私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

不確定性原理の超越と悟り

2024年12月01日 | 意識と悟りの構造

「悟り」とは一体どんな物理状態なのかを書きたいと思います。

 

光は異なる物質の境界面を通過するとき、進む向きが変化して屈折します。ガラスや水は正の屈折率を持ちます。特殊な光学特性を持つメタマテリアルで負の屈折率を持つ素材の作成にも成功しています。しかし、0の屈折率という素材はまだ存在していません。

2022年に米国ハーバード大学の研究で、「光を全く屈折しない素材に入れると、運動量が0になり、存在確率が素材内部に拡散して、どこにあるか全く不明になる」と報告されました。

運動量が0になった光は波長が無限大になり、波長の山と谷が消えてしまいます。(波長がなくなり、振動数が0になります。)

理論上、運動量が0になった光を二重スリット実験に使用すると、光の波長が無限になって干渉縞がなくなってしまうことが示されました。(光の到達するスクリーン前面が明るくなる。)

不確定性原理により、光の運動量が0にほぼ100%確定すると、光の存在位置は、ほぼ無限に広がります。運動量が0になり、波長が無限大になった光は、メタマテリアルの媒体中のどこでも存在確率無限大の状態になります。すると、二重スリット実験の干渉縞が消え、スクリーンのどこにでも光が到達し前面が明るくなります。

 

メタマテリアル中の光は、運動量0、振動数0(山と谷が無限大に引き延ばされた形)になります。

Δp=0 (運動量の曖昧さ0)になります。

1つの光子がスクリーンのどこにでも無限大の確率で到達します。

  Δx=∞ (位置の曖昧さ無限大)

多世界解釈なら、1粒子でも無限のパラレルワールドに存在し、1粒子でも無限の存在になります。

 

人間の意識にも同じことが起きます。それが悟りです。運動量0の光と同じ物理状態になります。

屈折率0は、中道、心を乱さない、執着を捨てる、こだわらない、判断をしない、平等に観る、過去や未来ではなく今ここ、などに通じます。

運動量0は、不動の境地に通じます。

瞑想などを行い心(意識の内容)が静まると、意識は不確定性原理を超越し悟りに至ります。1つの意識でも無限の存在になります。人間を含めた世界が原初の光源に回帰します。

 

意識の不確定性原理の超越は人間に起きるのではなく、人間を含めた世界全体に起きます。人間が自分に宿る意識だと思っていたものは、原初の光源の物理的性質です。これを読んでいる人が、「読んでいる」と確かに自覚できているなら、それが「原初の光源の物理的性質そのもの」です。

「1つの意識でも無限の存在になる」とは、「1つの意識が全ての人生に宿っている状態」ということです。それは、目の前の他者がたった今「自分」と解釈することが可能です。(厳密には、自分が他者でもあるのでは無く、意識が「自分」「他者」を平等に観ています。)

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究極の境地

2024年11月24日 | 意識と悟りの構造

究極の境地とは、「無」「不動」というイメージを持つけれど、「全ての有」「全ての動」でもあります。

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不完全性定理と悟り

2024年11月17日 | 意識と悟りの構造

「チ。-地球の運動について-」

コミックス第1集の冒頭

「硬貨を捧げれば、パンを得られる。」

「税を捧げれば、権利を得られる。」

「労働を捧げれば、報酬を得られる。」

「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる―――?」

異端審問官が、苦悩の梨(拷問器具)を異端者の口に入れ、広がることによって口が裂けているシーンになります。

 

「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる―――?」

このセリフを見たとき、「この世の全てを知る」=全知なら、「この世界の現象全て」を捧げることになると思いました。でも、捧げると言っても「全知」なので、捧げた分何かが欠けるわけではないです。

 

「この世の全てが知りたいだって?それなら人間であることも含めて、この世界の全ての現象を捧げるのさ(`・ω・´)キリッ」

なんて、ちょっと気恥ずかしい感じのセリフが思い浮かびました。

 

もちろん、「この世界」では、不完全性定理により、数学ですら宇宙の全てを完璧に記述できず、数学は思っていたほど万能ではないと証明されました。数学的な論理を突きつめていけば、どんな命題についても真偽の判定ができ、それを延々と積み重ねていけば、いつかは神の真理に辿り着ける・・・わけじゃない・・・。

不完全性定理によって、全知全能で全てのものを含み、かつ矛盾しない存在は存在し得ない・・・神は存在しないことの証明に至ったようです。全知全能ではない、矛盾を持つ神は存在可能らしいですが、私はそんなのは神とは呼べないと思います。

私は、全知全能(以下略)の神は存在可能派です!その神は人型で、罰を与える存在ではありません。そして、全知全能(以下略)の神が存在するということは、宇宙の全てを完璧に表わすことが可能ということです。

その神とは、いつもnoteで書いていることですが【[無/相即/無限]の光】(原初の光)のことです。原初の光は対象作用(この世界の全ての現象を生じる作用)と観照作用(この世界の全ての現象を確かに存在させる作用)を持ちます。宇宙の全てを完璧に記述=万物の理論とは、人間が数式に記述できるものではなく、この原初の光自体が万物の理論そのものになります。根本原理そのものです。

ただ、この世界に完璧で矛盾しない数学、全知全能が存在し得ないのなら、それは何処に存在するのか?

 

「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる―――?」

「この世の全てが知りたいだって?それなら人間であることも含めて、この世界の全ての現象を捧げるのさ(`・ω・´)キリッ」

 

そこでいつも書いている、不確定性原理です!

不確定性原理とは、不確定性関係にある、例えば、位置と運動量において、[位置が確定すると、運動量の曖昧さが無限大に]、[運動量が確定すると、位置の曖昧さが無限大に]なることです。そのため、どちらかが絶対の確定をしないように極小スケールで曖昧にゆらいでいます。物質的な制限、つまり観測するための機器の精度の問題ではなく、物質自体の本質的な性質から生じます(波としての性質、粒子としての性質)。

不確定性原理は、世界が絶対的な確定性によって動いているという古典的な世界観を覆しました。

 

数学的に無矛盾で完璧な状態、全知全能は、不確定性原理を超越した状態に在ります。それは不完全性定理の超越でも在ります。それは、「この世界で」神と呼ぶのに相応しいと思います。

 

不確定性原理の超越とは、絶対不動の確定であり、現象は波の性質により重ね合わさって光になり、現象は滅します。対象作用からの現象が滅すると、観照作用が顕わになり、人間が存在するから存在すると思っていた意識の焦点が、実は、根源的な物理的性質に過ぎないことを観照作用(意識の焦点)それそのものに成ることによって了解します。同時に、それが全知状態に成ります。「この世界で」例えるなら、神の視点の体験です。

 

「不確定性原理と悟り」について、簡易バージョンを書きたいと思っています。

⇓前提が長すぎで、「不確定性原理と悟り」については最後の方に書かれています。

 

不確定性原理と悟り - 私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

こんにちは、領です。「事事無礙法界」とは、中国華厳経の第四の祖、澄観の説だそうです。何だかキラッと光っています(*^-^*)今後ゆっくり調べてみます。今回のブログ記事が...

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アニメ「チ。ー地球の運動についてー」と悟り

2024年11月02日 | 意識と悟りの構造

TVアニメ「チ。-地球の運動について-」を見ています。

異端思想の地動説を命がけで、人から人に繋いでいく話です。

地動説と聞くと、コペルニクス的転回を思います!

コペルニクス的転回の意味は2つあるようです。

1つは「見方や考え方が180度変わることの比喩」

もう1つは、「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」です。

「認識が対象に依存する」:天動説

「対象が認識に依存する」:地動説

と言うことのようです。

中世の「天」と「地」の転回だけでなく、現代では、「人」と「意識」の転回の時代が来るかもしれないし来ないかもしれません。

人間は、人間が意識を所有していると思っています。人間が「主」で意識が「従」の関係です。単純に180度見方を変えると、「意識が人間を所有している」と言う文章になり、主従関係が転回します。しかし、このように単純なイメージではありません。

「人間-意識」という、人間に限定された関係性ではありません。意識は、人間の体表面までだけではなく、世界全体を観ています。意識は、人間専用、人間限定のモノではありません。「人間を含めた世界全体」を「対象」と括ると、「意識は対象を観ている」と言う表現になります。この「観ている」が、存在を確かに存在させます。この「観ている」が無ければこの世界は「無」です。

「意識」を「認識」と表現すると、「対象が存在すると確定することが認識に依存する」と言えます。「対象が認識に依存する」(地動説)に似ていますが、対象と認識は別のモノとして扱いません。

認識と対象(意識と人間を含めた世界全体)は、【[無/相即/∞]の光】(原初の光)の物理的性質であり、一体全体のモノです。自ら対象を生じ、自ら認識します。この文章を読んでいる人が「読めている」と認識できていると自覚できているその性質そのモノが原初の光の物理的性質です。人間専用ではない、この「超越的な認識」そのものを人間は「悟る」ことができます。

意識や認識という言葉を使うとき、意識の内容や認識の内容ではなく、意識の焦点、認識の自覚のことで、純粋意識と表現することもあります。これは、原初の光の物理的性質の1つであり、観照作用、照明作用と表現した方が人間中心の表現ではなく、適切だと思います。ただ、「意識」と表現した方が、人間は理解しやすいと思うので、普段は「意識」を用いる方が使いやすいです。

「人間」と「意識」の主従関係の転回と言う単純なモノではなく、人間を含めた世界全体としての「対象」と「意識」が原初の光源の物理的性質であり、一体全体のモノという、この世界で思考できる最大の転回について書いています。

 

「チ。」のオープニング「怪獣」の歌詞に、「この世界は好都合に未完成」があります。

この歌詞を聴いたときに、好都合=人間中心主義、地球中心説(天動説)=人間中心主義と思いました。

人間は、人間が「意識」を持ち、空間、時間、概念など非常に広範囲を認識することができる「特異で特別な存在、原理原則から逸脱した存在、存在自体が奇跡」と思いがちです。それが人間から見た状態が正解だと感じさせます。

人間を中心に、人間から見て全天が回転しているように見えるため、天動説にこだわってしまったように、人間を中心にしている限りこの世界の実相にたどり着けないと思いました。

歌詞は「だから知りたいんだ」と続きます。

この知りたいという衝動は、人が「全知」に向かって展開している姿を思いました。「知りたいという衝動」「完璧なモノを求めてしまう衝動」、これは、物理的必然です。

全知で、対象とされる「人間と世界」の循環・振動が重ね合わさり、原初の光源そのものに至ります。(「至る」と書くと時間が経過して「至る」と感じますが、全ての状態は「今」存在、「今」共存するイメージです。人間中心で見ると時間が存在します。)

「全知」は、円相の完成、智慧の完成と表現できます。

「全知」に至るためには、「全知」の一歩手前は、「人間のような知的生命体」がこの世界に登場するのは、必然で、原則に従っていると思います。「人間のような知的生命体」は、自己を観察する能力が圧倒的に高いです。「私とは何か?」「意識とは何か?」「神とは何か?」「完全とは何か?」と問うことができます。これは驚異的なことではなく、物理的必然です。

 

そして、この「超越的な認識」(純粋意識)は、【遍在/相即/唯一】であり、全ての対象は、唯一のモノが「観ている」構造になり、人間に適応すると、「全ての人は同一人物」と見なすことが可能です。私の「感受・想像・行為・意識・見る・聞く・嗅ぐ・身体感覚・心」も、あなたの「感受・想像・行為・意識・見る・聞く・嗅ぐ・身体感覚・心」も唯一の「超越的な認識」が「観て」(観照作用)います。よっぽど追い詰められていなければ、これを了解していて拷問はできないと思います。「チ。」では、最初に「苦悩の梨」という拷問器具で、拷問するシーンから始まります。

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マクロな量子現象と悟り

2024年10月24日 | 意識と悟りの構造

ミクロな量子現象と言えば、「状態の重ね合わせ」です。

電子を箱の中に入れて蓋をして仕切り板を入れると、両方に50%の確率で存在し、観察するまでは確定しません。どちらかに入っているのに分からないのではなく、どちらにも50%の確率で存在します。

実験でベルの不等式の破れが確認されて、物理的に実際に、観察するまでは量子状態が保たれて、確定していないことがわかりました。

電子のスピンの上下の状態の重ね合わせも良く知られています。この量子もつれ状態の2つの電子は、一方が観察されるまで、スピンの向きはどちらにも確定しません。

二重スリット実験では、光子、電子だけでなく炭素60個がサッカーボールのように結合したフラーレンも干渉縞を示し、同時に両方のスリットを通り同時並列的な波として存在します。

原子中の電子は惑星のように原子核の周りを回っているのではなく、1つの電子が雲のように確率の波として広がって存在します。

 

最近では、目に見えるスケールで、状態の重ね合わせが確認されています。

40㎏の鏡や電流の向き、サファイヤ結晶(見えるけどゴマより小さい・分子1京個)など目視可能なサイズで、状態の重ね合わせが確認されています。

 

シュレディンガーの猫という思考実験は量子論が誤っていることを証明しようとしたものだったけれど、量子論が正しいという実験が多数続出し、量子論を受け入れざるを得なくなりました。

実際に、ミクロな領域で状態の重ね合わせが起きていることは、今の時代の世界観の常識だと思いますが、マクロな領域の猫でも観察前は、生きている猫と死んでいる猫が重ね合わせ状態にあるのでしょうか?ミクロとマクロの境目はあるのでしょうか?ミクロとマクロの境目の違いは、量子力学の領域と古典力学の領域の境目のことです。それとも、境目などなくて、古典力学の領域の人間が見ているサイズで状態の重ねあわせは起きているのかということです。「人間が見る」ことが世界を確定させているのかということです。

常識的に、シュレディンガーの猫は、放射線観測装置が検知する前の段階の原子(原子核の崩壊/非崩壊が50%50%)が重ね合わせ状態だと考えます。でも、そこで明確にミクロとマクロに境目があるのでしょうか?猫自身の観察前の「原子-放射線観測装置」の系全体は重ね合わせ状態になっている可能性は?「シュレディンガーの猫実験系」の外側にいる人間が、猫の生死を観察する前は、生きていると猫と死んでいる猫は重ね合わせ状態なのでしょうか?

この人を第一観察者とすると、「シュレディンガーの猫実験系-第1観察者」という系を第2観察者が観察する前は重ね合わせ状態なのでしょうか?第3観察者→第4観察者→第5観察者→第∞観察者=神?

 

6光子によるウィグナーの友人拡張実験(2019,ヘリオット・ワット大学)について考えます。測定1(第1観察者)と測定2(第2観察者)の、光子の振動状態(垂直-水平)に食い違いが生じる結果が出ました(多分ほんの少し)。また、「シュレディンガーの猫実験系-第1観察者」の系が、第2観察者にとって重ね合わせ状態にあると示唆されました。これは、第1観察者と第2観察者の現実が食い違うということです。絶対の現実が存在しないということです。

 

『上田と女が吠える夜 夏休み特別企画!怖い話で涼む夜』という番組の回で、ある女優さんが、2時間ドラマの撮影現場での不思議な話をしていました。「バカヤロー」というセリフが「ふざけんな」と聞こえたスタッフがいて、演者は「バカヤロー」と言った、監督は「バカヤロー」と聞こえたといい、意見が分かれたので、他の演者やスタッフを呼んでリプレイを鑑賞したところ、「そこにいる人も半々、一文字も合っていないのに」と意見が真っ二つに分かれました。他にも「手が全く違うね」が「足が全く違うね」と聞こえたり、不思議な現象が多発したようです。オンエアを楽しみにしていたようですがお蔵入りになり、「誰も覚えてない頃にオンエアになった。実際は台本通りだった。」と振り返っていました。

この話を聞いたとき、『6光子によるウィグナーの友人拡張実験』を思い出しました。

あと、「誰も覚えていない頃に」というのが重要だと思いました。

「誰も覚えてない頃にオンエア」という未来だったからこそ、この現象は起きたと思います。「2重スリット実験拡張版」で「観察(経路の測定)」を行わずに、ハーフミラーを使用し経路の判明と不明によって「波としての振る舞い/粒子としての振る舞い」が決まることを思い出しました。曖昧なコトは量子的な現象が発見されやすいと思いました。明確にできないことは重ね合わせで事足りる。確定してこの世界は存在していると思わせるだけで十分。そもそも、状態の重ね合わせにミクロとマクロの境目は存在しない。一人一人の現実が重ね合わせ状態で、一人一人にとっての現実が常に1つ確定している。今回のドラマの現象は、ギリギリ「現実って何?」と気がつく量子的な現象だったと思いました。この世界が1つの絶対的、客観的な現実として存在するという常識的な世界観に対するバグみたいなものだと思いました。(厳密にはバグではなくて、万物の理論に従っています。)

 

「一人一人の現実が重ね合わせ状態」、これは意外と、一寸先は「悟り」の物理状態に至ることを示唆しています。その物理状態とは、「全ての重ね合わせ状態(全知)」です。人は、意外と簡単に「悟り」の物理状態に至ってしまうので、思考や物に執着するように展開し、基本的に「悟らないように」なっていると思います。

 

「2重スリット実験拡張版」で、「観察」を用いていないのに、波としての振る舞い、粒子としての振る舞いが存在するのか?「人間の観察」の本質とは何なのか?「第∞観察者=神」と「人間の観察」との関係は?

 

シンプルに書くと、「人間の観察」は仮面のようなもので、「人間の観察」という質感を含めて「第∞観察者=神」が観察している。「人間の観察」世界を確定する特別な能力はない。さらに、「第∞観察者=神」にも世界を分岐させる能動的な力はない。全ての量子的状態(重ね合わせ状態・確定状態)が、「今」存在し、その全てを「第∞観察者=神」は観察しているだけです。これが「全知」を可能にします。

「人間が見る」ことが世界を確定させているのか?、この問いは人間を特別視したものになります。

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