私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

『「神の概念」の消滅』 本の紹介です。

2019年02月24日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

私の著書について書きます。Amazonで出版している電子書籍で、タイトルは『「神の概念」の消滅』です。
神だけでなく、思考する私という存在そのものが消滅するまでの過程を書きました。

以下は、内容紹介です。

認識する私
「認識する私」を認識する私
「「認識する私」を認識する私」を認識する私
「「「認識する私」を認識する私」を認識する私」を認識する私
「「「「認識する私」を認識する私」を認識する私」を認識する私」を認識する私

自分について認識するとき、その認識している自分についてさらに認識するという構造があります。自分の視点が無限に後退してしまう。この構造を追いかけ続けると苦しくなり、神にバトンタッチして終了するという遊びをよくしていました。
ここに出てくる神とは、5歳のころ、自分で勝手に設定した神で、この世のシステムの外側にいて、現在過去未来、全ての展開を知る存在のことです。
小学生のころに、この遊びは忘れてしまいます。

29歳の時、この遊びを思い出すことになります。無限後退する認識の正体を理解したからです。正体を探していたわけではなく、私が考えていたことは、全ての人が一秒も苦を感じないでいられるための思考は存在するかという問いでした。
考え続けて、思考することの臨界点に達したとき、神に出会いました。そして、これが神なら私の設定する神は存在しないと確信した瞬間、個人的私と世界が衝撃とともに消滅し、普遍的私の状態を経験しました。自分を認識する自分という意識の感覚のみの状態、それが普遍的私の状態です。それが認識の起源になります。

無限後退する認識が、同じ情報を唯一として圧縮して存在する構造になります。「認識する私」を「認識する私」を「認識する私」・・・同じ情報は、唯一として存在できます。

「認識する私」という情報は、最高次の概念なので唯一として存在し、時空に遍在します。

自分を認識する自分、この体験の蓄積で、個人的私が消滅し普遍的私を体験します。自分が認識しているという感覚は、この普遍的私が、全ての存在に共有されて存在するから存在します。全ての思考に不可分に存在します。このことから、現在過去未来、全ての人物は、同一人物と言えます。唯一独存の自己意識が全ての存在に共有されています。たった今、全ての今に共有されています。この世の一生のみが自分ではなく、全ての一生を、今、自分のものとして経験しています。
個人的私が消滅した普遍的私の状態では、全てが今、存在しているので重なり合って打ち消しあって何も存在しません。このように思考することすら存在しません。この状態に、誰が・いつと、問うことは無意味となります。至るべき最終地点でもないです。

この世の存在の方程式は波の性質を持ち、波の性質故に存在は、重なり合って打ち消し合い無に潜在することができます。
干渉する波に高さゼロの地点は数式に従って存在するように個人的自己の消滅は存在します。自己消滅はそういうありふれた循環の一部です。
思考は、閾値で全存在が相依相関して存在しています。これは、数式に従うので、自由意思は存在しないです。
ここまでの思考は、全てと関係しあって存在し、何にも依らず独立して存在する真実ではありえません。
思考は、個人の存在位置の問題となります。ここまでの思考とそれを否定する思考は対等であり優劣真偽は、永遠に確定しません。

全ての存在が自分だと、科学的に示すことは可能だと思います。手がかりは、現実の人間で囚人ゲームを行った実験において、現実の人間が当然原理に反する選択を行うという結果がでて、それを量子力学で説明できたということにあると思う。さらには、万物の理論の探求により意識の起源は、唯一しか考えられないという結論に至ると思います。

もし「全ての存在が自分」という思考に人々が受容的になる期間に入ったとしても、拒否し、消滅する事態の展開は訪れる。世界の構造は、拒否したい現実と、受容したい現実が同じ強度で存在するように展開します。存在することの条件は、振動することだからです。

個人的私が消滅し、普遍的私を体験するまでの思考空間の過程を書きました。


ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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縁起縁滅の法をふまえて悟りの境地を考察する

2019年02月17日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

縁起縁滅の法の理解を深めて生きたいと思います。四つほどポイントとなると思います。
一つ目は、「悟りは人間の求めるべき究極の目的である」という思考は、絶対の思考ではないことです。
二つ目は、悟りの境地に「誰が、いつ」という思考は持ち込めないと言うことです。
三つ目は、悟りは、業の解消の一点であって、悟ったままの人間として存在することはできません。
四つ目は、解脱という救いは存在しないということです。

縁起縁滅とは、物理学が扱う「万物の方程式」そのもののことです。
縁起縁滅とは、現在過去未来、存在する全時空が相依相関して存在するということです。ある地点の状態が、全時空の成立に関係しているということです。無次元の点から方程式に従って全時空が「今」存在します。
この世は、方程式に従って「点」の関係性の可能性が尽くされて存在します。

これは、自由意志が存在しないということです。自由意志が存在するという思考と自己責任という思考は存在します。全てが相依相関して存在するということは、単純に人間の思考は閾値をやりとりする関係と考えることができます。「神は存在する/神は存在しない」これらの神の概念の場においてどのように思考するかは方程式に従います。人間が何を思考するのかは、全時空の人間の思考と相依相関して存在するということです。
生まれてから、出会った他者に影響されて個人の考えができるというレベルだけではなく物理的に全時空が、個人の考えに関係しています。
独立自存の、絶対に正しい思考は存在しません。

波と波が干渉して高さゼロの位置が決まっているように悟りという事態は、時空上に法則性を持って存在するだけということになります。

縁起縁滅の観点から悟りの境地を考えると、個人の努力によって悟るわけではないということです。五蘊が展開している位置が存在し、五蘊が滅する位置が存在します。
「悟りは人間の求めるべき究極の境地」と他者に言うことは、顛倒した思考になります。
しかし、何らかの思考に「顛倒した思考」と投げかけること自体が顛倒した思考になります。
「悟りの概念の場」において「悟るべき」という思考が存在しそれを離れる思考が存在し片方だけでは、存在できない構造になります。縁起縁滅する思考に優劣真偽は、確定しません。
「悟りは人間の究極の目的であり、絶対の真理に達する」という思考も、仏教で言うところの虚妄の一つとなります。
悟った記憶を持った存在状態であって、仮我を用い煩悩を持ち、縁起縁起縁滅の法のシステムの外にはいません。「悟った」人が語る話においても、絶対の真理は存在しません。

悟りは個人のものとしていた仮我が消滅し、対峙する世界も消滅する、業の解消の一点です。そこに時空は存在しません。つまり、この世の一切の消滅とは無次元の点の状態です。
「私が存在し観ている」という自己感は、最高次の概念であるため、無次元の点に割り当てられています。悟りは、自己感そのものになる体験です。映像を圧縮するイメージと同じで、自己感が割り当てられた唯一の「点」が時空の背景を成立させます。「私が存在し観ている」という情報が遍在する時空上を五蘊が展開します。自己感は、ここからそこへと移動するものではなく、不生不滅不動です。
唯一の「私が存在し観ている」という情報が全ての人において意識の起源であり、全ての人間は同一人物ということになります。「自分」は「今」しか認識できませんが、過去も未来も「可能な限り存在しえた世界」も目の前の他人も、「今」、唯一の自己感が付与されて存在します。「今」は「今」すべて存在します。

ここから思考できることは、悟りに「いつ、誰が」は存在しないということです。悟りにかぎらず、「誰が、誰の」という構造に、根本的になっていません。無限一人芝居です。

悟りが業の解消の一点ということは、悟ったままという状態は存在しません。
業の解消の一点は、無限と反無限を認識している状態と同等であるので、全知ですが打ち消しあって潜在し無です。無という概念も存在しません。そこを大日如来、絶対者としてしまうと神秘になってしまいますが意識の起源そのものになるだけです。

縁起縁滅して存在していること、意識の起源は唯一として存在することから、解脱する特定の個人は存在せず、解脱という救いはないです。
普通に生きていれば、無常、無我、縁起縁滅、空、涅槃、解脱という思考は全く必要ありません。

ここまで書いてきた記事も縁起縁滅の法に従って存在するだけです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます



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解脱は、この世の構造的に不可能

2019年02月03日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

縁起縁滅の法とは、波の性質の方程式です。振動循環することが、存在することの条件です。諸行無常とは、因縁によって起こるこの世の一切は、常に変化し、不変のものはないということです。この世の存在の状態(業)が波のように伝播するということは、諸行無常は、当然の物理現象ということになります。

諸行無常を簡単にいうと、一つの状態に留まれないということです。自分のお気に入りの精神状態、自分のお気に入りの取り巻く状況を維持しようとすることは、地球の自転を止めようとするくらい無謀なものです。

この諸行無常という実感、縁起縁滅の法から逃れるすべはないという実感を目の前にたたきつけられたとき、この世とそこに存在する自分に心底絶望しました。

この世の一切を受け取りたくない、この世から自分を永遠に滅してしまいたい。快と苦が振動し切り離せないのなら、この世の一切は苦しみでしかない。

思考することしか趣味のない私が、ついに絶句し、ただ動いているだけの状態になりました。この状態は、二日間ほどで解きました。一緒に暮らしていた老猫の元気がなくなってしまったからです。そして、私にとっては、悟りの書と呼ぶべき本によって思考内のちりがはらわれて、「空」を領解しました。最後に、神の概念が消えたことは、自分でもドラマチックで、出来過ぎだな、と思ってます。この出来事は、11年前のことです。そのときは、「今までに読んだ本は、すべて要らない」と思ったのですが、それからも、本は読んでます。いろいろ思考してきました。そこで分かったことは、解脱し続ける「自己」というものは、構造的に不可能ということです。

まず、私が理解している解脱という状態は、完全に滅することです。輪廻から解脱し、神仏になるということではありません。さらに、悟りとは、大いなる存在と合一することとしていません。悟りは、仮我と対峙する世界が無になる一瞬のことです。無に至ってあらわになるのが、「自己が存在し観ている」という「私が気付いている」という志向性、意識の起源そのものです。悟りは、自己感そのものだけになる状態です。普通に、人間として生活している、今、使用している自己感です。

私の理解したところによると、悟りを開き、死後に輪廻の輪から解脱し、この世に生まれることはない。このような構造が解脱としています。

最初に、「悟り」という状態について考えてみます。

「悟った人は、自ら悟ったとは言わない」この言葉は、結構有名です。「悟ったなら死んでみせろ」とか・・・。でも、仏陀となったゴータマ・シッダールタは自ら悟ったと宣言し、元修行仲間5人に仏法を説いたとされています。長生きもしています。

悟ったなら、明確に、悟ったことがわかるので、「私は悟りました」と発音することは可能です。正確には、「私は、悟ったとする境地を経験した記憶があります」だと思います。(5歳のころ何回か悟りを経験したが、当時はわかりませんでした。神様がバグったと揶揄して遊んでいました。大人になり、悟りという知識があったので明確にわかりました。)

悟りの境地は、この世の一切が存在しません。つまり、時空は存在しません。時空という幅をもって悟り続けることはできません。悟りのような状態が続くということは不可能です。悟りは、一点での現象です。何も存在しないという思考も存在しない。煩悩が滅し続けて、時空上に存在することはできません。存在するということは、世界と個人、煩悩が存在します。悟っても、仮我を用い煩悩を持ちます。縁起縁滅の法のシステムから独立自存で存在することはできません。悟りの境地が時空上、近ければ、努力なしに煩悩は急速に薄れます。(別パターンもあると思います)

「悟った人は、自ら悟ったとは言わない」この言葉は、悟りとされる境地において、発音する個人も時空も存在しないという意味になるのかと思います。

次に、「解脱」について考えてみます。

生々死々輪廻転生する此岸から不生不滅不死なる涅槃の境地である彼岸に至ることが解脱としたとき、それは不可能です。

何が解脱するのか?特定の個人が解脱するとしたとき、その構造は不可能です。

個人のものとしていた思考感情行動、自己感を自分のものだと思っている思考や対峙する世界が、潜在し無になる地点が存在するだけです。仮我は消えますが、意識の起源としての「我」は消えません。この「我」は、無次元の点に割り当てられている情報です。時空は、意識の起源となる「我」が、遍在します。私たちは、ニューロンの関係性の中に「私に気付いている私」(または、自己、我、私、自分、観自在)があらわれると考えますが、「気付いている私」という情報は自分が存在する地点に由来します。最上位の概念となる「私に気付いている私」は、唯一として存在する構造になります。この世の人々は、一人芝居をしていることと同じです。自分と目の前の他者は、同一人物であり、究極の因果応報です。

この唯一であり独存の意識の起源に満たされた時空上を個人の身体思考行動感情が展開します。時空に遍在する「自己」を特定の個人のものとして取り出すことはできません。解脱という救いは存在しません。死や悟りは仮我と仮我の節目であって解脱する何かは存在しません。

 

この世は、存在することの可能性が尽くされています。平行世界、マルチバースという考えがあります。この二つは、同じことです。つまり、この世界で死んでも、死んでいない世界も可能な限り存在します。どの世界も、自分が生きている人生です。そして、目の前の他者も全て自分、解脱は、不可能となると・・・。

私は、勝手知ったる、今のこの生を生きるしかないという判断に至りました。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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