私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

量子に至る、縁起に至る

2021年05月22日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

「この世の全ての人は同一人物」ということが数学的に示唆され、常識として受け入れられる時代が来ますように。
私がブログで書きたいことはこれ一つです。


自分の頭上にミサイルの照準を合わせて撃ち込む人は、なかなかいません。
自分に照準が合わされる銃を作って売ろうとは思いません。
自分の頭上に落とされる予定の核爆弾の製造計画を立てたりはしません。
自分が過去に失敗したことに対して、喜んだりしません。
自分がご飯を食べたときに、食べさせてあげたとは思いません。
自分に服を買ったときに、買ってあげたと思いません。
(例外はあるかもしれません。)

目の前の他者は、自分が生きることになる状態そのものです。実は、たった今自分が生きている構造です。その世界観が常識になるといいな。

縁起縁滅の法の領解に至り、五蘊の観察を続けると、五蘊が空に潜在し何も存在しない状態に至ります。その状態で如実に知るのが、五蘊に実在の感触をもたらす「観」そのものです。
「観」という物理作用がなければ、主観に実在の感触は与えられません。
「観」という物理作用がなければ、「無」と同じです。

【五蘊「観」】
五蘊が潜在し無に至ると
【「観」】
むき出しの「観」そのものになります。

物質、反物質が対消滅し光になるように、個人の五蘊、反個人の五蘊が対消滅します。
相反するものを統一して上位の状態になることは、相反するものを今、観るという構造です。

【個人の五蘊、反個人の五蘊が対消滅】=【一切の五蘊、反一切の五蘊の対消滅】=全てを観る全知

全知【「観」】<<<分岐<<<個人【五蘊「観」】・個人【五蘊「観」】・個人【五蘊「観」】・・・

快・不快という相反する五蘊を統一して平等に観るとき無に潜在し、上位概念の「観」を如実に知ります。何も観ていないから無に潜在するわけではありません。観るから潜在します。

最上位概念というより、原初の物理作用を「観」と名づけているだけです。無次元の点の物理作用で時空に遍在し、関係性の中心に位置し、存在に不可分に在ります。「観」は、人という構造において、五蘊を統一して「観る」という作用をもたらし、特に人という構造にとって、大切な主観に実在の感触を与えます。
厳密に無とするときは「無観」と表現することが適切です。

眼球の「見る」と、「観」は性質が似ていて、「観」そのものに気付くことができません。
悟りは、五蘊が潜在し「観」そのものだけになります。その状態で如実に「観」を知ります。
詳細には、「観」そのものの状態で知るのではなく、「観」のみの境地は刹那であって、直ぐに展開する五蘊の中で「観」を知ったと理解します。

普段、人は、【「見る」を「観る」】という構造を持ちます。【「見る」「観」】という構造です。今ここで「観」は全ての人に作用しています。悟りの状態で知る「観」を、今、全ての人は知っているのに気付いていない状態です。普通に目を閉じたときに感じる「観ている」という感覚です。多分、「観」のみの状態を知らなければ、それが唯一として存在するという直観には至りにくいと思います。
でも、眼球の「見る」と、「観」は性質が似ているからこそ、そこから「観」に気付くことは簡単かもしれません。
眼鏡をかけているのに探している状態です。

悟りの境地で何を知るのかというと、既に知っていてそこから離れたことはないけれど気付いていないだけの「観」を知るということです。

悟りは、普遍的な物理現象です。個人の自由な意思と努力によって悟るのではなく、数学的に決められた位置に悟りという現象は起きます。

「観」は一つ二つと数えられるモノではありません。
「観」は、その人の「観」、あの人の「観」と区別できるモノではありません。
「観」は唯一として存在し、全ての人の五蘊の根底に埋め込まれています。

「この世の全ての人は、同一人物」とは、神秘的なことではありません。
「この世の全ての人は、同一人物」とは、数学的、物理的な構造です。
人々の持つ主観に実在の感触を与える「観」は、真の意味で区別ができない構造です。区別ができないとは、人から見た構造で、もともと唯一として存在します。

縁起縁滅の法とは、一切が相依相関し振動循環する構造のことです。その構造から諸行無常諸法無我、一切皆苦ということが示唆され、空という境地が現われます。
空は、全知の境地で、「観」そのものの状態を如実に知ります。
「三心平等」「天上天下唯我独尊」「この世の全ての人は同一人物」「意識は一つとして存在する」ということを直観します。

この世界観が常識の世界は、まだまだ先のことになるのかもしれません。

戦争状態で空爆の下に立つ人、1000年後の未来に立つ人、地球外の存在、全て自分です。


そもそも日本では、仏教そのものが一般的な常識になっていないのかもしれません。
私は、28歳まで仏陀のことを架空か実在かよくわからないレベルの人物かと思っていました。ギリシャ神話、日本神話、封神演義などの登場人物という感覚でした。
覚者のことを仏陀と呼んで、もともとはゴータマ・シッダールタという名前だったなどということも知りませんでした。
般若心経に興味を持たなかったら実在の人物と知ることはなかったと思います。
般若心経を何かとてつもなくすごそうなモノとして現代にまで伝えてくれたことに感謝です。
この前、テレビの高校世界史かな?そういう番組で仏教について解説していました。私が高校生の頃は、選択授業で世界史をとらなかったのかもしれません。
私は、自分から興味を持たないと、仏教を知ることができない環境でした。

相対性理論は、どのくらいの人が、ちょっとは知っている状態なのかな?量子力学は?
でも、高校レベルの数学、物理、化学、生物とか、みんながみんなちゃんと知っているわけではないと思う・・・。私も含め(汗)

相対性理論の世界観で観るに至る。
量子力学の世界観で観るに至る。
縁起縁滅の法の世界観で観るに至る。

私としては、「縁起縁滅の法の世界観で観るに至る」「縁起縁滅の法に自在して観る」ということが大切です。
でも、縁起縁滅の法は、今現在の物理学が示す世界観と離れて存在しません。むしろ今現在の物理学が示す世界観が、縁起縁滅の法そのものです。
「悟り」が仏教の言葉だけでなく、数学の言葉に使われることもあったりして。

アリストテレスの世界観があってこそ近代科学は発展しています。でも、アリストテレスの世界観のままではありません。仏陀という存在を神格化し、仏陀の世界観を絶対視して現在の科学的な視点を無視することは、アリストテレスの世界観を宗教と結びつけ、思想を崇拝し、世界観の発展が停滞したことに繋がると思います。停滞があってこその今かもしれませんが・・・

悟り、縁起縁滅の法、諸行無常、諸法無我、空、天上天下唯我独尊、は神秘的なものではなくて、ただの物理的事実にすぎないです。
となると相対性理論、量子力学などは、なんとなくでも知っておく方が仏教の理解は深まると思います。
相対性理論、量子力学は、本で読むしか知る方法はありません。Newton、日経サイエンス、ブルーバックスに頼る。もしくは研究者です。
でも、縁起縁滅の法は、この身一つ瞑想などで知ることができます。自己を観察するだけです。


縁起縁滅の法は、両極に振動知ることが存在を現わす条件なので、善意という局面が発展すると悪意という局面も発展します。

「この世の全ての人は同一人物」ということが数学的に示唆され、常識として受け入れられる時代とは、今の人が慈悲や善意と感じることが当たり前になることです。
慈悲や善意など、基本的に受容的なことに対するコストが低くなるということです。
慈悲や善意にあふれる世界は、素晴らしいことではありません。普通のことです。
そして、拒否的な局面がゼロになることはありません。


ここまで書いたことは、『量子とはなんだろう 松浦壮』という本を読みながら考えたことです。世界観の変化について何回も書かれています。

P12 量子が発見されて100年あまりを経た今、私たちは、量子力学をベースにした科学技術に囲まれて暮らしています。量子を単純に「不思議だ~」と思うだけの時代はそろそろ終わりです。この本が「量子なんて当たり前」の時代に向けた一助になれば幸いです。

P38 日常的な出来事をほぼ完璧に説明できていた古典物理学を根本から見直さなければいけなくなったのは、観測技術が向上し、五感ではたどり着けない精度で自然界を観察できるようになったからです。

P71 光を単純な波と考えたり、電子を単純な粒子だと考えたりすると、自然現象の説明が破綻してしまいます。これは、光や電子のような存在が五感を通じて培われた概念では表現しきれないことを意味しています。「世界は見えているとおりである」という幻想が本当の意味で消滅したのです。

P72 私たちの観る景色の背後に実は量子があるのだと知ると、世界の”観え方”が変わります。今この時代は、世界観の変遷が起こっている真っ最中と言ってもよいでしょう。

P275 その時代を生きる人々はものの見方が今とまったく違うはずです。生活の中に量子コンピュータが入り込み、小学校で量子計算を教わり、さまざまな物理現象も当たり前のように量子の視点で説明される。これらは、まぎれもなく「はじめに」で述べた量子の経験です。この経験によって育まれた直感は、古典物理学で育まれる直感とは全く異なるはずです。100年後に生を受けるはずの量子ネイティブな子供たちが、どんな直感を育み、どんな眼でこの宇宙を眺め、どんな世界を創っていくのか、私は楽しみでなりません。

P278 量子の理は宇宙の理です。にもかかわらず直感的な理解が及ばないのは、単純に、今の私たちは量子の理で世界を観ていないからです。人類の直感を支える自然観はこうしているあいだにも常に更新されています。いずれ必ず、量子の理が人の直感を支える時代が来るでしょう。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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絶対の価値

2021年05月11日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

絶対の価値は存在しません。
「絶対の価値は存在しません。」という思考にも絶対性が存在しないので・・・。
絶対という言葉は、直ぐに矛盾に至ります。

「私は嘘つきです。」これも嘘つきなのそうじゃないの?

人間の思考の中に永遠不変の独立した価値は存在しません。
それは、仏陀の思考も同じです。
「悟り」「仏教」「人が嫌がることはしない」「感謝」を含め絶対の価値のあるものは存在しません。

宇宙誕生138臆年を一年で現わすと、12月31日午後11時52分ホモ・サピエンス誕生となります。人が現われてから8分の分量です。
これにどのような感想を持とうとも、万物の理論が発展するなか数学や物理に従って避けようがなく決定論で人という構造は現われます。

何回宇宙が誕生しようと多世界(もしくはマルチバース)を含めて、同じ原子の配列、同じ仏教、同じ悟り、同じ仏教論争、同じ戦争がただ単に数学や物理に従って存在を現わします。(時空内の視点では時間が存在しますが、本質は「今」全て存在します)

「悟り」を目指すべき重要なものと思考することは、ブラックホールの重力によって引き寄せられている状況にたいし、自らブラックホールに価値を認め自らブラックホールに向かっていると思考することと同じです。

ふと思ったこと、
吊り橋効果。
泣くから悲しい。
手がかかる相手を好意的に思ってしまう。
意識する前に無意識の準備が始まる。

縁起縁滅の法から自由な五蘊は存在しません。
悟っても自由自在にはなりません。

「自在に観る」とは、「縁起縁滅の法に自在して観る」と、ふと考えました。
自らに自由意思があって「縁起縁滅の法に自在して観る」わけではありません。
縁起縁滅の法に従って、時空の決められた位置に「縁起縁滅の法に自在して観る」という構造が現われます。
これは、何回宇宙が誕生しても同じです。

縁起縁滅の法に自在して観る。とは、他責で思考することをやめ、出来事の起点を自己にし、不快の原因も自己に帰します。どんなに不快・理不尽・理解不可能なことがあっても、自分の記憶や経験の中から関係し合う快を発見します。快不快という出来事に対する身体感覚をイメージの中で幾何学的に構造化します。それは、曼荼羅のようなものです。
この構造化を続けると、五蘊が自己の思い通りになるものではなく世界全体と関係し合って存在していることに気付きます。
無常ということにたいして、自分の常を願う働きなどまったく歯が立たないことを納得します。「納得すること」これ自体が縁起縁滅の法の展開通りに現われた状態です。
操作や作為を停止した状態、自責の状態で自己の快不快を観察すると、この「観る」という構造が高次化して五蘊が空に至るのを照見します。
これは、何回宇宙が誕生しても同じです。

五蘊が一切存在を現わさないとき、如実に知るのは純粋なむきだしの「観る」です。
一切の五蘊を「観る」状態は何も存在しませんが全知です。「観る」は、一切の五蘊を観る。

この世の全ての人の五蘊にたいし、唯一の「観る」が存在します。
この構造は、全時空の人がたった今、同一人物ということです。

全知は、「今」が「今」すべて存在するという見方ができます。
各「今」に対して、全「今」が存在するという構造は、「今」が無限回目という見方もできます。

ドラマで、ある一日を繰り返すという怖いドラマがあります。最終的に悔いを残さない生き方を選択し、さすがに次の日を迎えてハッピーエンドかと思ったら、繰り返しに戻って・・・無気力になる。

数式に従って繰り返し現われる「悟り」という地点。
「悟り」の価値は絶対的なものではなく、価値を見いだす存在と価値を見いださない存在が強く相依相関して不可分に存在します。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

おまけ
今、歯の根治療をしてます。5年以上前に治療したときからおかしいと思っていた部分で、やっと歯の詰め物をとったら神経が死にかけていると・・・。ほっぺの腫れはこの歯が原因だそうです。5年以上ずっとしんどかった!!治療早く終わらないかな

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量子力学と縁起縁滅の法

2021年05月01日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『量子力学の奥深くに隠されているもの コペンハーゲン解釈から多世界理論へ 
ショーン・キャロル』

この本を読んで思ったことは、量子力学を理解する探求と、縁起縁滅を理解する探求とは、まったく同じということです。この二つは似ているのではなく同じものです。
P352「宇宙の理解にいたるまでのルートは量子化された重力にあるわけではなく、量子力学の中に重力を見つけることにある―――この見込みはとても真に迫っているように思われる。」
量子力学は、そのまま万物の理論の候補か、それに近い存在だと思います。量子力学や波動関数、シュレーディンガー方程式の性質を知ることによって、縁起縁滅の法を数学や物理として理解を深めることができます。

キャッチボールをするときに、投げる角度や初速度、描く放物線、到達地点などを考えて投げることはしません。感覚で投げます。
私は私なりの瞑想をしていたら、「照見五蘊皆空」という五蘊が消滅する地点を知りました。直後、世界が展開する中で一気に私が持つ疑問に対する答えのイメージが現われました。そのイメージを使って縁起縁滅の法について言葉にしています。
何が言いたいかというと、私自身は特に物理や数学に強くはないので、私の量子力学についての理解は、趣味レベルということです。基本は、私の持つイメージの感覚で縁起縁滅の法についてあれこれ書いています。

P8 量子力学は魔術ではない。これは今の私たちが持ちうる現実観としても、最も深い、最も包括的なものだ。現在わかっているかぎり、量子力学は単なる真実の近似ではない。真実そのものである。
P13 昔ながらの直感的なものの考え方から頭を自由にすれば、量子力学はどうしょうもなく不可思議なものでも神秘的なものでもないことがわかるだろう。これはただの物理学なのだ。(引用終わり)

P8、P13の文章は、「量子力学」を「縁起縁滅の法」に入れ替えて読めます。
「昔ながらの直感的なものの考え方」とは、般若心経の「顛倒夢想」のものの考え方のことです。
「顛倒夢想」とは、五蘊をコントロールし、苦を制し楽を享受すること。思うとおりに五蘊を維持し、執着し常を願うこと。五蘊は物理的時空に独立自存し、実体を持って存在すると思うこと。
私たちが日常考える世界観は、量子力学が記述する世界観からすると顛倒夢想といえます。

P284 「それ以前の一九世紀、物理学者は、粒子と場の両方が役割を果たしているという見方をかためつつあるようだった。つまり物質は粒子でできていて、その粒子を相互作用させる力を記述するのが場だという見方である。今日では、それよりもずっと多くのことがわかっている。みんなの知っている大好きな粒子でさえも、実際には、身の回りの空間に広がっている場に生じた振動なのである。」

量子力学と縁起縁滅の法は、波の性質をもった振動のことです。
振動という変化の関係性は、一つの状態に留まることはできない、諸行無常です。
振動という変化の関係性は、我(が)を含めて実体を持ったものは存在していない、諸法無我です。
振動という変化の関係性がなければ、存在が現われることはない、また、全ての振動が重なると無に潜在する、空です。
全時空の振動の変化と関係し、独立自存の振動は存在できないことも含めて縁起縁滅の法です。
これは振動することが存在することであって、人は、心地よい状態と悪い状態の両方に振動しなければ存在を維持することはできないということです。これは、「なんとなくそうだ」というレベルではなくて、物理的にそうなっているということです。

今の時代でも起きる、民族浄化、内戦、大量虐殺、空爆、武力による弾圧。大量の原子爆弾、放射能汚染、あおり運転、人の尊厳を踏みにじるハラスメント、自殺まで追い込むからかいいじめ、児童虐待、動物虐待、行きすぎた利己主義、生老病死・・・。これらが存在することと、この世が存在を現わすことは、関係しています。
みんなが平和を求めるわけではない構造です。なぜか基本的な善悪も教えない親が存在する。これは「なぜか」ではなく、物理的に不可避に存在します。

これは、一切皆苦といえます。
「少しの平安を大切に日々感謝して生きる」という状態も存在しますが、維持し続けることはできません。
同じ状態を維持しないように確実に世界は展開します。

P280 「私たちが持っている非常に単純で、非常に説得力のある世界のモデルでは、現実が私たちとは無関係に存在している。私たちが観測したり想定したりすることによって現実を出現させているのだと考える必要はどこにもないのだ。」

時空に独立した自由意思は存在しません。縁起縁滅の法から逃れた自由意思は存在しません。全ては法に従って決定論で存在します。
自由になっていない、自由だと思っている意思という状態が存在します。
「この世は、私が創造している」「自由意思は存在する」などの思考も数式に従って存在します。ただただ数式に従っているに過ぎない思考にたいして「自由意思は存在しません」とわざわざ書くことは滑稽ですが、そんなことも含めて数式に従って存在します。

P328 「曲がった時空がいかにして量子的な基盤から現われるのか」
P338 「空間や場から出発して、それらを量子化したいのではない。本来が量子的である波動関数から、それらを抽出したいのである。」

「時空が基礎的なものでなく、波動関数から現われる。」という考えについて書かれています。この文章自体はわかりますが、説明の部分は難しいです。

私のイメージは、ある特定の視点から観て「引く」「斥ける」という関係、つまり、中心に対しての相反する逆向きの動き、変化の関係が波の性質の方程式にしたがって展開し、関係性が高次化した部分に人という関係性が形成、消滅するというものです。
この世は、「引く」「斥ける」の関係でできています。「近くなっていくか」「遠くなっていくか」、「受容するか」「拒否するか」とも言い換えられます。

『生命はデジタルでできている 田口義弘』
P31「複製を容易にするためにDNAはAとT、GとCが向き合うとエネルギーが低くなる、という原理を持ち込んだ。エネルギーが低くなる、というとちょっと難しい感じがするが、簡単に言えば「引力」が働いているということだ。」この本のここの文章を思い出しました。

あらゆるパターンの「引く」「斥ける」をまとった「無次元の点」ということをふと思いました。電子という素粒子ではなく、電子として振る舞う仮想粒子をまとった「無次元の点」、かなり高次化した「引く」「斥ける」をまとった人として振る舞う「無次元の点」最高次化すると、「引く」「斥ける」の可能な関係性をすべてまとった「特異点」となります。
「無次元の点」は、何もまとわない状態から、可能な関係性の全てをまとった無次元の点(特異点)までがあります。

「無次元の点」は、全くの無ではないときの「観」という物理的作用を持ちます。「観」は、確かに無ではないとする存在を認める作用があります。人の自己感、「私」というものに実在の感触をもたらします。あらゆるパターンの振る舞いの中心に「観」が作用します。空間に無次元の点が無限に存在し遍在するように、「観」という作用は時空に遍在します。最高次でもある無次元の点の「観」の作用は、唯一として存在する構造です。
「観」が唯一として存在し、この唯一の「観」が全ての存在を認めます。過去から未来に流れる時間は存在せず、全ての「今」とされる構造を今認めます。誰かの今という構造ではありません。全ての今を唯一のモノが観ています。モノといっても無次元の点の物理的性質です。「観」という作用がなければ、今まで通り喜怒哀楽があるように振る舞っても主観を伴わない哲学ゾンビの状態となります。

人は、自分の言葉に深い意味や真実があると思ってしまう。
「人は、自分の言葉に深い意味や真実があると思ってしまう。」という展開が形成されているだけです。

悟りという構造に対して引きつけられるのは物理的な構造です。抽象的な構造により、悟りという思考、構造の一定の近くでは、悟りの引力に捉えられるイメージです。捉えられるといっても、それは決定論で避けようがないです。
「悟りに対してそっぽを向く、無関心な存在がいて、悟りに対して引き寄せられる存在がいる。」という考え方は、何か違います。自分でそっぽを向いたり、自分で引き寄せられるわけではなくて、水に浮かべた花粉が水分子に当たってフラフラ動くように、「自分で」ではなく物理的に決定された振る舞いです。「自分の努力で悟る」わけではありません。
この世には、相互作用をしていない独立自存のものは存在しません。

P271 古典的な決定論的宇宙では、結果は厳密に同じになるので、「違う意思決定」ができていた可能性はゼロである。対照的に、教科書量子力学に従えば、ランダムさの要素が導入されるので、同じ初期条件から正確に同じ未来の結果を確実に予言することはできない。
 しかし、それは自由意思とは関係ない。違う結果が出るからといって、ある種の個人的で超物理的な意思による影響が自然法則に及ぼされることを証明していることにはならない。それはただ、予言不可能な量子的な乱数がさまざまに介入することを意味しているだけだ。自由意思の伝統的な「強い」概念にとって重要なのは、私たちが決定論的な自然法則に支配されているのかどうかではなく、あらゆる類いの非個人的な法則に支配されているかどうかである。未来を予言できないという事実と、未来をいかようにもできるという考えは別のものだ。教科書量子力学においてさえ、人間はやはり物理法則にしたがう粒子と場の集まりなのである。
 その意味では、量子力学は必ずしも非決定論的ではない。多世界理論がいい反例だ。あなたは一人の人物から完璧に決定論的に時間発展して、未来には多数の人物になっている。そのどこにも選択の入る余地はない。
P272 この世界は私たちが私たちの行為によって生み出すのではない。私たちの行為がこの世界の一部なのである。(引用終わり)

私のイメージを書きます。
人の思考パターン限界があって、自由意思が存在しないのではなく、根本的に自由意思は存在しません。観察によって世界が分岐したりするわけではなく、可能なあらゆる分岐のパターンは尽くされていて、そこには人の観察、カメラの観察、あらゆる相互作用は、分岐した世界に存在するだけです。

ここで思うことは、造波装置のことです。ぐるりと造波装置に囲まれた水槽にわらわらと波が集まってきて一瞬「波」という文字が浮かび上がります。テレビで見ました。
本当に一瞬の「波」なのでスロー再生して確認していたぐらいでした。
「波」の完成で終わりではなくて、干渉しても独立性が保たれた波は「波」の完成のあともわらわらと広がります。
なんだか無意識と意識の関係だと思いました。
智慧の完成とは、単純に全知のことです。縁起縁滅の法を観察すると全知に至る構造ということです。全知の状態は、全てが重なり合って統一されて何も存在しません。エネルギーの状態?全てが無限大の特異点?確実なことはいえないけれど、電子として振る舞う点、人として振る舞う点、全知の点ということを書きます。
「波」の文字と同じように、智慧の完成は終着点やゴールではありません。そこで終わりの完成は人にとって存在しません。涅槃寂静はスロー再生が必要なくらいの刹那です。
悟りは、振動や関係性が解消される地点で、シンプルに「滅」です。関係性が解消されるとか、業が解消されるなどと表現するとき、関係性の全てを観るとき関係性が解消されるのであって、単純に何もない状態の解消ではありません。
悟った存在が悠々自適に暮らす領域は存在しません。
その「滅」の境地の無次元の点に(または特異点)至ると「観」という作用そのものを領解します。「観」は、全ての人が共有していることを直感します。一人の個人が点で悟るわけではありません。人に限って見てみると、一人の個人が悟ったとするには全ての人が不可欠です。単独でそこに「滅」が起きるわけではありません。造波装置の「波」の文字と同じです。

「観」という物理構造が共有されているということは、全ての人が同一人物という構造です。誰か個人の悟りという構造ではありません。悟りに限らず、全ての事象が誰か個人のモノではありません。目の前に広がる全ての人の人生を自分のモノとして生きます。誰か個人の解脱という構造が存在しないということです。

この世の、尊敬する憧れる存在は、自分自身です。仏陀もアインシュタインも自分という構造です。記憶から離れない犯罪の加害者被害者も自分という構造です。

ここまで無味乾燥な世界観をイメージしてきましたが、日常は今まで通り生きるだけです。
緊急事態宣言で自粛ということがきっかけで、NHK連続テレビ小説『おちょやん』を見始めました。千代と一平が離縁することになったときは、悲しくて悲しくて涙が止まらなかったです。そこをわざわざ、この世は、波動関数から創発したモノに過ぎないと考えたりしません。


ただ、「全ての人が自分」という理解は、生き方に影響すると思います。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

おまけ
P376 「互いに量子もつれの状態になった自由度が集まって、近似的に古典的な時空の幾何学の輪中を生む」

この文章を読んだとき、私の瞑想のような行為に似ていると思いました。自分の記憶やそれに伴う身体感覚の振動を観察して幾何学的な構造に組み上げるというものです。

他にも『量子力学の奥深くに隠されているもの』で興味深い文章です。
P13 多世界理論は、量子力学を理解する最も純粋な方法であり、量子力学をまじめに受け止めることに最も抵抗を感じずにすむ道をたどっていけば、最終的にはそこに行き着くのだと。とくに、多数の世界というのはすでに確立している数学的形式の予言するところであって、誰かに勝手に付け加えられたものではない。
P14 しかし、そろそろ現実の根本的な性質を真剣に考えてみるときに来ている。それはつまり、量子力学に正面から向き合うということなのである。
P46 従来の古典的な直感から抜け出す道は、電子に何らかの位置があるという考えをばっさりと捨てることである。電子は、その電子が見つかる可能性のあらゆる位置の重ね合わせの状態にあって、電子があるところに実際に存在するのを私たちが観測するまでは、どの特定の位置にはめこまれない。「重ね合わせ」とは、電子があらゆる位置の組み合わせの中に存在することを強調するために物理学者が用いる用語で、それぞれの位置には特定の振幅がある。量子的現実は波動関数なのであり、古典的な位置と速度は、私たちがその波動関数を探ったときに観測できるものであるにすぎない。
P53 一個の電子が様々な位置の重ね合わせの状態で存在できることをひとたび認めれば、その当然の帰結として、一人の人間がさまざまな異なる位置に電子を見つける重ね合わせの状態で存在しうるし、実際、その現実が全体として重ね合わせの状態にあるすべての観点を個別の「世界」として扱うのが自然となるのである。量子力学には何も付け足されていない。そこにずっとあったものがきちんと直視されただけのことである。
P140 宇宙のことを量子の観点から論じるなら、古典的な領域を別に切り分けることができないのは明らかだ。宇宙の中にいる観測者も含め、宇宙のすべての部分を量子力学の規則にしたがって扱わなければならない。そこにあるのはただ一つの量子状態だけであり、この状態は「普遍的波動関数」(これはエヴァレットによる呼称だが、今の一般的な呼称で言えば「宇宙の波動関数」)によって記述される。
P165 そのほか同様に、0と1のあらゆる可能な羅列がある。もしエヴァレットが正しければ、これらの可能性のそれぞれが、ある特定の世界で実現される可能性は100%だ。
P275 多世界量子力学は真に機械論的な理論であって、観測者や経験に特別な役割を何も与えていない。意識のある観測者ももちろん残りの波動関数といっしょに分岐するが、それは岩も川も雲も同じだ。
P286突きつめれば多世界理論は、何かしらの「もの」についての理論ではなく、シュレーディンガー方程式のもとで時間発展する量子状態そのものについての理論だ。
P289 多世界理論は、波動関数というたった一つの数学的対象を使って宇宙を記述する。
P353 では、エネルギーがきっかりゼロの系があったらどうなるだろう。シュレーディンガー方程式にしたがうならば、その系はまったく時間発展しない。
P355 宇宙のエネルギーが実際にゼロなのかどうかについては、いまだ結論が出ていない。したがって、時間が創発的なものかどうかもまだわからない。
P375 空間そのものは基礎的なものではない。ある特定の視点から論じるのに有益な手段であるというだけだ。
(引用終わり)

ベニシジミを見つけました

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