こんにちは、領です。
私って、理解力が貧弱、ボケボケの人だなと思います。
本当にオボケタイプです。なかなか他者が示す、意図とか解釈を理解できません。
それでも、僧侶の子さんのコメントを元に何か思ったことを書きたいと思います(*^-^*)
まず、コメントにあった
思考A【私は、「自分を殺したい」と思いますが、全てが自分ならば、全てを殺しても良いことになる。】
コメント主の僧侶の子さんは、「明らかに間違った結論です。」と書かれています。
ふと、相模原障害者施設殺傷事件で、入所者19人が殺害された事件を思い出しました。さらに、悪いカルマをこれ以上積み重ねないためにポアする、という考え方を思い出しました。何だか同じ雰囲気を感じます。
確かに、思考Aは、間違った結論だと、私も思います。
私は、「自分」を保持し守りたいという執着は、とてつもなく強いです。
NHKなどの戦争の番組を見ているとき、最前線の人は、「自分」「家族」「国家?」を守りたくて人に銃を向けるだけで、「殺したい」が最優先ではありません。敵同士がお互いに「戦争やめた!」ってなれば良いのにと思ってしまいます。戦争をさせたがっている人だけで戦争をして欲しいと思ってしまいます。そうもいかない、しがらみや状況が重くのしかかって不可能なのもわかります。
基本的に平和タイプで思考してしまうので、思考Aを考えたことはありませんでした。
怖いことで考えたのは、「恨みを晴らすために酷たらしく死んでみせる」ということです。この世一切の痛覚は「自分」が観ることになるということを想定した思考です。
思考Aの構造を少しまねして、私が使う「全ては自分」の思考を書いてみます。
思考B【私は、「自分を生かしたい」と思います、全てが自分ならば、全てを生かしたいと願うことは、当然のことになる。】
この考え方は、耳触りが良くて飛びつきやすいです。お花畑思考です。私が、書くところの「全てが自分なら、慈悲を持たざるを得ない。」です。
思考Bは、僧侶の子さんからすると、【「自分は自分を殺したくない」という欲深い人だけが、「全ては自分」という結論に達する。】となります。
私は、「全ては自分」という思考に、反射的に「慈悲」という思考が出てくるタイプです。
【まとめ】
① 「全てが自分」だと、明らかに間違った結論を生んでしまう。
② 「自分」についての執着が強いから、「全ては自分」という結論に達する。
③ 「自分」はない、というのが正しい真理であり、その「自分」が思考した「全ては自分」は、真理を捉えてはいない。
重要なのは③です。「自分はない」故に、「全ては自分」を含めてあらゆる思考は、真理を捉えてはいない。
基本、一人で考えているので、「ここはこうだよ」「この表現の方がわかりやすい」と話し合える相手はいないので、「わかってないな」という部分があると思います。
でも頑張って書いてみれば何か見えてくるかもしれないので書き続けてみます。
問題になるのは、《「自分」はない》の取り扱いです。
私の理解としては、人間はプランクスケールでぼやけていて不確定、マクロスケールでは存在は確定していると錯覚して問題が無い。
マクロスケールでも重ね合わせの状態で存在し、「自分」の認識できる範囲(色受想行識)は確定して存在し、「自分」のあずかり知らないところは、重ね合わせの状態で在る。
この世の現象は、無次元の点が持つ原理にしたがって、無次元の点の関係性が展開しているだけで、物質としての実体はない。
物質に触れるのは、電気的反発という関係性によるもの。電子が1つの状態に1つしか入れないという関係性も物質を存在させます、重なると波動関数がゼロになってしまう。
人間の肉体や取り巻く世界、さらに、受想行識も双対するものが重ね合わさると無に潜在するので実体はない。
私の理解したいように理解した結論ですが、仏教では、色受想行識が無に潜在し滅する状態が悟りです。五蘊皆空を照見することが悟りです。
「自分」は仮和合の関係性で、消滅する領域の現象です。ゆえに、「自分」は実体がない、と私は理解しています。
確定した《「自分」はない》とまったく取り扱う必要のない透明なもののように扱うのは、私は、あまり同意できません。
「欲望がないし、自分に対する執着もないですから。」(僧侶の子さん)
と、このような考えは、私は、何もそこまで諦めなくても良いのにと思います。自分が喜ぶことを常識の範囲で行って良いのにと思います。
それとも、外見上は、泣いたり笑ったりしながら、内面は醒めているということかもしれません。
この世は、幻想、実体は無い、「自分」はない、といわれても、私にとって、日常感覚で「自分」は在ります。痛いことは嫌だし、おなかも減ります。老後の資金や健康も不安です。自分でも、よっぽど執着が強いと感じます。
議論の要は、《「自分」はない》の理解の仕方ではありません。
「自分」はない
「自分」は実体がない
そういう次元の「自分」が、声高に「私は悟りました」「全ては自分」「慈悲を持たざるを得ない」と、絶対の真理のように発言することは、この世の実態・原理を理解していないことの象徴ということです。
先に言ってしまうと、分かっていて、あえて、「私は悟りました」「全ては自分」「慈悲を持たざるを得ない」と書いています。
