こんにちは、領です。
また、何だか頭の中はグチャグチャです。
とにかく書いてみようと思います。
全知をまとった「観」から発展し、人のメタ認知の極限で全知をまとった「観」に至り円相が完成する。
「真の自己」という言葉を使うと
「真の自己」から始まって一番可能性を含んだ個別の状態になり、どんどん高次化し「真の自己」に近づいて行くという構造をこの世は持ちます。
なぜ「私」は存在するのか?
「私」はどこから来てどこへ行くのか?
この『私』とは一体何か?
こう問わずにいられないのは、円相しか許されていないからです。
円相に成るのではなくて、円相にしか成らないのです。
智慧の完成から始まって智慧の完成で終わる。
全知をまとった「観」から発展し全知をまとった「観」に至る。
この道しか許されていません。
原初の宇宙、空劫已前、業の関係性の枠が重なり合って潜在し、一切の可能性を含んだ原初の光の状態・・・そこで如実に知るのは独立自存の「観」です。全知をまとった「観」です。そこから宇宙が始まります。
宇宙が誕生し、宇宙の膨張によって温度が下がって自然界の4つの力やクォーク、陽子、中性子、電子が存在を現わします。星ができて、銀河ができて、重い元素もできて、生命が誕生し人にまで進化してきます。
全時空に「観」は偏在し、全ての現象の中心に「観」が不可分に作用します。「観」が現象を「有」と認めます。
人にまで進化し、五蘊の仮我を自己だと思う構造が展開します。自己を俯瞰し理解するという構造です。自己を観察する構造です。これが高次化すると、無常を認知します。思考や感情、行動をただ観察している状態になり、縁起を領解します。個人であること、性別、思考パターンというものに違和感を覚えます。
この「ただ自己を観ている」は、機械のカメラの状態です。「観ている」内容に一切手を加えない状態です。
この「ただ自己を観ている」は、「観」の模倣状態です。
悟りの境地の模倣です。
あとは「ただ自己を観ている」という状態に身を任せる状態が続き、最終的に一瞬にして「観ている」の高次化が極限に達し、自己(五蘊)が潜在し「観」のみの状態に成ります。
そこが空劫已前であって、原初の光の状態です。
この世の展開は、「観」から始まって、どんどん「観」らしくなっていく過程です。
エネルギーから素粒子が生成しむき出しの「観」ではなくなり、「観」そのものの気づきを失います。
「人」が悟るというより、どんどん「観」らしくなっていく過程の終局付近が「人という形」しかあり得ないということです。「自己を観察する」ということが可能な構造です。
なぜ「私」は存在するのか?
「私」はどこから来てどこへ行くのか?
この『私』とは一体何か?
このように問うことができる形が、人間ということです。
「自己を観察する」を高次化できる形が、人間ということです。
「観」に至り円相を完成するには、人という形しか許されません。
「自己究明」する構造を持った形が円相を繋ぎます。
「観」の模倣により、悟りに至るのではなく、悟りに近い地点は「観」の模倣状態に入るということです。
もう一つ思うことは、「始まり→終わり」という向きはないということです。
「人」から逆再生して、原初の宇宙にまで至るのと両方存在するイメージです。それが同じ情報なので1つとして存在します。
人という存在は、奇跡や驚異ではなく必然です。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます