やはり、「風邪は万病のもと」 と言うのは本当で、婆ちゃんは風邪からくる嘔吐と下痢をこじらせて、脱水症状になり、それが原因で脳血管内に血栓ができてしまったのだ。
普段は元気いっぱいで、日本舞踊に旅行、飲み会、近所の家に行ってお茶飲みとフル活動しているとは言え、年寄りは年寄り。ちょっとした病気や怪我でも急激に体調が悪化してしまう事もあるだろうし…。
体調を崩し、病院の救急科にかかった婆ちゃんは、MRIの検査で右の脳血管内に2,3箇所の小さな梗塞が出来ている事が分かった。しかも、その時の検査で、脳動脈奇形がある事も分かった。脳動脈が脳内に入った所でブッツリとなくなっているという…。
この脳動脈奇形…実は私にも思い当たるふしが。実は私自身、脳動脈奇形である「もやもや病」を持っていて、19歳の時に脳内出血を起こし、その時に受けた精密検査でもやもや病が発見され、入院して二度の脳外科手術を受けた事がある。
そして、婆ちゃんが入院しているのは、私が7年前にもやもや病の為、手術と治療を受け、入院していた病院だ。脳外科では全国的にも有名な病院で、全国から患者が集まり入院している。
そんな有名な病院だが…、婆ちゃんの患った脳梗塞は進行性だった為、入院した後、数日で症状は悪化していった。しかも、口が麻痺していた為、数日間の絶食支持が出ていたのに食事が出て、それを食べた事による誤嚥性肺炎を起こしてしまった。
誤嚥性肺炎は老人性肺炎とも言われ、老人の死因の最も多いもので、直接的な死因として30%を占めると、7年前、私の爺ちゃんが死んだ時に主治医から聞いた事があり、爺ちゃんの死因もやはり肺炎だった。
老人の肺炎は危ない…。その事から一旦、脳梗塞の治療は中断し、まず肺炎の治療を優先する事になった。
婆ちゃんが肺炎を起こしたという知らせを聞き、病院に見舞いに行くと、症状の重いの患者がいる部屋に移動させられていた。
それでも、薬が効いたのか、少し症状は落ちついた様で、私達が持っていったラジカセで演歌を聞きながら、利く方の右手を少しだけ動かしたりしていた。
病室が変わってから、数日間は絶食だったが、症状が少し良くなると鼻から管を入れ営養ミルクを入れた。しかし、水を飲む事が出来ないので、口が渇くのだろう。しきりに水が飲みたいとかアイスが食べたい、ヤクルトが飲みたい…と言っていた。
私も入院中に数週間、絶食をした事があるが、脳の病気は胃腸が悪いわけではないので、お腹も空くし、喉が渇く。
その辛さは分かるけれど、また、食べ物が肺に入って誤嚥性肺炎を起こしてはいけないので、やっぱり我慢して貰わないと…。
私は2月6日に中国に戻る事になっていたので、あまり、付いていてはあげられなかった。2月5日の夜に見舞いに行ったのが最後になってしまったが、今の所、婆ちゃんは、まだ入院しなくてはならず、日本の家族も大変になるだろう。
風邪から来る嘔吐と下痢をこじらせ、脱水症状→脳血栓になってしまった私の婆ちゃん(84歳)。血圧が高めというほかは、これと言って悪い所がない元気いっぱいな婆ちゃん。
自分でも健康に自身があり、「俺は百歳まで生きられる!」と言っているほど、元気だったし、実際に1/27に脳血栓と診断され、入院する数日前まで、日本舞踊の稽古、芝居見物、新年会、成田山への参拝旅行と84歳の年寄りとは思えぬほど、アクティブに活動していた。
この元気さがアダとなってか、風邪をひいて嘔吐と下痢をこじらせた婆ちゃん。二度かかり付けの個人クリニックへ行き、点滴を打ってもらったが下痢の症状が治まらなかった。そこにつけて、トイレに行くのが億劫だと、あまり水分を取らなかった事が災いして、脳血栓になってしまった。
1/27の朝、私の弟の部屋来て「温風ヒーターの石油を入れてくれ」と言った婆ちゃん。ろれつが回らず、足元もおぼつかない様子だった。
看護師の資格を持っている弟は異変に気付き、祖母に病院に行こうと言った。
しかし、父は会社、妹は学校へ、母は夜勤から戻っていなかった。
そして、家にいたのは私と弟だけだった。婆ちゃんにすぐ救急車を呼んで病院に行こうといったが、頑固な婆ちゃんは抵抗した。
手足が痺れるのは、ずっと横向きで寝ていたからだと言い張り、整形外科に行くと言い張って、私達の言う事を聞かない。また、救急車なんか読んだら近所の人にウワサされて、恥ずかしい等と言って、自分で娘(伯母)に電話をかけ、迎えを呼んだ。
