、激痛に絶える必要がある。
腰から針を挿して、髄液を抜くと言う治療を行った。一度には抜けないので、数日間隔で少しずつ、少しずつ、髄液に血が混ざらなくなるまで、続けなくてはならない。しかし、この治療が超~痛い!麻酔なしで極太の針を腰椎に刺されるのだ。大概の事では痛いと言わない私も『痛い』と言わざるを得なかった。…と言うか痛くて声にならない。
ただ、ただ泣き叫ぶことしかなかった。あんな声にならない痛みは、中々体験できないだろう。
最初の数日間、意識が朦朧としたまま、小汚い集中治療室へ入れられた。
ゴキブリ、ハエ、蚊、窓は開けっ放し…、とんでもない部屋だった。おまけに看護婦は、私の尻に痛み止めと称して、注射をブス!ブス!と乱暴に刺すのだ
そして、最初に運ばれた中山第三医院から中山第一医院の外国人専用病棟で一ヶ月間寝たきりにされ、2002年5月5日、日本に帰国した。医者の判断で現地の中国人の脳外科医、通訳兼看護婦を引き連れて、寝せられたままの帰国だった。