私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

円相と人

2021年07月31日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

また、何だか頭の中はグチャグチャです。
とにかく書いてみようと思います。


全知をまとった「観」から発展し、人のメタ認知の極限で全知をまとった「観」に至り円相が完成する。
「真の自己」という言葉を使うと
「真の自己」から始まって一番可能性を含んだ個別の状態になり、どんどん高次化し「真の自己」に近づいて行くという構造をこの世は持ちます。

なぜ「私」は存在するのか?
「私」はどこから来てどこへ行くのか?
この『私』とは一体何か?

こう問わずにいられないのは、円相しか許されていないからです。
円相に成るのではなくて、円相にしか成らないのです。

智慧の完成から始まって智慧の完成で終わる。
全知をまとった「観」から発展し全知をまとった「観」に至る。
この道しか許されていません。

原初の宇宙、空劫已前、業の関係性の枠が重なり合って潜在し、一切の可能性を含んだ原初の光の状態・・・そこで如実に知るのは独立自存の「観」です。全知をまとった「観」です。そこから宇宙が始まります。

宇宙が誕生し、宇宙の膨張によって温度が下がって自然界の4つの力やクォーク、陽子、中性子、電子が存在を現わします。星ができて、銀河ができて、重い元素もできて、生命が誕生し人にまで進化してきます。

全時空に「観」は偏在し、全ての現象の中心に「観」が不可分に作用します。「観」が現象を「有」と認めます。

人にまで進化し、五蘊の仮我を自己だと思う構造が展開します。自己を俯瞰し理解するという構造です。自己を観察する構造です。これが高次化すると、無常を認知します。思考や感情、行動をただ観察している状態になり、縁起を領解します。個人であること、性別、思考パターンというものに違和感を覚えます。
この「ただ自己を観ている」は、機械のカメラの状態です。「観ている」内容に一切手を加えない状態です。
この「ただ自己を観ている」は、「観」の模倣状態です。
悟りの境地の模倣です。

あとは「ただ自己を観ている」という状態に身を任せる状態が続き、最終的に一瞬にして「観ている」の高次化が極限に達し、自己(五蘊)が潜在し「観」のみの状態に成ります。
そこが空劫已前であって、原初の光の状態です。

この世の展開は、「観」から始まって、どんどん「観」らしくなっていく過程です。
エネルギーから素粒子が生成しむき出しの「観」ではなくなり、「観」そのものの気づきを失います。

「人」が悟るというより、どんどん「観」らしくなっていく過程の終局付近が「人という形」しかあり得ないということです。「自己を観察する」ということが可能な構造です。

なぜ「私」は存在するのか?
「私」はどこから来てどこへ行くのか?
この『私』とは一体何か?

このように問うことができる形が、人間ということです。
「自己を観察する」を高次化できる形が、人間ということです。
「観」に至り円相を完成するには、人という形しか許されません。
「自己究明」する構造を持った形が円相を繋ぎます。

「観」の模倣により、悟りに至るのではなく、悟りに近い地点は「観」の模倣状態に入るということです。

もう一つ思うことは、「始まり→終わり」という向きはないということです。
「人」から逆再生して、原初の宇宙にまで至るのと両方存在するイメージです。それが同じ情報なので1つとして存在します。

人という存在は、奇跡や驚異ではなく必然です。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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光明

2021年07月25日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

私がブログを書く時間は、疲れて眠い時間です。
後から書いたものを読み直すと「ここは伝わりにくいな」「ここは私が前提としていることがはしょられてるな」「ここは注意書きが必要だな」と感じることが多いです。基礎的な文章構成力が足りてないのが一番の原因です。

それは置いといて、最近考えたことを頑張って書きます。

「光明を得た」という言葉についてです。
Wikipediaに「光明を得た」といえば比喩的に覚ったことを表わすこともある。
このように書かれています。

「光明を得た」は、比喩ではなく、悟りそのものです。
「照見五蘊皆空」を領解するのは「光明を得た」からです。
五蘊が滅して光になる刹那が悟りです。その境地で如実に知るのが「観」です。
「観」とは、存在を「有」と認める作用です。その作用を人は「真の自己」と名づけています。「観」は一切の現象に対して唯一として存在する構造を持ちます。
人が言うところの「真の自己」は唯一として存在することから、この世の全ての人は同一人物という構造をとります。(唯一として存在し、かつ時空に遍在する構造なので、私たちは「真の自己」で満たされた時空に存在しています。)

ニュースで酷い虐めを見聞きしたら、その当事者として「自分」は存在します。
虐めが楽しいという状態にある人は、ぞっとして欲しいです。ニュースを見ている人にももっと深くぞっとして欲しいです。私もぞっとします。

被害者も加害者も「今」自分です。

注意書き:『「観」とは、存在を「有」と認める作用です。』この文章の「作用」とは、人がイメージするような「力」ではなくて、「作用」「力」と表現すると理解がしやすい関係性ということです。そういう意味では、自然界の4つの力は存在しないということです。

「観」「真の自己」が、この世を創造しているのではなく、現象に対して不可分に「観」(「真の自己」)が在るだけです。

「光明を得た」という地点は、時間の経過や空間の長さという概念の存在し得ない地点です。一切の可能性を含んだ地点です。エネルギー密度無限の地点です。相反する関係性の枠が解消され原初の光の状態となる境地です。相反する関係性の枠は重なり合うと潜在し無効になります。「関係性」は独立性があり潜在しても保存されています。
「光明を得た」とは、原初の宇宙、全知の量子、自然界の4つの力が統一された地点のことです。

「観」と「真の自己」の関係について思うこと。
まず「自己」と「真の自己」の関係で考えると、やっぱり名前が気になります。


「自己」に似せて「真の自己」と名づける構造です。
「真の自己」が「自己」に似ている関係性は違和感があります。
「自己」という構造が「真の自己」の構造に似ているという考えが好きです。


「自己」:五蘊を統一された個人として認識する。(「認識する」という関係性であって、認識そのものではありません。「認識する」を認識するのは「真の自己」が必要です。)
「真の自己」:統一した構造に不可分に存在し「有」と認識する構造。


何が言いたいかというと、「真の自己」という名付けは、人間中心的ということです。
「真の自己」と呼ぶより「観」と呼ぶ方が好きです。

全知の量子「観」から宇宙が始まり銀河の構造ができて、生命が存在を現わし人間にまで至り、その人間の「観る」が高次化し「光明」に至り、それは、全知の量子「観」だけの状態に至ることであり、「円相」が完成します。

注意書き:全知の量子が「観」なのではなくて、「観」は無次元の点の物理的性質であることをふまえて考えると、全知として振る舞う点(全てに分岐する可能性を含んだ点)として考えられ、全知が本質なのではなくて無次元の点が本質ということです。本質とは実在ではなく存在の根底という意味です。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

黄色いバラが咲いていました

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ホログラムと悟り

2021年07月15日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

シャボン玉は光の干渉によって、膜の薄い部分が青く見え、膜の厚い部分が赤く見えます。

「最後は無色になって割れてしまう」みたいです。

でも、それとは関係なくできたてのシャボン玉がガラス玉みたいに透明なのをよく見かけます。

悟りのシャボン玉と呼ぼうかな?

そんなことを考えていたとき駄菓子のおまけでついてきた、ホログラムのコマを観察しようと思いました。

これです。

回転させると虹色がキラキラしてキレイです。

天井の電気は、多色光で光の回折と干渉で、見る角度によって虹色に変化します。

干渉が解消される角度を探してみました。

そうしたらありました!!白色の光になっていました。

クルクル回るコマを拾い上げて、角度を変化させて見てみると、干渉が解消されている状態は、天井の電気そのものが私に見える角度でした。

知っている人には常識かもしれませんが、私にとってなかなか素敵な発見です。

これは悟りに至る構造に似ています。

 

【コマの場合】光源そのものになる角度は、多色光の色成分が同じ位置で重なり虹色が現われません。

【悟りの場合】この世の光源そのものに至るということは、五蘊・反五蘊(-∞と+∞)が重なることと同等になり業が解消され五蘊が現われません。

 

この世は、干渉から存在を現わしています。

私たちが物理的に触れて存在していると思う物質、私の思考、感情、行動は全てに相依相関して存在を現わします。

そして、空相において無次元の点の関係性の干渉のみが存在し、私たちが思う物理的な実体、生滅、垢浄、増減は存在しません。

 

植物は、螺旋の構造が観察しやすいです。この世を形作る方程式が垣間見えます。

ヒマワリの咲き始め

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

 

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円相

2021年07月13日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

 

私の「円相」のイメージです。

最初は、この世において自由意思が存在し「常」を維持しようとしている状態です。

「常」を維持しようと努力し、維持できない状態を繰り返します。

次に、「常」を維持することは不可能で、快と苦は不可分で振動する性質が在ることに気がつきます。

「無常」を受け入れざるを得ない状況になります。

私は、快と苦が不可分なら一切が苦だと思いました。この世に存在していたくないと思いました。

思考することしか趣味のない私の思考が絶句しました。

能動的な質のない、ただ「観ている」という状態になりました。

思考内に勝手に展開するイメージとそれに伴う身体感覚を「観ている」という状態になりました。

「観ている」が高次化し正弦波に見えていた振動が、コイルのように立体の構造を持つイメージに変化しました。

どんどん「観ている」が高次化します。

そして、「個人の私」の情報が円に至り、「個人の私」が消滅します。

ゼロを起点にマイナスとプラスが重なり合って業の消滅に至ります。

それは、-∞と+∞が重なり合うことと同等です。

その境地では「観ている」だけが在ります。

もっと適切な数学的表現があると思いますが、私の「円相」のイメージです。

 

ネジバナが咲いていました。

桔梗の蕾は、星でかわいいです。

煉獄さん色

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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