私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

コメントについて考えたこと

2022年09月20日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

私って、理解力が貧弱、ボケボケの人だなと思います。
本当にオボケタイプです。なかなか他者が示す、意図とか解釈を理解できません。

それでも、僧侶の子さんのコメントを元に何か思ったことを書きたいと思います(*^-^*)

まず、コメントにあった
思考A【私は、「自分を殺したい」と思いますが、全てが自分ならば、全てを殺しても良いことになる。】
コメント主の僧侶の子さんは、「明らかに間違った結論です。」と書かれています。
ふと、相模原障害者施設殺傷事件で、入所者19人が殺害された事件を思い出しました。さらに、悪いカルマをこれ以上積み重ねないためにポアする、という考え方を思い出しました。何だか同じ雰囲気を感じます。
確かに、思考Aは、間違った結論だと、私も思います。

私は、「自分」を保持し守りたいという執着は、とてつもなく強いです。
NHKなどの戦争の番組を見ているとき、最前線の人は、「自分」「家族」「国家?」を守りたくて人に銃を向けるだけで、「殺したい」が最優先ではありません。敵同士がお互いに「戦争やめた!」ってなれば良いのにと思ってしまいます。戦争をさせたがっている人だけで戦争をして欲しいと思ってしまいます。そうもいかない、しがらみや状況が重くのしかかって不可能なのもわかります。
基本的に平和タイプで思考してしまうので、思考Aを考えたことはありませんでした。
怖いことで考えたのは、「恨みを晴らすために酷たらしく死んでみせる」ということです。この世一切の痛覚は「自分」が観ることになるということを想定した思考です。

思考Aの構造を少しまねして、私が使う「全ては自分」の思考を書いてみます。

思考B【私は、「自分を生かしたい」と思います、全てが自分ならば、全てを生かしたいと願うことは、当然のことになる。】
この考え方は、耳触りが良くて飛びつきやすいです。お花畑思考です。私が、書くところの「全てが自分なら、慈悲を持たざるを得ない。」です。
思考Bは、僧侶の子さんからすると、【「自分は自分を殺したくない」という欲深い人だけが、「全ては自分」という結論に達する。】となります。
私は、「全ては自分」という思考に、反射的に「慈悲」という思考が出てくるタイプです。

【まとめ】
① 「全てが自分」だと、明らかに間違った結論を生んでしまう。
② 「自分」についての執着が強いから、「全ては自分」という結論に達する。
③ 「自分」はない、というのが正しい真理であり、その「自分」が思考した「全ては自分」は、真理を捉えてはいない。
重要なのは③です。「自分はない」故に、「全ては自分」を含めてあらゆる思考は、真理を捉えてはいない。

基本、一人で考えているので、「ここはこうだよ」「この表現の方がわかりやすい」と話し合える相手はいないので、「わかってないな」という部分があると思います。
でも頑張って書いてみれば何か見えてくるかもしれないので書き続けてみます。

問題になるのは、《「自分」はない》の取り扱いです。
私の理解としては、人間はプランクスケールでぼやけていて不確定、マクロスケールでは存在は確定していると錯覚して問題が無い。
マクロスケールでも重ね合わせの状態で存在し、「自分」の認識できる範囲(色受想行識)は確定して存在し、「自分」のあずかり知らないところは、重ね合わせの状態で在る。
この世の現象は、無次元の点が持つ原理にしたがって、無次元の点の関係性が展開しているだけで、物質としての実体はない。
物質に触れるのは、電気的反発という関係性によるもの。電子が1つの状態に1つしか入れないという関係性も物質を存在させます、重なると波動関数がゼロになってしまう。
人間の肉体や取り巻く世界、さらに、受想行識も双対するものが重ね合わさると無に潜在するので実体はない。
私の理解したいように理解した結論ですが、仏教では、色受想行識が無に潜在し滅する状態が悟りです。五蘊皆空を照見することが悟りです。

「自分」は仮和合の関係性で、消滅する領域の現象です。ゆえに、「自分」は実体がない、と私は理解しています。

確定した《「自分」はない》とまったく取り扱う必要のない透明なもののように扱うのは、私は、あまり同意できません。
「欲望がないし、自分に対する執着もないですから。」(僧侶の子さん)
と、このような考えは、私は、何もそこまで諦めなくても良いのにと思います。自分が喜ぶことを常識の範囲で行って良いのにと思います。
それとも、外見上は、泣いたり笑ったりしながら、内面は醒めているということかもしれません。
この世は、幻想、実体は無い、「自分」はない、といわれても、私にとって、日常感覚で「自分」は在ります。痛いことは嫌だし、おなかも減ります。老後の資金や健康も不安です。自分でも、よっぽど執着が強いと感じます。

議論の要は、《「自分」はない》の理解の仕方ではありません。
「自分」はない
「自分」は実体がない
そういう次元の「自分」が、声高に「私は悟りました」「全ては自分」「慈悲を持たざるを得ない」と、絶対の真理のように発言することは、この世の実態・原理を理解していないことの象徴ということです。

先に言ってしまうと、分かっていて、あえて、「私は悟りました」「全ては自分」「慈悲を持たざるを得ない」と書いています。

最近は、単純に「全ては自分」と書いていました。初期の頃からここのブログを読んでくれている人を想定していました。たまに、思考が存在するには、相反する両極が必要で、私が書いていることは、絶対の真理ではないと書いたりすることはありました。思考Aと思考非Aは、相依相関して存在し、片方だけでは存在できません。独立自存の絶対の真理は「人間」には持ち得ません。無限から有限を取り出すとき両極が必然です。

・「全ては自分」
・「全ては自分」は間違った結論。
・思考A【私は、「自分を殺したい」と思いますが、全てが自分ならば、全てを殺しても良いことになる。】
・思考B【私は、「自分を生かしたい」と思います、全てが自分ならば、全てを生かしたいと願うことは、当然のことになる。】

これらの思考は《「全ては自分」という概念の場》において、相依相関して存在するので、絶対の真理として1つで存在することはできません。全ての思考は、真偽優劣はなく、等価です。より本当の真理というものは存在できません。(←この思考も絶対ではありません。思考は、いつも底が抜けていて安住の地はありません。)←この思考も絶対ではありません。←この思考も絶対ではありません。←この思考も絶対ではありません。・・・以下無限。
このように「以下無限」を書いていました。

さらに、人間の思考は、縁起縁滅の法に従って展開するので自由意思は存在しません。
私は、私という位置に生じた思考を素直に書く装置です。

【ここ重要です】
確かに、生成消滅する領域の「自分」が、不動の領域の「純粋な認識」について扱うことは、心得違いかと思います。
生成消滅する領域の「自分」が、不動領域から示される「全ては自分」を扱うことは、本質を見誤っている。傲慢という印象を持つのも頷けます。非合理です。

でも、ちょっとだけ不動の領域について書きます。
《「自分」が認識する》という現象だけでは、無と同じで、《「自分」はない》となります。
「純粋な認識」(梵・観自在・仏・神・真我)が不可分に存在して、《「自分」が認識する》という現象は、確かに「有」として存在を顕すことができます。
【《「自分」が認識する》を認識する】と言う構造です。
この純粋な認識が、全ての今に一対一対応して不可分に存在します。純粋な認識が、唯一として存在するため、「全ては自分」と言う構造を持ちます。「自分」という現象だけでは、有と認める認識は持ちません。生成消滅する領域の「自分」によって「全ては自分」が実現されているわけではありません。

ブッダも同じく、生成消滅する領域の存在です。

僧侶の子さんも、物理学なら信頼することが可能なようですね。
私も、数学・物理・科学全般なんでも使って、無知無明を解明して欲しいです。

「自分」が一体何なのか?
「自己認識」が一体何なのか?

私は、数学・物理で、この問いを探求することができると思います。
その結果、「真理」が発見されたとしても、「それが真理だ」「それは真理ではない」という思考と両極があって「それが真理だ」と発話できるだけです。
それでも、物理・数学の信憑性は、個人の思考より格段に高いです。

「自分」が一体何なのか?
と、探求し、たどり着いて欲しいと思います。

この問いの答えによって、何を考えるかは、絶対の真理ではなく、好みの問題になります。
私は単純に、「全ては自分」⇒「慈悲を持たざるを得ない」という思考が好きです。

「「全てが自分」ならば、遠く離れた見ず知らずの外国人と自分の親が同列という事になるが、仏教はそんな宗教ではない。」(僧侶の子さん)

私は、同列と考えます。平等・等価です。(この思考も独立自存の絶対の真理ではありません。)
実際の場合、私は、見ず知らずの外国人より、近くの大切な人を優先します。余力があれば見ず知らずの外国人も無理しない範囲でできることがあれば何かします。やはり、「全ては自分」と思えばこそ、何か手助けしようという思いは簡単に思考に生じます。

ここまで書いて思ったこと、
「全ては自分」でも、思い入れのあるなしで他者の重要度は変わります。重要度という点で違うということは、重要ではない他者を「全ては自分」を根拠に殺すことはできない?「全ては自分」でも平等に慈悲を与えるわけではないということです。
ここら辺は、また、ゆっくり考えていきます。


私が「全ては自分」を使用して欲しい場面は、例えば、政府が子供の教育にもっとお金を使うとか。山の木々を切り倒して太陽光パネルだらけにすることに、近所じゃなくても反対するとか。
武器や医薬品の在庫処分のために人々を傷つけたり死なせたりすることに反対の気持ちを本気でもつとか。戦争などで起きる拷問を心底不快に感じ、許さないという空気を作るとか。
本当に色濃く「今だけ金だけ自分だけ」という要素が顕われている存在に「全ては自分」が良い形で作用できると良いなと思います。
でも、それを行くと、「全ては自分」ゆえに、人口過剰が問題を起こすとき、人口削減を実行することが良いことになってしまったり・・・。
「全ては自分」という思考を含め、何であっても、プラスの面だけを享受できません。存在を顕すにはプラスの面・マイナスの面両極が必要だからです。

 

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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5億年ボタン

2022年09月15日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

今夜の24時30分からTOKYO MXで『5億年ボタン』というアニメがあります。
私は、このアニメを「悟りの標準理論」と読んでいます。このアニメを見た感想によって、「悟り」に対する立ち位置が明瞭になると思います。Huluでも全話見ることができます。

あと、2時間30分後ぐらいですね(*^-^*)

描いてみました

 

 

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「悟り」「人という現象」に対する過大評価

2022年09月11日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

中秋の名月を見ました。何枚も写真撮っちゃいました。綺麗(*^-^*)


「悟り」「人という現象」に対する過大評価について思ったことを書きます。

過大評価の類語を検索すると誇大妄想と書いてありました。
評価の過小・過大に関係なく、仏教ではこの世の全ては虚妄としていることを思いました。

「人という現象」において、日常の範囲で愛・幸せ・平和・精神的進化向上・栄枯盛衰の栄・盛だけを求める、このように自分にとって心地の良いコトモノを求めることは普通です。
私も、月は綺麗だと思います。健康でいたいと思います。金銭的に余裕だって欲しいです。願い事もあります。精神的に平穏でありたいです。
基本的に人は、心地よい価値観を善として求めます。

「悟り」を「善」として求めるべきこと、人の進化として求めるべきこととすると過大評価・誇大妄想となります。

補足:「悟り」に対してのあらゆる態度は平等で、本質的に優劣はありません。私は、「悟り」を「善」とすることは、過大評価・誇大妄想として思考します。
「悟り」など存在しないという思考、悟りは人にとって最善とする思考、「悟り」に全く関心が無い状態の人、「悟り」に関する思考の場で、相依相関して存在します。
自分の立ち位置とは違う思考が、考え抜かれたものであるほど、自分の立ち位置の思考が明確になります。


私は、「悟り」について考えるとき、冷徹な態度が求められると思います。
善悪ではなく、「悟り」が、ただ物理的に何なのか?という事実だけで考えることが大切だと思います。

「人という現象」(人間)が感じることは、どんなに素晴らしいことであっても生成消滅する現象で、「縁起の法・万物の理論」に従って展開し顕われるものにすぎません。
「悟り」を善とすること、「悟り」を有り難いと感じること、「悟り」を神秘的で素晴らしいものとすること、逆に「悟り」を否定すること、これらの現象も「縁起の法・万物の理論」に従って展開し顕われるものにすぎません。

神人合一、梵我一如、これらの概念は、“人間”が超越的なものと結びつく・一体である・同一である、という印象を与えます。
神・梵・仏・一者・真我・如来・法身・永遠の命、これらの概念は、究極の人型を思わせます。
「人という現象」を保持したまま悟ることは、不可能です。
「人という現象」が持ちうる、愛・真心・尊厳、素晴らしい感情・思考・行動、素晴らしい身体状態などを保持したまま悟ることは不可能です。

物質は、絶対零度(-273.15℃)にまで冷却しようとしても振動します。
「人という現象」をどんなに修行で煩悩を滅却しようとしても、『人』を保持したままゼロには至りません。悟りの物理状態の模倣です。瞑想は悟りの物理状態の模倣です。
悟りの物理状態の模倣によって、『人』という物質の振動がゼロに至ります。
『人』自体を滅することでゼロに至ります。

「人という現象」が滅した物理状態が悟りです。

「人という現象」が滅し、ありのまま認識の正体を知ります。
第三の眼です。本来名づけるなら、第一の眼、または唯一の眼です。さらに遍在する眼です。
「人という現象」が滅し、そこに対峙する時空も滅すると、【唯一・遍在する】眼という状態になります。遍在する眼の一部分の『人』という錯覚から反転して、唯一の眼という状態を知ります。“唯一”と“遍在”は表裏一体の関係です。どちらも平等で優劣はありません。
色即是空・空即是色、逆にして2度書くのは、空と色が平等だからです。
本当は、色即是空空即是色を何個か、円の紙に円形で書くと良いのかも(*^-^*)

究極の唯一とは、無次元の点です。宇宙が始まる無のことです。
(人にとっての“始まる”です。この世は、全て存在するか、無に潜在するかです。)
無次元の点には、「眼」という物理的性質が備わっています。
「眼」とは、人間の眼球のことではありません。「現象を確かに有と認める」物理作用です。
この「眼」が無ければ、この世は、無と同等です。
この「眼」が無ければ、人間は何も認識しません。認識・意識を持たないレベルのロボットと同じです。今まで通り生活し笑い泣いても認識は存在しません。

「悟る」とは、この無次元の点の状態で、認識の正体を悟ることです。
【唯一・遍在する】眼そのものに成ることによって認識の正体を悟ります。

このことにより、物理的に何が突きつけられるのか?

⇒「全ては自分」(自他不二・三心平等)という物理構造を与えます。

同じ根っこから生えた兄弟ではなく、たった今、全部自分ということです。
誰かの前世、誰かの来世、ではなく“今”全部自分です。
時間、空間を超越する【唯一・遍在する】眼には、物理的に可能です。

「あ!私が全部の人に宿ってる!」ではなく×××××
人間的な何かが、宿るわけではありません。

【唯一・遍在する】眼が、全ての「人の現象」を確かに有と認識します。認識の質感を与えます。


「今だけ金だけ自分だけ」という価値観が色濃い時代です。
優しさ誠実さ思いやり共感力、これらが欠ける存在は、この世に必然で存在します。それが縁起縁滅の法です。善悪の善だけでこの世を構成することはできません。両極で存在を顕すことが、無限から有限を顕す方法です。

私にも卑怯な一面、思いやりがない一面があります。
「全ては自分」を了解していなければ、狂気じみた嫉妬でおかしくなっていたと思うような出来事もありました。嫌いな人もいます。
両極で存在を顕すので、遠ざけたい存在がいて、大切な存在もいます。

優しさや真心ではなく、「全ては自分」という物理構造から得られる損得で行動しても良いと思います。与えて損はないし、奪って得もありません。

ただ、難点は縁起縁滅の法の厳格さです。
善悪の両極があることが、存在を顕す条件です。
「人という現象」が発展するとき、「人という現象」を衰退させる働きも不可分に存在します。
恒久平和を実現した文明は、宇宙のどこにもありません。無理に平和に押し込めるともうそこには、理想の平和は存在しません。戦争が存在しなくても「人という現象」を衰退させる働きは、何らかの形で存在します。

縁起縁滅の法、万物の理論を知る宇宙のどこかの文明は、地球に何かして助けようとはしません。プラスのことだけをすることはできないからです。


それでも、「全ては自分」という概念が、数学的に真であるとする時代、「全ては自分」が常識になる時代、見てみたいです。

読んでくれた方、ありがとうございます

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支配者層と悟り

2022年09月04日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

よく、「もし死ぬとき何を後悔しますか?」という質問があります。

私の質問の答えは、「今まで書いてきたことの紙の本が作りたい」です。
ですが、夏休みの宿題は、ギリギリまで手をつけない性格です。
いつまでも気力、体力、健康があるわけではないので早めに頑張りたいです。

最近、amazonのKindleに、ペーパーバックというシステムがあることに気づきました。
これで紙の本を作れば、一応満足です。

たまに私のKindle本を購入してくれる方がいます。ありがとうございます(*^-^*)
もしもこれから購入しようとしている方は、全部盛りのKindleとペーパーバック作る予定なので、そちらをお勧めします。

悟りの分析あれこれ

今期ドラマで『家庭教師のトラ子』を見ています。
第7話のトラ子の台詞
「何の罪もない子が虐待や貧困で苦しんだり、私より頭の悪いやつが裏金積んで大学行って親のコネで一流企業に就職したり、そのくせ、安い給料でこき使われている真面目な人は怪我しても労災が降りなかったり、それなのにいつまでたっても、この国は予算の無駄使い・横領・天下りの繰り返し。
そんなこと、いくらSNSで訴えたって、誰も聞いていくれない。神様に祈っても助けるのは貧しい人間じゃなくて金持ちのほうばかり。だったらあたしが正しくお金が使われる世界を作ってやる。」

「今だけ金だけ自分だけ」という価値観は、「自他不二」「全ては自分」の真逆の性質です。
「自他不二」「全ては自分」という構造が数学的に示唆され、「自他不二」「全ては自分」が科学の対象になれば、「今だけ金だけ自分だけ」という現象も変化して行くと思います。

「代数的位相幾何学」による高次の脳の働きを分析するという話とかも面白そう。
いろいろな分野の知識が集まって、「自他不二」「全ては自分」にたどり着いて欲しいです。

8月15日の終戦記念日が近くなると、NHKで戦争についての番組が入ります。私は、毎年見ています。

『戦慄の記録インパール』

「73年前23歳だった斉藤博圀少尉は、死線をさまよいながら戦慄の記録を書き続けた。「片足を泥中につっこんだまま力尽きて死んでいる者。水を飲まんとして水に打たれている死体。さう言えば死体には、兵、軍属が多く、確かに将校、下士官は死んでいない。」」
「日本の軍隊の上層部が、悔しいけれど、兵隊に対する考えはそんなもんです。(その内実を)知っちゃったら辛いです。」
「国家の指導者層の理念に疑いを抱く、望みなき戦を戦う、世にこれほどの悲惨事があるだろうか。」
「まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から「何千人殺せばどこが取れる」という言葉をよく耳にした。」
「武器弾薬が不足するなかで、兵士が命じられたのは肉薄攻撃、弾薬を抱えたまま敵の戦車に飛び込むという命がけの攻撃でした。」
「9.9部まで死ぬのが分かとって、行けと言われたら、もう、これは行かないかんわけです。」
「作戦開始から2ヶ月、日本軍に戦える力は、ほとんど残されていませんでした。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、100メートルでも前に進めと、総突撃を指示し続けたのです。」
「撤退路を白骨街道と呼びました。」
「作戦中止後、牟田口司令官は、兵士たちに先駆けて現場を離脱します。そして、その任を解かれ帰国しました。」
「補給を度外視」
「水を飲むでしょう、アメーバ赤痢で、1日か2日でみんな死んじゃう。」
「参謀長:インパール作戦は、いかなる犠牲を払っても、精神的価値として続ける意義があった。」

この世の支配者層に、「全ては自分」と深く理解して欲しいです。
とっくに知っているということもあり得ますが・・・。
タイムマシンで5歳の自分を30歳の自分が見つめるとします。目の前の他者、戦争に関わった全ての人、同質で自分です。

梵我一如を悟るということは、【唯一・遍在】する焦点を悟ることです。

この構造によって「全ては私」が了解されます。

「私」という現象が、唯一の源から枝分かれして根っこで繋がっているのではありません。たった今、存在する「私」という現象の全てを自分の「私」として観ているということです。
この世に存在する・存在した・存在していく「私」全ての当事者になる構造です。
太平洋戦争の軍の上層部、肉薄攻撃をした兵士を本人として「私」が経験します。
全ての人生のプレイヤーは、一人という構造です。
(「一人」という表現は、人中心的な理解であって、適切ではありませんが、わかりやすく「一人」としています)

そういう思いで、戦争の特集番組を見ます。

時空を越えた【唯一・遍在】する焦点
時空が無に滅すると如実に知る【唯一・遍在】する焦点
在るものを在るとする、つまり【観る】という物理作用を持つ【唯一・遍在】する焦点。

時空隅々まで遍在し、唯一として存在する焦点。「宇宙全体は私」という考えは、神秘ではなく、物理です。
全ての人生のプレイヤーは、一人です。

自分よりヒエラルキーが下と判断して、見下したり、からかいの対象にしたり、支配しようとする人に、「全ては自分」と知って欲しいと思ったりします。

「全ては自分」という構造が、数学的に理解されますように。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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