こんにちは、領です。
『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』
この本の好きな文章を書きます。感想:に私の感想を書きます。
P146 そして、そのような意味での「世界の終わり」を目指す行為、即ち、これまでの実存形式の延長線上にはない場所に、決定的に到達しようという試みが、縁生の現象によって、縁生の現象を対治し続けた先に、完結するとは考えにくい。ローヒサッタが何万キロ移動しても、そこには常に「世界」が形成され続けたように、個々の煩悩を何万回対治しても、相手は実質的に無限のリソースを有している以上、煩悩の流れはその勢いをよわめることはあっても、根絶されるということはないわけである。その流れを最終的に「塞ぐ」ためには、縁生の現象とは全く異なった、何か別のものが必要なのだ。
アーナンダやシーハーの解脱の報告から推察されるように、このような「世界の終わり」への旅立ち、即ち、渇愛を滅尽する試みの最終的な決着が、無漏の智慧であるところの、無為の涅槃の知覚によって、ある特定の時点で明確にもたらされると考えることには、一定の合理性があると思う。
感想:煩悩が無限のリソースを有している、という表現が面白いです。
P149 苦諦を知って、対象を厭離して渇愛を滅尽するとは、そういうことである。縁生の現象を好ましいと思う気持ちを抑制して、「こんなものはろくでもない」と、必死に自分に言い聞かせなければならないうちは、苦諦を本当の意味で知ったとはまだ言えない。真っ赤に焼けた鉄板に、素手でふれることを当たり前に避けるように、現象が苦であることを心から当然のこととして受け入れた時、はじめてそれを厭い離れ、貪りを離れると言うことが自然に起こる。そしてそのためには、縁生の現象に執着するよりも、ずっと素晴らしいことがあるということを、自分自身の現実の経験として、知らなければならないということだ。
感想:真っ赤に焼けた鉄板に、素手でふれることを当たり前に避けるように、という表現が面白いです。厭離の意味を的確に表現していると思います。
P150 まず一つ言えるのは、涅槃というのは出世間の領域にある無為のものである以上、それを「実体」だとかそうでないとか論じるのは、そもそもカテゴリーエラーの議論だということである。
P177 彼らは利他行の実践のために、場合によっては自分の命も「芻狗」のように捨て去ることを、決して厭いはしないのである。
感想:涅槃を知覚した人は○○なはずである。と、このように決めつけない方が、私は好きです。6歳の頃、初めて『風の谷のナウシカ』を見て、ナウシカに憧れました。人々を守るために自分の命など顧みない姿に、こんなふうに生きたいと思いました。大人になって思うことは、誰もそんなことは期待していないし、むしろ迷惑ですらあるということです。そもそも危機的状況に陥らないことが大切です。
相依性、縁起から考えてみると、解脱者は○○だ。涅槃を知覚した人は○○だ。覚者とは○○だ。と、このような思考が存在するからこそ、それを離れる思考も不可分に存在します。
P199 ミャンマーとタイは、ともに上座部圏に属する国であり、多くの国民がテーラワーダ仏教徒であるが、それぞれの国で実践されている仏教の性質には、やはり微妙な差異がある。そして、中でも顕著な相違であると考えられるのが、その涅槃に対する把握の仕方だ。総じて言えば、ミャンマーの仏教徒たちにとって、涅槃とは本書で述べたような瞑想による無為の領域の知覚のことであり、(中略)タイの仏教徒たちにとって、涅槃という事態はめいそうにおける特定の状態というよりは、むしろ日常において意識がいま・ここへの気づきを保っていて、そこに貪・瞋・痴の煩悩が混入していない状態のこととして、認識されていることがしばしばであるように思われる。
感想:私は、どんな宗教も同じことを言っているように見えます。縁起というものをそれぞれ違う尺度から見ているだけだと思います。逆に、どんな思考も飲み込むのが縁起ということです。
ここからは、この本を読んで、浮かんだ思考を書いていきたいと思います。浮かんだ思考なのでこの本の内容そのものではありません。キレイにまとめて書くことが不得手なので思いつくまま書きます。
涅槃を実体だとかそうではないとか論じるのは、カテゴリーエラーの議論だということについて思ったことです。
この議論について、どんなに言葉を尽くしても、カテゴリーエラーの一覧表の中だということです。←この「カテゴリーエラーの一覧のなかです」という言葉も含まれているので、どんな言葉も独立自存の絶対の真実ではありません。「真実ではありません」という言葉も・・・・・・。
なんだか写真を持っている男の子の写真を男の子が持っていてそれも写真で男の子が持っていて、それも写真で男の子が持っていて・・・っていう面白映像をイメージしました。この世について何を語ろうともいつまでもカテゴリーエラーの一覧表の中に入り続けます。「それは涅槃の実体視です」「それは仏教である必要がありますか?」そのような言葉も独立自存する真実のようには扱えません。
「涅槃が最高の楽である」「涅槃に至らなければならない」これらの言葉も独立自存の真実のようには扱えません。「扱えません」という言葉も・・・。何も語り得ないということも退けた無記が、最適なのかもしれません。カテゴリーエラーの一覧表が消滅する刹那が涅槃です。ただ涅槃も終点ではありません。振動循環するものの一部です。波が干渉したときの高さゼロになる刹那です。
波はゼロに潜在しても独立性を維持し、また波は顕われます。この世は、涅槃もふくめてゴールとか確定などない端っこがないイメージです。そして、より価値のある地点はないと思います。メタ認知の極限が涅槃で、その極限も振動循環の一部です。ということは、解脱という物理的状態は存在し得ないと思います。
メタ認知が低いままに行為し続ける人がいるとき、メタ認識の極限である涅槃に至る人もいる。縁起縁滅の方程式に従って存在し、これらの両極の存在は片方だけでは存在できません。そして、「私」が独存する構造で、渇愛が存在するか、渇愛が滅尽するか、本質的により好ましい状態は存在しません。相違相関する性質のものに優劣真偽は、確定しません。独立自存の真理は存在しません。(独立自存の真理が存在するという思考と相依相関しています)。
カテゴリーエラー、ここでのカテゴリーとは涅槃のことです。よく考えてみると、正確には、全てのカテゴリーにおいてエラーということです。基本的になんでも「無記」ということの意味は、どんな問いに答えようともエラーだからということです。ここのブログに書かれている記事は全て、エラーの一覧表に載っています。「エラーの一覧表に載っています」も載っています。ここまでも載っています。ここまでも載っています。・・・。エラーと言い切ることさえ不可能です。そのような構造を如実知見した方が、話が早いと、仏陀は考えたと思います。
「渇愛を滅尽すると縁起縁滅を如実知見する」と、このように表現すると渇愛を滅尽することが善であるという雰囲気がしてしまいます。逆に、渇愛のおかげで数式に従っているだけの世界が隠されていると考えることもできます(渇愛も数式に従います)。
なんだか、ブラウン運動とか、質量を与える機構に似ていると思いました。渇愛とは、生きているように見える作用を持っている。
この世を厭離するほどではない状態の人は、ポジティブに渇愛を捉えられます。ミミクリーズという番組で、「みずのうた」というものがあります。歌詞に「いきてるみたいみずのかたち」というものがあります。人間も生きているみたいに存在します。涅槃の知覚は、個人という魔法が解ける地点で、ほとんどの人は個人という人生を生きることができている。涅槃を知覚しないということをこのように解釈しても良いと思います。涅槃を知覚しないでいられる。
解脱が不可能な構造であるとき人間らしい範囲で快苦に振動して生きるしかないです。苦しみも存在を維持するのに必要です。
人間らしい範囲に振動するということは、一つの状態や思考に安住できないということです。
人間らしい範囲を超えて、権力を極限まで求める、財力を極限まで求める、美貌の追求、若さの追求、誠実さを極限まで求める、許しの極限までの追求、受容の極限までの追求、絶対に比べない、常に感謝を持つ、絶対に怒らない、絶対に愚痴を言わない、苦しみの消滅の追求、来世のために今こう生きるべき、などなどこんなのはお勧めしません。
好ましい思考や状態の維持などは、やれるとこまでやって、あとは諦めることが吉ですが、そうも行かないのが人生です。
人間らしい範囲を超えて壊れてしまう人が存在し、人間らしい範囲で収まることも存在します。好ましい状態と思考⇔好ましくない状態と思考、この両極に振動することが存在することの条件です。どんなにあらがおうと的確に振動するように世界は展開します。それは、死を挟む場合もあります。この振動の波が重なり合って潜在し無に至る地点が涅槃です。
この世には、とても素敵で感動するような話が存在するように理解を超えた犯罪も不可分に存在します。その全ての当事者が「今、自分が自分と感じている自分」です。
快苦生死楽天厭生、涅槃の覚知、涅槃の実体視、何もかも、平等等価にしてしまう思考を求めていく。全てを包含する概念として縁起を捉える。この世、反この世、相反するものを一度に扱うことによって、根本的な「全てを包含」は可能です。縁起の解に、より重要な優れた解はないです。(←この解も含めて)
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます
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