伯母夫婦はに10分程度で駆けつけてくれたが、ろれつが回らず、手足が覚束ない婆ちゃんを見て、すぐに市内の大型病院の救急科へ連れて行った。
弟が婆ちゃんに付き添い、私は家で待機し、母が夜勤明け帰ってくるのを待つことになった。
皆がバタバタしている所に、母が帰って来た。経緯を説明し、取り合えず伯母夫婦と弟が婆ちゃんを病院へ連れて行ったが、病院に付いてから受付をすませ、脳のMRIを撮り、撮影するまでに3時間以上もかかった。
救急車で病院に運ばれていれば、すぐに診察してもらえたのかも知れないが…。婆ちゃんが、私の弟や伯母、伯父に付き添われ病院に病院に行ってからの3時間…、私と母は自宅で弟からの電話を待っていた。
お昼に弟から電話が入った。MRI撮影で出た診断結果によると、婆ちゃんは脳の右脳側の脳血管に2,3箇所の血栓が発見され、即、入院、治療が必要な状態だった。
病院に入院した時は左半身に少し麻痺が出て、呂律が回らない位で、意識もハッキリしていたので、それほど深刻な状況になるとは思っていなかった。
入院当日、口が麻痺している事から、誤嚥(食べ物が肺に入る事)を防ぐ為、数日間の絶食との指示が出ていた。
婆ちゃんが入院して2日目。
私と母、弟は婆ちゃんの着替えや入院セット、手続き用の書類などを持って病院へ向かった。
病室に向かうと、婆ちゃんは点滴中だったが、意識はハッキリしており、月末にある寄り合いの会費の事や今回は参加できないとの事を連絡して欲しい…と言っていたので、これだけ意識がハッキリしているなら、症状はそれほど重くないのかなと思えた。
ちょうど、お昼時だったので、ほかの患者さん達は食事の準備をしていた。婆ちゃんは数日間の絶食と指示が出ていたので、食事は出ない…と思っていたし、看護士さんからも食事が出るとの話もなかった。
何しろ狭い病室、私達がほかの患者さんの邪魔になってはいけないと、一階のロビーで伯母を待つ事にした。
伯母は一時ごろ来ると言っていたので、その時間にもう一度、病室に行ってみると、数日間絶食と言われていた婆ちゃんが、なぜかご飯を食べていた。
しかも、咽てしまい、服にはご飯粒や味噌汁がこぼれていた。
…この時、ご飯を食べたのがいけなかった
食べ物が肺に入った為、婆ちゃんは肺炎を起こしてしまった。
前回からの続き…、
風邪をこじらせて脱水症状でフラフラになった婆ちゃん。母と私、妹によって病院へ強制連行された。本人は「病院には行きたくない!」と言い張ったが、フラフラになっている婆ちゃんを心配しない家族がどこにいるだろう。
多分、私達が無理やりにでも病院に連れて行かなかったら、下手したら死んでいたかも知れない。
私の母は病院で介護福祉士をしており、婆ちゃんを病院に連れて行く時、ちょうど夜勤へ行く時間帯だった。母は自分が勤めている大きな病院で診てもらい、点滴を打って一、二日ゆっくり入院させてもらおうと言った。
母が勤めている病院は多くの寝たきり老人が入院している為、それを知っている婆ちゃんは、そんな所に連れて行かれるのは嫌だと抵抗した。老人が多く入院している所は裏を返せば老人の病気の治療にもそれなりのノウハウがあると思うのだが…。
婆ちゃんが、あまりに嫌だと抵抗するので、仕方なくかかり付けの個人クリニックへ連れて行った。そこの病院は婆ちゃんが数十年にわたりかかって来た医者で、そこの病院しか行きたくないという。
結局、婆ちゃんはその個人クリニックに行き点滴を打ってもらった。医師から夕方四時半に迎えに来るように言われ、母は夜勤に、私と妹はクリニックの近くの書店に行き暇つぶしをする事に。
しかし、四時二十五分ごろクリニックに行った所、婆ちゃんの姿が見えない?!
クリニックの看護士さんに
「あの~、うちの婆ちゃんは点滴終わりましたか?」
と尋ねると、看護士さんは…、
「あ、ついさっきタクシーに乗って帰られました。お孫さんが迎えに来るからって、引きとめたんですが」
もっと、本気で引き止めろ~~~っ!!
看護士さん、あなた、あんなにフラフラしてる老人を一人でタクシーに乗せて帰したんですか?!しかも、私たちが迎えに来ることを知ってて、何で帰した?