最近は、単純に「全ては自分」と書いていました。初期の頃からここのブログを読んでくれている人を想定していました。たまに、思考が存在するには、相反する両極が必要で、私が書いていることは、絶対の真理ではないと書いたりすることはありました。思考Aと思考非Aは、相依相関して存在し、片方だけでは存在できません。独立自存の絶対の真理は「人間」には持ち得ません。無限から有限を取り出すとき両極が必然です。
・「全ては自分」
・「全ては自分」は間違った結論。
・思考A【私は、「自分を殺したい」と思いますが、全てが自分ならば、全てを殺しても良いことになる。】
・思考B【私は、「自分を生かしたい」と思います、全てが自分ならば、全てを生かしたいと願うことは、当然のことになる。】
これらの思考は《「全ては自分」という概念の場》において、相依相関して存在するので、絶対の真理として1つで存在することはできません。全ての思考は、真偽優劣はなく、等価です。より本当の真理というものは存在できません。(←この思考も絶対ではありません。思考は、いつも底が抜けていて安住の地はありません。)←この思考も絶対ではありません。←この思考も絶対ではありません。←この思考も絶対ではありません。・・・以下無限。
このように「以下無限」を書いていました。
さらに、人間の思考は、縁起縁滅の法に従って展開するので自由意思は存在しません。
私は、私という位置に生じた思考を素直に書く装置です。
【ここ重要です】
確かに、生成消滅する領域の「自分」が、不動の領域の「純粋な認識」について扱うことは、心得違いかと思います。
生成消滅する領域の「自分」が、不動領域から示される「全ては自分」を扱うことは、本質を見誤っている。傲慢という印象を持つのも頷けます。非合理です。
でも、ちょっとだけ不動の領域について書きます。
《「自分」が認識する》という現象だけでは、無と同じで、《「自分」はない》となります。
「純粋な認識」(梵・観自在・仏・神・真我)が不可分に存在して、《「自分」が認識する》という現象は、確かに「有」として存在を顕すことができます。
【《「自分」が認識する》を認識する】と言う構造です。
この純粋な認識が、全ての今に一対一対応して不可分に存在します。純粋な認識が、唯一として存在するため、「全ては自分」と言う構造を持ちます。「自分」という現象だけでは、有と認める認識は持ちません。生成消滅する領域の「自分」によって「全ては自分」が実現されているわけではありません。
ブッダも同じく、生成消滅する領域の存在です。
僧侶の子さんも、物理学なら信頼することが可能なようですね。
私も、数学・物理・科学全般なんでも使って、無知無明を解明して欲しいです。
「自分」が一体何なのか?
「自己認識」が一体何なのか?
私は、数学・物理で、この問いを探求することができると思います。
その結果、「真理」が発見されたとしても、「それが真理だ」「それは真理ではない」という思考と両極があって「それが真理だ」と発話できるだけです。
それでも、物理・数学の信憑性は、個人の思考より格段に高いです。
「自分」が一体何なのか?
と、探求し、たどり着いて欲しいと思います。
この問いの答えによって、何を考えるかは、絶対の真理ではなく、好みの問題になります。
私は単純に、「全ては自分」⇒「慈悲を持たざるを得ない」という思考が好きです。
「「全てが自分」ならば、遠く離れた見ず知らずの外国人と自分の親が同列という事になるが、仏教はそんな宗教ではない。」(僧侶の子さん)
私は、同列と考えます。平等・等価です。(この思考も独立自存の絶対の真理ではありません。)
実際の場合、私は、見ず知らずの外国人より、近くの大切な人を優先します。余力があれば見ず知らずの外国人も無理しない範囲でできることがあれば何かします。やはり、「全ては自分」と思えばこそ、何か手助けしようという思いは簡単に思考に生じます。
ここまで書いて思ったこと、
「全ては自分」でも、思い入れのあるなしで他者の重要度は変わります。重要度という点で違うということは、重要ではない他者を「全ては自分」を根拠に殺すことはできない?「全ては自分」でも平等に慈悲を与えるわけではないということです。
ここら辺は、また、ゆっくり考えていきます。
私が「全ては自分」を使用して欲しい場面は、例えば、政府が子供の教育にもっとお金を使うとか。山の木々を切り倒して太陽光パネルだらけにすることに、近所じゃなくても反対するとか。
武器や医薬品の在庫処分のために人々を傷つけたり死なせたりすることに反対の気持ちを本気でもつとか。戦争などで起きる拷問を心底不快に感じ、許さないという空気を作るとか。
本当に色濃く「今だけ金だけ自分だけ」という要素が顕われている存在に「全ては自分」が良い形で作用できると良いなと思います。
でも、それを行くと、「全ては自分」ゆえに、人口過剰が問題を起こすとき、人口削減を実行することが良いことになってしまったり・・・。
「全ては自分」という思考を含め、何であっても、プラスの面だけを享受できません。存在を顕すにはプラスの面・マイナスの面両極が必要だからです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます