こんにちは、領です。
『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』
この本を読んで、浮かんだ思考を書いていきたいと思います。浮かんだ思考なのでこの本の内容そのものではありません。
「煩悩は無限のリソースを有している」この文章から、まだまだ思考してみます。
全知全能の神は、数学的に存在しないということが証明されました。それでも、人間に無限のリソースを有する煩悩を根絶することは可能です。縁起縁滅の法は波の性質の方程式であって、この世の一切が重なり合って潜在し無の状態をとります。これが煩悩の根絶です。
この世のみで無限の煩悩を一挙に手中に収めることはできません。
「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ず、これなければかれなし、これ滅すればかれ滅す」、縁起の法の定式化です。この構造の究極が[全この世]と[反全この世]が重なり合って潜在することです。無限の煩悩を一挙に手中にすることができます。何も存在しない根絶に至ります。
手中にするということは認識するということです。全時空を一度に認識する状態に同等になること、全知の状態に同等になること、その状態は全てが潜在し何も存在しません。煩悩の根絶は、全てが潜在する刹那にしか達成されません。この世に存在しながら、煩悩を根絶することはできません。煩悩の根絶を達成したという記憶は時間内に存在します。そして、煩悩根絶の一点は、全ての存在の煩悩が根絶された状態のことです。
私が厭離の対義語として思うのは、渇愛です。対象への執着する心や嫌悪する心を希求することが渇愛です。対象への執着する心や嫌悪する心を希求することを停止することが厭離です。厭離することは、この世に独立した特別な状態ではなく、渇愛と不可分に存在することを意識したいと思いました。
渇愛を滅して気づきを重ねると涅槃に至る。これが仏教の基本構造です。(このような形を仏教としない考え方もあります)
この本には、「異性とは目も合わせないニートになれ」、普通に表現すると「生殖と労働の否定」と書かれています。この世に対する渇愛を滅するとき、人生の要素が少ない方が適しているからです。
そう考えると、子供時代などは、涅槃に至りやすいと思いました。子供時代は、他者と比較して強く妬んだり見下したりはありません、イケメンが良いとか異性に対する要求もないし、過去も未来もそんなに思い煩うことはありません。渇愛が薄くて、世界の展開も操作できるとはあまり考えません。
私は、基本的に小五ぐらいからの記憶しか残っていないのですが、5歳ぐらいの頃、涅槃とは思っていませんでしたが、涅槃を数回経験したという記憶があります。
ファミコンのコントローラをピンっと引っ張ってしまうと簡単に画面が止まってしまいます。その状態をバグったと言っていました。東北出身の私の師匠に聞いてみたところ、やはりバグったと言っていました。私は関東なのですが、全国的なものかも。
5歳当時、意識が白紙の状態になることを「神様がバグった」「神様も完璧ではないな」と喜んでいました。涅槃という名前をつけると、大それた感じになりますが、神様がバグったぐらいのイメージの方が近いのかもしれません。そう思うのが好きというだけです。
幼い子どもは、渇愛も厭離もなく、ループした思考やイメージを利用したメタ認識ゲームで涅槃に至ることができると思います。
ループした思考というのは、例えば、私の体が存在するその細胞の一つ一つに全宇宙が存在しその宇宙に存在する人間の細胞の一つ一つに全宇宙が存在し・・・、空間の果ての外側の果ての外側の果て・・・、考える自分について考える自分、について考える自分・・・このような感じです。
そう考えると、修行によって渇愛を滅し禅定に入るというのは、とても大変そうだと思います。座禅は何をしているのか気になります。この前、『禅 鈴木大拙』を買ったのですがまだ読めていません。早く読みたいです。
分別を行うものを消失し、渇愛を滅し観察するという行為は、涅槃の状態の模倣です。仮我が消滅し観察そのものになることが涅槃です。意識の起源です。
「この世は、縁起の法則に従って継起するだけの中立的な現象」、この文章で思考したことを書きます。
縁起の法則とは、現代物理学でいうところ万物の理論のことです。この世は、数式に従う決定論で、涅槃に至る人の位置は数式に従って存在します。独立自存の個人の努力で涅槃に至るわけではありません。
渇愛が濃い地点、渇愛が薄い地点、五蘊が盛る地点、五蘊が空に滅する地点は平等で、片方だけでは存在しません。全時空の存在なくして、ある特定の位置に涅槃は起きません。ここに「あ」と入力することも同じ構造です。一切が相依相関して存在するということです。
相依相関して存在するものに独立自存の絶対の真理は用意できません。(ここまでの文章も・・・)
嫌いな人がいるから好きな人もいる、他者を滅する方向のエネルギーと不可分に他者を育む方向のエネルギーが存在する。その両方を持たなければなりません。
苛立つ思考や態度と[不可分に・相依して・縁起して]自分の大切な思考や態度が存在する。自分の好ましい思考や態度も常とすることはできず、振動することは避けられません。振動の振幅を片側に精神と肉体の限界付近まで維持しようとすると危険です。
どのような振幅で生きるかも数式に従います。程よく振動して生きる存在と不可分に、ため込んで壊れる人生も存在します。
そして、この世一切を当事者として経験するのは自分です。目の前の他者は、自分が経験する人生です。
お皿を洗うとき、普通にジャーッと1本で出てくる状態の水が、お茶碗とかフライパンに流れると逆向きの渦が二つできます。水の量を変えたり、流れ落ちる中心点をずらしてみたり「小さい器は渦のスピードが早いな」、などと観察することが好きでした。最近は、シャワータイプで洗っているので観察はできません。
重力とか大気圧とか枠組みによって、存在の形が保たれます。ちゃんと範囲が制限されないと上手く動きません。
「全ての人は同一人物」、この思考も枠組みとして常識になりますように。この思考を器のようにイメージしました。
『仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か 魚川祐司』、この本は読むと意識がすごく明晰になって、いろいろ思考して楽しかったです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます