たまゆら夢見し。

気ままに思ったこと。少しだけ言葉に。

我が背子 大津皇子56

2019-04-19 07:35:32 | 日記
川嶋は「出来ぬ!大津は天皇じゃぞ。そなたらのような姑息な手に甘んじるわけないであろう。」と吠えた。
「幼き和子を我は手にかけたくはない。」と草壁は言った。

「まぁ伊勢の道中に腕が立つものを用意させておる。そなたがそのようなことを言わないで済むよう道中で消えるのもそなたのためじゃが。怖くて何も言えぬか。不比等、また川嶋皇子が変な考えを起こさぬようこの邸でもてなせ。丁重にだぞ。危害は決して加えるな。我が母上皇太后がそのようなことはお許しにならぬ。そしてこの男の間者を早くどこぞに移せ。目障りじゃ。」と草壁は言った。

ーもうこいつらは山辺の懐妊まで知っておるのか。我が迂闊であった。皇太后さまがいれば草壁は何も出来ぬとたかをくくっておった。大津、伊勢より戻るな。お前にどう詫びればいいのじゃ。ー
川嶋はただ狼狽していた。

伊勢では皇太后が倒れたとの報告とともに「山辺が懐妊したようで…」と大津が呟いたのを誰も聞こえなかった。

大伯は「一緒に浄御原に参りましょう。大津。」と言った。
大津は「いえ、大伯…私の後にお戻りくださいませぬか。何やら嫌な臭いがする。」と言った。
「それは…そなたが危険にさらされるということですか。」と大伯が聞くと大津は小さく頷いた。
「三日後何もなければ、斎宮の女官、乳母殿、氏子らとともに伊勢をお立ちください。」
「あなたは道作だけと帰るつもりですか。大丈夫なのですか。」と大伯は心配そうに聞いたが首を縦に降らない大津に「我がいればそなたを守ってやれる。そんな気がする。私も嫌な予感が。大津、我の言うことを聞いて。」とせがんだ。

「そんな危険な場に大伯を連れてはいけませぬ。大伯…我が背子と呼んでくださいませぬか。それで何も怖いものはありませぬ。」と大津はにっこりと答えた。
ー正直、危険な匂いはする。しかし、それで逃げ出し大伯を危険な目に合わせたくない。和子が授かったのなら山辺を安心させたい。労ってやりたい。皇太后の具合も気になる。わがままを申しご心労をおかけし申し訳ない。ー

大津は未明大和へ帰路についた。
大伯は不安でたまらなかったが、我が背子はもう戻れぬやもしれぬと諦念していた。

「大津、無事で。すぐに私も発つから。」
「大伯こそ気をつけて。私の命より大切な我が妻。」

この情景を大伯は歌っている。万葉集に納められている。

わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁にわが立ち濡れし

二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ

大伯は朝露に濡れながらも大津の姿が見えなくなるまで見送った。
ーもう、会えない…何故そんな予感ばかりが我を襲うのかー
不安を払拭しようとすればするほど、大きな恐怖が待ちかまえているのを感じられずにいられなかった。