腹が立ちました
婆ちゃんと看護士さんに…。雪の降る中、わざわざ、心配して迎えに来る方の身にもなってくれ…。
個人クリニックから私の家まで、徒歩30分程…。妹と私はブツクサ文句を垂れながら、雪道を帰った。
家に帰ると…先に家に着いた婆ちゃんが出てきて、
「なんだ、おめーら遅かったな?どこさ行ってただ?」
と軽口を叩いていたので、自分で帰れるほど元気になったのかとホッと一息ついたが、婆ちゃんが入院したのは、その二日後だった。
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私は普段、中国の広州市で仕事をしているので、なかなか日本に帰る機会がない。日本に帰ったら久しぶりに家族の顔を見て、ゆっくり過ごせるかなぁ…なんて思っていた矢先、実家に帰省した早々、婆ちゃん(84歳)が脳梗塞で入院…!
私が1/17の夜、実家に帰った時、婆ちゃんはピンピンしており、1/18に控えた成田山への参拝旅行の準備に余念がなかった。婆ちゃんの趣味は旅行や日本舞踊、好きな芸能人はヨン様や堂本光一さん。大変気が若く、84歳にして、かなりアクティブに旅行やら、踊りの稽古やら芝居見物やら、新年会やらの飲み会にも参加していた。
私が実家に帰省する数日前も芝居見物に行ったり、新年会に参加し、自慢の踊りを4~5曲も披露するなど…、鬼の様に元気だったらしい。
しかし、本人は若いつもりでも、84歳という高齢である。連日の活動や成田山への参拝旅行の疲れが出たのでしょう。1/19の夜、家に帰って来た後、風邪をひき、嘔吐や下痢の症状が…。
ちょうど、この頃は胃腸性の風邪が流行っていたので、旅先で感染って来たのでしょう。家族が心配し、早く病院に行く様に言いましたが、本人は断固拒否!自分は人一倍健康だと思っているので、風邪をひいているのにも関わらず近所の家にお茶飲みに行ったり、近所の婆ちゃん達をお茶飲みに誘ったり…。
そんな事をしているうちに、下痢の症状が悪化したので、かかりつけの個人クリニックへ行き点滴をしてもらいましたが…、婆ちゃんはトイレに行くのが面倒だと言って水を飲まない…、また、風邪の時は部屋を暖かくするのが一番と、温風ヒーターをガンガン付け、電気毛布を最高に熱くしていた。
脱水症状になったら危ないので、水分を取らせる様にしたが、頑固な婆ちゃんは全然言うことを聞かない…。
そして、1/25の午後…、やっぱり下痢が治らず、脱水症状でフラフラしている婆ちゃんを母、私、妹と一緒に病院へ強制連行した。
最初は母が勤めている大きな病院へ連れて行くはずだったが、婆ちゃんは断固拒絶!絶対にかかりつけの個人クリニックに行くと言って聞かなかった。
あまり興奮させると血圧があがるので、仕方なく個人クリニックに連れて行き、点滴を打ってもらうことになった。点滴は二時間ほどかかるので、医師から夕方四時半に迎えに来る様にと言われ、私と妹は近くの書店に行き、時間を潰す事にした。
…続く
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「JI:MO」は100ページ目に掲載されています♪
日本の春日出版社の編集者さんより『Japan Free Paper 74 Colors of Around the World―日本語版海外フリーペーパーコレクション』を頂き、うちの会社のスタッフ一同、超・感激していました。
この書籍は、海外で発行されている日本語フリーペーパー74誌を紹介したもので、各誌の発行地域や発行部数、内容などの詳細も紹介されているので、他誌の編集さん達の事も知ることができ、刺激を受けました。
なんと帯の二番目に紹介されている!
春日出版社の編集さんが連絡を下さったのは、昨年7月のこと。
「世界のフリーペーパーを紹介する書籍を作りたいので取材に協力して欲しい」との事だったので、私達の雑誌社のような小さな会社が発行しているものでも良いのならば…と、喜んで取材に協力しました。
そして、08年11月に日本で『Japan Free Paper 74 Colors of Around the World―日本語版海外フリーペーパーコレクション』が出版されました。
広東省で発行されている日本語フリーペーパーは、大体7種類ほどあるのですが、その中でもうちの『JI:MO広東』は発行部数は毎月約三万部と多いが、会社の規模自体は10数名と小さいのです。
私はてっきり、他の大手フリーペーパーの編集部へも取材が行っているものだと思っていたのですが、送られてきた本を受け取りビックリ。
中国広東地区の雑誌は私達の雑誌『JI:MO広東』と…『華南マンスリー』さんしか紹介されていなかったのです。
広東省で発行されている日本語フリーペーパーは私が知る所で約7誌あるので、他の雑誌も紹介して欲しかったなぁ…。
それでも、私達の様な小さな雑誌を紹介して下さった春日出版社さんに感謝しています。
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