7月24日 月曜日
おはようございます。 酒好きの思想家です。
なぜ、イジメが無くならないのだろうか?
もしかするとイジメは必要悪なのだろうか?
だとしたら、その根源は何なのだろうか?
イジメをウィン・ウィンには出来ないものだろうか?
日本人においてイジメ問題がこれほどまでに深刻化するには何か重要な要素が隠されているに違いない。
逆にこの「虐め」本体をイジメてやれば何か見えてくるかもしれないから、一度イジメをいじめ抜いてやる。目には目をだ。
イジメの存在理由が必然で必要なものとして、因果律や自然法則を統括して考えると、
「血が濃い」ほどイジメが表面化されやすいのではと思われる。
なぜなら、兄弟や身内ほど醜い争いを繰り返す、旧約聖書のカインとアベルだ。
実際、仲の良い兄弟姉妹はほんの稀で、仲の良い隣国が存在しないのもうなずける。
「隣人を愛す」ことほど私たちには難しい試練なのである。
旧約聖書・新約聖書・コーラン・仏教・新教宗派を一冊の本に統合して単純化すると、
「足の引っ張り合いはやめよ。」 となるのだが、未だその足の引っ張り合いを止めない人類だから、
イジメの原因を「足の引っ張り合い」としても妥当だと言えるのではなかろうか。
その逆が「協力」であるが、自己中心的で生き残る手段としては致し方ないのかもしれない。
そう考えて思いつくことは、とにかく日本人は他人の足を引っ張るのが大好きだ。
自分が勝つ為には他人の足を引っ張るのが手っ取り早い。
「出る杭は打て!」「みんなと一緒。」などが良い例だ。
「自らが幸せであるには他人が不幸でなければならない。間違っても他人が自分よりも幸せであっては不平等だ!」と。
事実、「他人の不幸が大好き」なのだからイジメが無くならないのも当然と言えば当然だ。
「他人の幸せを素直に喜ぶ」為には人生経験その中でも成功体験が必要だから子供たちにはちょっと難しい。
不安定な子供たちの「感情」が美しい大人たちの「感性」に成長していない段階での共感能力、コミュニケーションスキルには「習うよりも慣れよ」が先決だからだ。
子供たちのイジメ問題の核心はこの当たりにあるのではなかろうか。
だからこそ、自分自身で自らをイジメることが合理的となるのである。
自らのイジメによって自らが強く成長するならばウィン・ウィンとなり、イジメはそう悪くもない。
他人を弱らせることで満足を得るやり方ではなく、自らが強くなることを生きる目標目的に掲げれば
それだけで「勇者」であり「賢者」だと言えるのである。
つづく。
おはようございます。 酒好きの思想家です。
なぜ、イジメが無くならないのだろうか?
もしかするとイジメは必要悪なのだろうか?
だとしたら、その根源は何なのだろうか?
イジメをウィン・ウィンには出来ないものだろうか?
日本人においてイジメ問題がこれほどまでに深刻化するには何か重要な要素が隠されているに違いない。
逆にこの「虐め」本体をイジメてやれば何か見えてくるかもしれないから、一度イジメをいじめ抜いてやる。目には目をだ。
イジメの存在理由が必然で必要なものとして、因果律や自然法則を統括して考えると、
「血が濃い」ほどイジメが表面化されやすいのではと思われる。
なぜなら、兄弟や身内ほど醜い争いを繰り返す、旧約聖書のカインとアベルだ。
実際、仲の良い兄弟姉妹はほんの稀で、仲の良い隣国が存在しないのもうなずける。
「隣人を愛す」ことほど私たちには難しい試練なのである。
旧約聖書・新約聖書・コーラン・仏教・新教宗派を一冊の本に統合して単純化すると、
「足の引っ張り合いはやめよ。」 となるのだが、未だその足の引っ張り合いを止めない人類だから、
イジメの原因を「足の引っ張り合い」としても妥当だと言えるのではなかろうか。
その逆が「協力」であるが、自己中心的で生き残る手段としては致し方ないのかもしれない。
そう考えて思いつくことは、とにかく日本人は他人の足を引っ張るのが大好きだ。
自分が勝つ為には他人の足を引っ張るのが手っ取り早い。
「出る杭は打て!」「みんなと一緒。」などが良い例だ。
「自らが幸せであるには他人が不幸でなければならない。間違っても他人が自分よりも幸せであっては不平等だ!」と。
事実、「他人の不幸が大好き」なのだからイジメが無くならないのも当然と言えば当然だ。
「他人の幸せを素直に喜ぶ」為には人生経験その中でも成功体験が必要だから子供たちにはちょっと難しい。
不安定な子供たちの「感情」が美しい大人たちの「感性」に成長していない段階での共感能力、コミュニケーションスキルには「習うよりも慣れよ」が先決だからだ。
子供たちのイジメ問題の核心はこの当たりにあるのではなかろうか。
だからこそ、自分自身で自らをイジメることが合理的となるのである。
自らのイジメによって自らが強く成長するならばウィン・ウィンとなり、イジメはそう悪くもない。
他人を弱らせることで満足を得るやり方ではなく、自らが強くなることを生きる目標目的に掲げれば
それだけで「勇者」であり「賢者」だと言えるのである。
つづく。