私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

読書18 『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』その4

2020年08月13日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』

この本を読んで、浮かんだ思考を書いていきたいと思います。浮かんだ思考なのでこの本の内容そのものではありません。

「煩悩は無限のリソースを有している」この文章から、まだまだ思考してみます。
全知全能の神は、数学的に存在しないということが証明されました。それでも、人間に無限のリソースを有する煩悩を根絶することは可能です。縁起縁滅の法は波の性質の方程式であって、この世の一切が重なり合って潜在し無の状態をとります。これが煩悩の根絶です。
この世のみで無限の煩悩を一挙に手中に収めることはできません。
「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ず、これなければかれなし、これ滅すればかれ滅す」、縁起の法の定式化です。この構造の究極が[全この世]と[反全この世]が重なり合って潜在することです。無限の煩悩を一挙に手中にすることができます。何も存在しない根絶に至ります。
手中にするということは認識するということです。全時空を一度に認識する状態に同等になること、全知の状態に同等になること、その状態は全てが潜在し何も存在しません。煩悩の根絶は、全てが潜在する刹那にしか達成されません。この世に存在しながら、煩悩を根絶することはできません。煩悩の根絶を達成したという記憶は時間内に存在します。そして、煩悩根絶の一点は、全ての存在の煩悩が根絶された状態のことです。

私が厭離の対義語として思うのは、渇愛です。対象への執着する心や嫌悪する心を希求することが渇愛です。対象への執着する心や嫌悪する心を希求することを停止することが厭離です。厭離することは、この世に独立した特別な状態ではなく、渇愛と不可分に存在することを意識したいと思いました。
渇愛を滅して気づきを重ねると涅槃に至る。これが仏教の基本構造です。(このような形を仏教としない考え方もあります)
この本には、「異性とは目も合わせないニートになれ」、普通に表現すると「生殖と労働の否定」と書かれています。この世に対する渇愛を滅するとき、人生の要素が少ない方が適しているからです。
そう考えると、子供時代などは、涅槃に至りやすいと思いました。子供時代は、他者と比較して強く妬んだり見下したりはありません、イケメンが良いとか異性に対する要求もないし、過去も未来もそんなに思い煩うことはありません。渇愛が薄くて、世界の展開も操作できるとはあまり考えません。
私は、基本的に小五ぐらいからの記憶しか残っていないのですが、5歳ぐらいの頃、涅槃とは思っていませんでしたが、涅槃を数回経験したという記憶があります。
ファミコンのコントローラをピンっと引っ張ってしまうと簡単に画面が止まってしまいます。その状態をバグったと言っていました。東北出身の私の師匠に聞いてみたところ、やはりバグったと言っていました。私は関東なのですが、全国的なものかも。
5歳当時、意識が白紙の状態になることを「神様がバグった」「神様も完璧ではないな」と喜んでいました。涅槃という名前をつけると、大それた感じになりますが、神様がバグったぐらいのイメージの方が近いのかもしれません。そう思うのが好きというだけです。

幼い子どもは、渇愛も厭離もなく、ループした思考やイメージを利用したメタ認識ゲームで涅槃に至ることができると思います。
ループした思考というのは、例えば、私の体が存在するその細胞の一つ一つに全宇宙が存在しその宇宙に存在する人間の細胞の一つ一つに全宇宙が存在し・・・、空間の果ての外側の果ての外側の果て・・・、考える自分について考える自分、について考える自分・・・このような感じです。
そう考えると、修行によって渇愛を滅し禅定に入るというのは、とても大変そうだと思います。座禅は何をしているのか気になります。この前、『禅 鈴木大拙』を買ったのですがまだ読めていません。早く読みたいです。
分別を行うものを消失し、渇愛を滅し観察するという行為は、涅槃の状態の模倣です。仮我が消滅し観察そのものになることが涅槃です。意識の起源です。

「この世は、縁起の法則に従って継起するだけの中立的な現象」、この文章で思考したことを書きます。
縁起の法則とは、現代物理学でいうところ万物の理論のことです。この世は、数式に従う決定論で、涅槃に至る人の位置は数式に従って存在します。独立自存の個人の努力で涅槃に至るわけではありません。
渇愛が濃い地点、渇愛が薄い地点、五蘊が盛る地点、五蘊が空に滅する地点は平等で、片方だけでは存在しません。全時空の存在なくして、ある特定の位置に涅槃は起きません。ここに「あ」と入力することも同じ構造です。一切が相依相関して存在するということです。
相依相関して存在するものに独立自存の絶対の真理は用意できません。(ここまでの文章も・・・)
嫌いな人がいるから好きな人もいる、他者を滅する方向のエネルギーと不可分に他者を育む方向のエネルギーが存在する。その両方を持たなければなりません。
苛立つ思考や態度と[不可分に・相依して・縁起して]自分の大切な思考や態度が存在する。自分の好ましい思考や態度も常とすることはできず、振動することは避けられません。振動の振幅を片側に精神と肉体の限界付近まで維持しようとすると危険です。
どのような振幅で生きるかも数式に従います。程よく振動して生きる存在と不可分に、ため込んで壊れる人生も存在します。
そして、この世一切を当事者として経験するのは自分です。目の前の他者は、自分が経験する人生です。

お皿を洗うとき、普通にジャーッと1本で出てくる状態の水が、お茶碗とかフライパンに流れると逆向きの渦が二つできます。水の量を変えたり、流れ落ちる中心点をずらしてみたり「小さい器は渦のスピードが早いな」、などと観察することが好きでした。最近は、シャワータイプで洗っているので観察はできません。
重力とか大気圧とか枠組みによって、存在の形が保たれます。ちゃんと範囲が制限されないと上手く動きません。
「全ての人は同一人物」、この思考も枠組みとして常識になりますように。この思考を器のようにイメージしました。

『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』、この本は読むと意識がすごく明晰になって、いろいろ思考して楽しかったです。


ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書18 『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』その3

2020年08月06日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』

この本の好きな文章を書きます。感想:に私の感想を書きます。

P146 そして、そのような意味での「世界の終わり」を目指す行為、即ち、これまでの実存形式の延長線上にはない場所に、決定的に到達しようという試みが、縁生の現象によって、縁生の現象を対治し続けた先に、完結するとは考えにくい。ローヒサッタが何万キロ移動しても、そこには常に「世界」が形成され続けたように、個々の煩悩を何万回対治しても、相手は実質的に無限のリソースを有している以上、煩悩の流れはその勢いをよわめることはあっても、根絶されるということはないわけである。その流れを最終的に「塞ぐ」ためには、縁生の現象とは全く異なった、何か別のものが必要なのだ。
 アーナンダやシーハーの解脱の報告から推察されるように、このような「世界の終わり」への旅立ち、即ち、渇愛を滅尽する試みの最終的な決着が、無漏の智慧であるところの、無為の涅槃の知覚によって、ある特定の時点で明確にもたらされると考えることには、一定の合理性があると思う。
感想:煩悩が無限のリソースを有している、という表現が面白いです。

P149 苦諦を知って、対象を厭離して渇愛を滅尽するとは、そういうことである。縁生の現象を好ましいと思う気持ちを抑制して、「こんなものはろくでもない」と、必死に自分に言い聞かせなければならないうちは、苦諦を本当の意味で知ったとはまだ言えない。真っ赤に焼けた鉄板に、素手でふれることを当たり前に避けるように、現象が苦であることを心から当然のこととして受け入れた時、はじめてそれを厭い離れ、貪りを離れると言うことが自然に起こる。そしてそのためには、縁生の現象に執着するよりも、ずっと素晴らしいことがあるということを、自分自身の現実の経験として、知らなければならないということだ。
感想:真っ赤に焼けた鉄板に、素手でふれることを当たり前に避けるように、という表現が面白いです。厭離の意味を的確に表現していると思います。

P150 まず一つ言えるのは、涅槃というのは出世間の領域にある無為のものである以上、それを「実体」だとかそうでないとか論じるのは、そもそもカテゴリーエラーの議論だということである。

P177 彼らは利他行の実践のために、場合によっては自分の命も「芻狗」のように捨て去ることを、決して厭いはしないのである。
感想:涅槃を知覚した人は○○なはずである。と、このように決めつけない方が、私は好きです。6歳の頃、初めて『風の谷のナウシカ』を見て、ナウシカに憧れました。人々を守るために自分の命など顧みない姿に、こんなふうに生きたいと思いました。大人になって思うことは、誰もそんなことは期待していないし、むしろ迷惑ですらあるということです。そもそも危機的状況に陥らないことが大切です。
相依性、縁起から考えてみると、解脱者は○○だ。涅槃を知覚した人は○○だ。覚者とは○○だ。と、このような思考が存在するからこそ、それを離れる思考も不可分に存在します。

P199 ミャンマーとタイは、ともに上座部圏に属する国であり、多くの国民がテーラワーダ仏教徒であるが、それぞれの国で実践されている仏教の性質には、やはり微妙な差異がある。そして、中でも顕著な相違であると考えられるのが、その涅槃に対する把握の仕方だ。総じて言えば、ミャンマーの仏教徒たちにとって、涅槃とは本書で述べたような瞑想による無為の領域の知覚のことであり、(中略)タイの仏教徒たちにとって、涅槃という事態はめいそうにおける特定の状態というよりは、むしろ日常において意識がいま・ここへの気づきを保っていて、そこに貪・瞋・痴の煩悩が混入していない状態のこととして、認識されていることがしばしばであるように思われる。
感想:私は、どんな宗教も同じことを言っているように見えます。縁起というものをそれぞれ違う尺度から見ているだけだと思います。逆に、どんな思考も飲み込むのが縁起ということです。

ここからは、この本を読んで、浮かんだ思考を書いていきたいと思います。浮かんだ思考なのでこの本の内容そのものではありません。キレイにまとめて書くことが不得手なので思いつくまま書きます。

涅槃を実体だとかそうではないとか論じるのは、カテゴリーエラーの議論だということについて思ったことです。
この議論について、どんなに言葉を尽くしても、カテゴリーエラーの一覧表の中だということです。←この「カテゴリーエラーの一覧のなかです」という言葉も含まれているので、どんな言葉も独立自存の絶対の真実ではありません。「真実ではありません」という言葉も・・・・・・。
なんだか写真を持っている男の子の写真を男の子が持っていてそれも写真で男の子が持っていて、それも写真で男の子が持っていて・・・っていう面白映像をイメージしました。この世について何を語ろうともいつまでもカテゴリーエラーの一覧表の中に入り続けます。「それは涅槃の実体視です」「それは仏教である必要がありますか?」そのような言葉も独立自存する真実のようには扱えません。
「涅槃が最高の楽である」「涅槃に至らなければならない」これらの言葉も独立自存の真実のようには扱えません。「扱えません」という言葉も・・・。何も語り得ないということも退けた無記が、最適なのかもしれません。カテゴリーエラーの一覧表が消滅する刹那が涅槃です。ただ涅槃も終点ではありません。振動循環するものの一部です。波が干渉したときの高さゼロになる刹那です。
波はゼロに潜在しても独立性を維持し、また波は顕われます。この世は、涅槃もふくめてゴールとか確定などない端っこがないイメージです。そして、より価値のある地点はないと思います。メタ認知の極限が涅槃で、その極限も振動循環の一部です。ということは、解脱という物理的状態は存在し得ないと思います。
メタ認知が低いままに行為し続ける人がいるとき、メタ認識の極限である涅槃に至る人もいる。縁起縁滅の方程式に従って存在し、これらの両極の存在は片方だけでは存在できません。そして、「私」が独存する構造で、渇愛が存在するか、渇愛が滅尽するか、本質的により好ましい状態は存在しません。相違相関する性質のものに優劣真偽は、確定しません。独立自存の真理は存在しません。(独立自存の真理が存在するという思考と相依相関しています)。

カテゴリーエラー、ここでのカテゴリーとは涅槃のことです。よく考えてみると、正確には、全てのカテゴリーにおいてエラーということです。基本的になんでも「無記」ということの意味は、どんな問いに答えようともエラーだからということです。ここのブログに書かれている記事は全て、エラーの一覧表に載っています。「エラーの一覧表に載っています」も載っています。ここまでも載っています。ここまでも載っています。・・・。エラーと言い切ることさえ不可能です。そのような構造を如実知見した方が、話が早いと、仏陀は考えたと思います。

「渇愛を滅尽すると縁起縁滅を如実知見する」と、このように表現すると渇愛を滅尽することが善であるという雰囲気がしてしまいます。逆に、渇愛のおかげで数式に従っているだけの世界が隠されていると考えることもできます(渇愛も数式に従います)。
なんだか、ブラウン運動とか、質量を与える機構に似ていると思いました。渇愛とは、生きているように見える作用を持っている。
この世を厭離するほどではない状態の人は、ポジティブに渇愛を捉えられます。ミミクリーズという番組で、「みずのうた」というものがあります。歌詞に「いきてるみたいみずのかたち」というものがあります。人間も生きているみたいに存在します。涅槃の知覚は、個人という魔法が解ける地点で、ほとんどの人は個人という人生を生きることができている。涅槃を知覚しないということをこのように解釈しても良いと思います。涅槃を知覚しないでいられる。

解脱が不可能な構造であるとき人間らしい範囲で快苦に振動して生きるしかないです。苦しみも存在を維持するのに必要です。
人間らしい範囲に振動するということは、一つの状態や思考に安住できないということです。
人間らしい範囲を超えて、権力を極限まで求める、財力を極限まで求める、美貌の追求、若さの追求、誠実さを極限まで求める、許しの極限までの追求、受容の極限までの追求、絶対に比べない、常に感謝を持つ、絶対に怒らない、絶対に愚痴を言わない、苦しみの消滅の追求、来世のために今こう生きるべき、などなどこんなのはお勧めしません。
好ましい思考や状態の維持などは、やれるとこまでやって、あとは諦めることが吉ですが、そうも行かないのが人生です。
人間らしい範囲を超えて壊れてしまう人が存在し、人間らしい範囲で収まることも存在します。好ましい状態と思考⇔好ましくない状態と思考、この両極に振動することが存在することの条件です。どんなにあらがおうと的確に振動するように世界は展開します。それは、死を挟む場合もあります。この振動の波が重なり合って潜在し無に至る地点が涅槃です。
この世には、とても素敵で感動するような話が存在するように理解を超えた犯罪も不可分に存在します。その全ての当事者が「今、自分が自分と感じている自分」です。

快苦生死楽天厭生、涅槃の覚知、涅槃の実体視、何もかも、平等等価にしてしまう思考を求めていく。全てを包含する概念として縁起を捉える。この世、反この世、相反するものを一度に扱うことによって、根本的な「全てを包含」は可能です。縁起の解に、より重要な優れた解はないです。(←この解も含めて)

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする