こんにちは、領です。
プラトン立体を描いてみました。正多角形のみで作られている正多面体です。
正四面体、正八面体、正六面体までは描きましたが、正十二面体、正二十面体は描くのはしんどいのでなしです。
正六面体は、ネッカーの立方体としても見かけます。錯視の立方体です。
平面図形でありながら、三次元的に立体的に見ることができます。
立体の奥と手前が入れ替わります。反転図形です。
私は、じっと見ていると二秒くらいで立体が入れ替わり、どちらか一方を見続けることができません。(正六面体はシンプルなので直ぐに入れ替わるのかも。)
両方の立体を同時に見ようとしてみました。そうしたら、立体としての意味を失い平面の模様に見えました。
平面で表わされた立方体を実際の立方体の格子として回転させてみます。
その立方体を回転させると時計回り、反時計回りの両方を見ることができます。
同じものなのに反転すると見え方がガタッと変わって面白いです。
(時計回り・反時計回り、両方に見えるって回ってるの?よく考えると平面の関係性だけで両方に回転してるように見えるのはすごい)
回転させると、最初に時計回りと思ってしまうと反転させて見ることがちょっと難しかったです。目をつぶって改めて見るとかしないと難しいです。
(似たものにシルエット錯視があります)
↓ここにネッカーの立方体の回転の動画があります。
北岡明佳の錯視のページ
<だまし絵>
多義図形・反転図形 6
ネッカーの立方体に、縁起縁滅の法の性質のヒント、『人』という形で展開する五蘊の関係性のヒントがあります。
「人命人権自由の尊重」
「人命人権自由の破壊」
この二つは反転図形と同じで、一方に留まることはできないので無常です。
片面だけでは存在を現わすことができません。
両面を同時に同じ位置に存在を現わすことができません。
どちらの面にも振動することが、仮に存在を現わす条件になります。
元は一つのものが両極に分別し、一方に留まらないで振動することで存在を現わすという構造が無我(確固たる実体がない)です。
元の一つの状態は、両極が打ち消し合って潜在し存在を現わさない状態をということになります。
一切の現象が潜在する刹那が、究極の境地です。空です。
この境地で如実に知るのが『観(気づき)』です。
(『観(気づき)』は、霊魂や意識や精神とは違います。)
「諸行無常、諸法無我、空」これらは、縁起縁滅の法の性質です。
五蘊の展開は、縁起縁滅の法に従います。
五蘊が存在を現わす構造と、錯視の立体が入れ替わる構造は同じです。
基本的に表向きは、人命人権自由の尊重が善という空気が前提の社会だと思います。
ただ、人命人権自由の尊重だけを選べないように、必ず的確に世界は展開する構造です。
「なぜ?」と思うようなことでも強引に世界は展開します。
そして「なぜ?」を実現する『人』が社会に配置されます。
尊重と破壊は反転図形と同じで不可分です。
尊重と破壊は反転図形と同じで元は一つの両局面です。
尊重、破壊、尊重、破壊、尊重、破壊・・・と振動します。逆に、破壊だけに留まることも不可能です。
この振動がらせん状に上昇すれば、ジンテーゼとか、パラダイムシフトになります。
一旦、ストレスを受けるような、困惑するような、そのような矛盾の蓄積を通過し新しい価値観が現われます。
善とされる状態に留まることが不可能であり、善とされる状態を単独で享受することが不可能なとき、さらに、善とされる状態に執着するほど破壊への反転作用は厳しくなるとき、これが一切皆苦だと思います。
人は、状況や考え方で分断されると、程度の差はありますが互いに攻撃的になったり、排他的になったり、干渉を避けたりします。
ふと思うことは、パウリの排他律です。
パウリの排他原理メモ:原子中に同じ状態の電子は存在しないことを表している。一つの軌道に電子は上向きのスピンを持ったものと下向きのスピンを持ったのがあるため、それぞれの軌道で2つしか入ることは許されない。
数学的に、電子が同じ軌道に2つ入るとその波動関数は消えてしまうので、電子は同じ軌道に2つ入ってはいけないということです。
ある関係性を持った状況や考え方それに伴う思考や感情行動は、重なると消える相補的なものという関係があると考えられます。
なぜ、反発し合うのか?ということを実相から観て考えることができます。
『人』がゼロイチ思考に陥りがちなのは、物理的性質によるものです。
「なぜ打った?」「なぜ打たない?」とお互いに相容れない状態。さらにはお互いに「アホ・馬鹿・理解できない、こちらが正義、何があっても自己責任」と罵ったりするのは物理的性質です。
「お互いに干渉しなければいい」も「(ときに攻撃的に)干渉してしまう」と相容れない関係性です。
【考えが違っても、それぞれ立場が違うことを理解して、その上で相手を尊重し共存する】
こういう思考が耐えられないほどの現象が起きます。
元は一つのものが分別し二つの側面をもち、その両極に振動するので、『人』の心の動きはあべこべで矛盾するものになります。
一人の個人の心に矛盾が生じるとき、自分の心の闇とか、拒否したい感情があるとか、言ってることとやっていることが違うとか、何らかの出来事や何らかの影響で心持ちが変化するとか、(私の場合ですが)「しょうがない」というところに着地します。
(かたくなに矛盾や変化を拒むと心身ともに病みます。)
『人』対『人』だと「しょうがない」に着地しづらくて、排他的になりやすい気がします。自分の外側の思考に対しては厳しくなりがち?対立が目立ちやすいです。
『人』対『人』の矛盾や対立は、いろいろな状態が数式に従って存在します。
『人』の心の動きは、数式に従うだけです。
『人』の心の動きは、水に浮かべた花粉がフラフラ動くブラウン運動と同じです。響き合う模様のようなものです。
そこに確固たる自由意思を持った『人』がいると思うことを一旦やめてみると冷静になれるかもしれません。
自由意思を持った『人』というのは、錯覚・幻想・迷妄・顛倒夢想です。
『人』は、自立性を持って自由に存在していません。
意識は、自立性を持って自由に単独で実体をもって存在しません。
【『人』を表わす五蘊は、決定論で存在し。強制で自動です。】
【『人』が錯覚という構造】
これらの思考は、耳障りだと思います。
【『人』は、悟れば自由自在になり、好きなように生きることできる】
【『人』は、悟れば物理法則を超越した奇跡や幸運を実現することができる】
【『人』は、悟れば安心立命に常住できる】
【人の霊性が進化すれば愛と平和を実現できる】
これらの思考は心地がいいものですが不可能です。
「実相から観て考える」について思うこと。
「安心立命な生き方」を常として保つための絶対の真理や正解はたどり着けない。実相から観て、不可能です。
実相の理解は、より良い生き方を模索することに使えません。
「なぜ、このようにしか生きられないのか?」の理解に使える。
それでも、その理解が、許しや慈悲だけを呼び覚ますことは不可能です。
それ自体が実相により理解できます。
一番表層的な物の見方は、自分の外部にいる神様により世界が創られているという世界観です。
次に、人が見たままで直感に従う、古典物理学の世界観です。
次に、人の見たままの直感に反する、量子力学の世界観です。
仏教では、独立自存の実体は無い、この世は錯覚である。遠離一切顛倒夢想と説きます。
『私・意識・主観』というものが錯覚ということです。
量子力学や仏教は、実相を理解するためのものです。
「なぜ?どうして?」と問うとき、実相の理解が必要だと思いました。(私個人の思いです)
【『人』は、社会全体・地球規模の危機的状況に陥ると、本性を表わします】
と結構言われます。これは、量子的な存在の仕方の輪中がより明確になっているだけだと考えられます。
さらには、その危機的状況が起きるように世界は的確に展開し、そうなるように人が配置されます。
ふと、愛と平和を永続させている文明は不可能で、上手くいっている宇宙文明は無いと思いました。
科学や仏教の実相理解の究極は、「人々の気づきは唯一として存在するので、全ては自分だという構造になる」ということです。
高温高圧とか極低温とか特殊な触媒などなど、新たな構造の物質を作るときに特殊な状態を用いることがあります。
【人々の気づきは唯一として存在するので、全ては自分だという構造になる】
この思考が触媒として働き、新たな社会構造とかできるかもしれません。
現時点で「全ては自分」は、オカルトです。
科学の土俵で「全てが同一人物と見なす構造」ということの理解が進めばいいのにな(^^)
全ての『人』という形の情報(五蘊)を、唯一の『気づき』が認めることになる。
(気づきを『観』と表わすことが私の好みですが、気づきの方がわかりやすいので気づきと書きます)
「全てが自分」
誰もが、仏陀・アインシュタイン・シュレディンガー・憧れの誰か・妬ましい誰かは、自分の人生として存在します。そもそも全部自分なので、「誰」が存在しません、
『気づき』に満たされた時空を『人』という構造が数式に従って展開します(これは結構表層的な見方ですが、こう見ることができます。)その『気づき』が唯一として存在する構造です。遍在するのに唯一として存在する構造です。
結構大多数の人が、善なる崇高な精神の持ち主と認める人に対して、「すごいな~、自分には無理だ~」と思考すると思いますが、その存在は受容します。
素手で地雷の除去をした、ファーケル大佐のことを思いました。
その反面、集団リンチ・外国の刑務所の性的虐待・無差別殺人などに対して、「何でこんなことが?」と理解を超えた存在のように感じます。
「何で?」を実相から観てみると、
縁起縁滅の法は、両極を存在させる構造だからです。
実際にとてつもない善と認められる人が存在すれば、たやすく信じられないような悪も存在します。(単純に善人悪人に分けられませんが・・・)
基本的にいじめっ子は、反撃しそうにない、誰も助けてくれる人はいなさそうな人を嗅ぎ分けていじめます。
「この状況は、あいつらが原因だ!」という思考が多数に共有されるとき、特定の人種にたいするヘイトクライムを起こしやすくなります。
○○警察、○○差別、暴力、虐待、虐殺、拷問などなど、やってOK、セーフそうなところ、犯罪的行為がうやむやにできるところ、むしろ歓迎されそうなところで表出します。大勢に「やめるんだ!なにしてる!」と横やりが入りにくいところでです。
「全てが自分」という理解が常識になっている状態ではどうでしょうか?
「全てが自分」は、オカルトのまま終わったりして(-_-)
科学を土俵に「全てが自分」という空気はうまれるでしょうか?
それで平和になるかといえば、
【人々の気づきは唯一として存在するので、全ては自分だという構造になる】
この思考自体を捨てさせるような現象も必ず起きます。個人レベルでも世界レベルでも起きます。
ふと思ったこと、
今、自分が自分と感じている自分が「この世の全ての苦痛と快楽を観ることになる」
そこを考えると「過剰な快楽」は、危険なものです。
私は、なんだか苦痛に注目しがちです。私は、苦痛が嫌いです。
ふと思ったこと、
周囲の人の幸せを願う。
愛を持って相手の立場になって考える。
自分の良心に従って生きる。
そうすれば幸福になれる。
こういう思考が、快楽の側にある状態の『人』が存在します。
でも片面のみで存在しません。
こういう思考は、悟りの状態とは関係ありません。
『人』の形を保って、無我、空には到達しません。無我、空という時空の超越は『人』という形も超越します。こういう思考も超越します。
『人』の超越は、万物の理論の超越ではありません。万物の理論で理解できます。
悟っても、心地のよい思考には留まることはできません。
悟った『人』であっても、縁起縁滅の法(万物の理論)のシステムの外側に存在することはできません。
【人間万事塞翁が馬】
この諺は、物理的事実・・・というより、実相的事実です。
人命人権自由の尊重□□人命人権自由の破壊
神はいる□□神はいない
絶対時間・絶対空間□□時間と空間は観察者の立場によって変わる
悟りという現象はない□□悟りという現象はある
悟って安心立命□□悟っても安心立命はない
自由意思はある□□自由意思はない
五蘊はコントロールできる□□五蘊はコントロールできない
正しい□□正しくない
実体がある□□実体がない
これらの思考は、反転図形と同じ構造です。
縁起して存在を現わす思考に、真に独立自存の絶対的で客観的な現実をとらえた思考は不可能です。思考という現象は、単独で自立した実体を持ちません。
実相において、分別した思考の優劣真偽善悪は適応できません。
例えば、
【悟りという現象はない□□悟りという現象はある】
この思考の片側が本気で深く思考するほど、両極の思考の輪中がよりはっきりします。
どっちがより真理かどうか、絶対の判断は存在することができません。
【悟りは存在しない】という思考が存在しないと【悟りは存在する】という思考は存在しません。
ここまで書いてきたこと全てが、絶対的な思考ではありません。(ここのブログの全て)
いろいろグチャグチャと書きましたが、
『人』と『気づき』を数学的に理解するためのいろいろメモです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます