たまゆら夢見し。

気ままに思ったこと。少しだけ言葉に。

我が背子 大津皇子52

2019-04-11 09:27:34 | 日記
姉上が仰言っていた奇跡とはこのことかと覚悟があったせいか大津は落ち着いて聞いていた。

もう我は世の中の出来事に興味はない。未練もない。
我は生きたいように生きる。我には子がおらぬ。
我が天皇として生きることはさまざまな争いを生んでしまう。

草壁に譲位し、まさに天紙風筆画雲鶴 山機霜𥝱織葉錦。
ーただ広がる無限の空を紙にし、雲も巻き込み鶴を描こう、まるで山が織り機であるなら霜をひき錦繍を織りなすように我は生きたいー
我にはそのような生き方が本来合っているのだ。そのそばに姉上…大伯がいればほしいものは何もない。

川嶋や高市皇子に怒られるかもしれぬ。無責任なと。しかし随分無理をして我なりに生きた。
子がいない、そいう言えばわかってくれるであろう。
草壁とて、我が子をなさば黙ってはいられないだろう。そうすればまた無益な争いを繰り返してしまう。

姉上も今更異母姉弟と世間に伝えて奇異な目に曝されるのもたまらないであろう。この世の汚れに、ま見えさせる必要などない。斎宮として立派に責務を果たされたのだ。もうご自身を労っていただきたい。他の皇女より重責を担ってこられたのだ。姉上は、無私の心だけでその責任を全うされているだけと笑われるかもしれないが。そんな呪縛ももういいであろう。この世で生きる女人として我は姉上を大切にしたい。

そう一旦決めてしまうと心は清々しかった。姉上とごく慎ましい生活で我には事足りる。

山辺、大名児の行末を考えた。
山辺には異母兄の川嶋がいる。大名児の実家は石川の豪族であるし、我がいなくとも困ることはさしてなかろう。
道作には、暇をとらし古里でゆっくりさせたい。道作は二君には仕えないであろう。そういう不器用さを我は頼りにしてしまっていたが。

我に仕えていてくれたものは各々の皇子に頼もう。腕は立つものばかりだ。
我の邸の仕えてくれたもの達も譲位した天皇の仕え人となれば間違いなく生きていける。

父、天武の巨軀を時間と病はこんなにも奪っていく。大乱の勝者として、天皇として威風堂々と生きてこられた父でさえ無常には勝てないのだ。無常しかこの世にないのだ。今まで天皇の皇子、天皇として生きた。皇子として務めは果たした。

「伊勢には行きます。もう父上、天武天皇は薨御された。斎宮の任務は解けるということでよろしいでしょうか。」と大津は皇太后に聞いた。
「そうじゃの。大伯にももがりに出席させたいの。」皇太后は頷き答えた。
「皇太后、我も天皇を譲位し草壁を天皇に。」と大津は淡々と伝えた。
これには皇太后は慌てて「草壁ではまだ駄目じゃ。身体も頑丈ではない。まだそなたのそばで色々学ぶべきことがある。」と言ったが大津は首を横に振り「学ぶべきことは皇太后さまからの方が素直に学ばれるでしょう。私は天武天皇の補佐として政治を続けるべきでした。天武天皇の願い、皇太后であらされるあなた様の願い皇統を継承していくのは草壁が相応しい。草壁には皇子がいるのですから。」と説き伏せるように言った。「ただ、争うことなく穏やかに生きることを我は選びたいのです。」「大津…また伊勢から戻りこの話はいたそう。」と皇太后は自ら冷静になるよう務めながら大津に約束をさせた。

不比等は間者からの皇太后と大津の報告を聞き高笑いした。

「これで大津さまを斃せる。伊勢の斎宮に会いに行くならなお結構。さて。皇太后さまにお会いしてもよろしゅうござるか。」と不比等は隣の草壁に聞いた。
草壁は、青ざめていた。不比等と手を組んだのは良いが、未曾有の恐怖に心が耐えられないでいた。