私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

観自在菩薩についての考察

2019年09月06日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

般若心経の一番最初に出てくる、観自在菩薩についての考察です。
私は、この観自在という三文字を見るといろいろ考え出してしまいます。

観自在菩薩が行っていたのは、悟りの境地に至る瞑想です。そして、五蘊、つまり、世界も自分自身も全てが、空であると見極めます。
悟りの境地に至るということは、全てが潜在し無になる次元に至ることです。業の解消の一点です。私はそれを空としています。

悟りの境地に至る瞑想とは一体何なのだろう?という問いの答えは、観自在にあると思います。
観自在の三文字をいろいろこねくり回して考えてみます。

自由自在に観る、このように考えると、自由自在に観るとは心無罜礙に観るということです。
罜礙とは、こだわりや固定観念、判断による思考の上塗りのことです。思考によってコントロールすることです。

悟りの境地に至る瞑想とは、世界や自分に対して起きる行動感情想起に、思考の上塗りなしに観察することです。
こだわりや判断を用いないで自己の行動感情想起を観ると、縁起の完成に向かうように自己の観察が展開されます。
簡単にすると、自分の視点が機材のカメラになった感覚で心理的な苦痛も、日常生活も観察するだけの状態のことです。

ラーメンを食べ終えた汁に細かい油の粒が浮いてますよね。そこをスーっと一本のお箸でなぞるとカルマン渦ができます。
食べ物で遊んではいけませんが、私は、カルマン渦を作って遊ぶのが大好きです。
このきれいなカルマン渦にもう一本のお箸でグシャグシャに掻き乱すことが思考の上塗りです。
思考の上塗りなしに世界、自分自身を観るとカオスだった世界展開が静まり、秩序だった世界展開が現れ、縁起縁滅という法の存在を感じます。

そもそも私が、思考の上塗りを止めたのは、無常に屈したからです。どんな思考を用いても、私の望む状態を一定に保つことができなかったため脳が絶句状態になってしまったからです。思考など、常(じょう)を欲することに対し、何の役にも立たないと心底納得してしまったんです。
自己を厳しく戒め、監視し続け、望む状態を維持しようと、ギリギリまで努力し、追い詰めることで、無常ということを理解しました。
五蘊は、自分で好きなようにコントロールすることは、不可能だと理解した後、勝手に展開する世界をただ観ているだけになりました。
その状態のまま、あれがあってこれがある式の縁起の観察は続けました。何の目的もなく、ただ観察すること自体に興味を持っていました。
自分の心だけで無く、世界展開も縁起縁滅の持つ波の性質を表現するよう的確に展開するので、縁起は気のせいというレベルを超えていると思いました。
世界と自己を観察する機械になりきること以外に何もやる気がありませんでした。

思考を静止して観るということは、観ると自己感だけが残された状態です。
観自在は、観る自己が在ると考えて、自己が在るとは、つまり、自己感のことと考えて
観自在=観ると自己感と考えることもできます。

自分自身を俯瞰し、思考を停止して観察する作業を継続すると、自己を俯瞰することの極限に至ります。それは、自分としていた要素が消滅し、それに対峙する世界も消滅した状態です。悟りに至る瞑想は、極限の認識を模倣するようなものです。
縁起縁滅の法は、波の性質の方程式で相反する要素と重なり合って潜在し無の状態をとります。
この状態が照見五蘊皆空です。五蘊が全て空になる事態を知ることによって、無常、無我、縁起、空、悟りはオカルトではなく事実として存在することを理解しました。
一切が空である状態でも存在するもの、それは観ると自己感です。つまり、観自在が存在します。

空は、全ての要素を構成する無次元の点です。縁起縁滅の法に従って、無次元の点の関係性が展開し世界が存在します。一切が空に滅することによって空を理解しましたが、既にこの世の構成要素が空ということになります。本当に空っぽで実態がないということで諸法無我ですね。

そんな無次元の点には、これ以上説明する言葉を持たない概念である観自在が割り当てられています。不立文字は、物理的事実です。この観自在のみの認識状態は、神と合一したような偉大な自己の視点を感じさせますが、世界を創造する偉大な何者かは存在しません。観自在は、ただの情報です。
偉大な何者かが存在する、偉大な何者かは存在しない、この両極の思考は、相依相関して存在しどちらの思考も独立自存の絶対の真実ではありません。
ここに書かれている内容全てが同じ構造です。

空は、何も存在しないのではなく最高次の概念が存在します。人々が使用している、私が存在し観ているんだという質感は、最高次の概念であり、時空に遍在しここからあそこへと移動するものではないです。
唯一として存在する観自在は、全ての人々に共有されて存在すると見なすことができる構造です。

悟りを知るということより、全ての人が同一人物であるという物理的構造のほうが、私にとっては、より衝撃でした。
時間が存在するという感覚で生きている身として、永遠の孤独を想像して苦しかったです。

この世の全ての人が、観自在菩薩と舎利子でもあります。救う人も救われる人も自分です。爆弾を投下する人も投下される人も自分です。
今、自分と感じている自分が仏陀の人生を生きている。今日すれ違った全ての人々も自分が生きている。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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