こんにちは、領です。
明鏡止水という四字熟語って響きが綺麗です。お正月の書き初めで、何か四字熟語を書きなさいと言われたら候補に挙げます!
この言葉を軸に、悟りについて思いつくまま考察したいと思います。
まずは、造波装置について考えます。海洋技術安全研究所にあり、直径13.6mの円形の水槽で、128機の造波装置を全周に設置していています。テレビで見たのは、凹凸凹凸とチャプチャプする碁盤の目のような波と、中心点に水の玉がピューンと上がる波も印象的でした。他の番組では、一瞬だけかなりハッキリしたロゴマークが水面に形成されているのを見かけました。
HPには、同時に多数の一点集中波を作ることにより、任意の文字や模様を作りだし、波を自在にコントロールすると書いてありました。時間逆転による造波信号、造波装置でもあり消波装置でもある・・・などなど興味深い言葉を見つけました。
造波装置によって水面に波が存在している状態を五蘊が展開していることとします。その波に対して振幅を逆転させた波を干渉することによって一見、何も波が存在していない凪の状態を作り出します。そこが悟りです。まさに明鏡止水の境地です。
ここまで書き進めると、造波装置と悟りの違いについて思い至ります。
水面は凪とはいえ、水分子が動き回っています。悟りの境地は、全ての振動がやみ関係性が解消されて不動です。
凪の状態の水面は、造波信号が出されている間、凪の状態を維持します。悟りという、存在がゼロの状態は、時空の幅を持っていません。
悟りの状態とは、無次元の点と同じです。私は、無次元の点を空としています。
万物の方程式に従って、無次元の点の関係性が展開します。無次元の点の関係性によりこの世が存在します。無次元の点の三次元パターンが物質としての存在になります。形成されたパターンとパターンが反発する関係なら、そこに触れるものが存在することになります。この世は、無次元の点が隙間無く敷き詰められた盤上で関係性だけが展開します。
存在するものに対し、時空に超越者たる神の手を突っ込んで、ここの時空から別の時空に動かすことは出来ません。掴める物理的実態が存在しません。存在は、時空のその位置の状態でしかありません。パソコン画面上のリンゴを眺めている人が手を突っ込んで別のパソコン画面に移動することはできないことと同じです。
方程式は波の性質で展開するので、存在する全てが重なり合って無に潜在する位置があります。時空の関係性が寂滅した状態です。振動がゼロです。無限の時空の広がり全てが同じ状態であり無次元の点と同等です。
唯一の無次元の点により、コピペで無限の広がりを再現できると考えるとわかりやすいです。つまり、無次元の点と万物の方程式があれば全時空は存在し、そこを五蘊が展開します。
零点振動により不可能ですが、仮に、原子の振動が完全に止まると、存在が消えると思います。
瞑想には、存在が重なり合って無に潜在する状態のものと、限りなく振動をゼロに近づける状態のものとあって、悟りに対する解釈が不明瞭になるのかもしれません。
縁起とは万物の方程式のことで、波の性質を持ち生成消滅を繰り返します。この性質が諸行無常、諸法無我です。独立自存の物理的実態を持つと考えコントロールすることが出来ると考えることが顛倒夢想です。この世の仕組みを理解することによって遠離一切顛倒夢想に至ります。
波の振幅は、±0です。人生の良いこと嫌なことは、時空上に配置されていてわかりにくいけれど、この世は、美味しいカレーとヤバいカレーが、一皿に必ず絶対逃げようがなく盛られているところです。必ず、完食です。人生の引き寄せたいこと拒否したいことは足し合わせてゼロになります。受容的なこと素敵なことだけでこの世を終わらせることは出来ない構造になります。私は、これにより一切皆苦だと納得しました。人生の引き寄せたいことにセットし続ける努力をするときに「言語」なんて役立たずです。「言語」を握りつぶして床にたたきつけます。「言語」は日常の範囲でしか使い物になりません。結局、言語に頼って、悟りとは何かを説明してますが・・・。
造波装置で考えると明確です。波を自在にコントロールすると言われますが、波としてだけです。凸だけのものは作れません。波としての形を保つように良いこと悪いことが起きます。「それなら、何もしない」という人生と「それでも、やるだけのことはやる」という人生は、どちらも存在すると思います。どちらも自分です。
あまり根を詰めて「より良く生きる」ための方法を思考し実践するのは危険です。↗↗↗と、このように快の状態を維持しようとすると波の振幅を押さえるように世界が展開されます。波として意味のある形の範囲に留まるように作用します。快として行くところまで行くと存在が消えます。つまり、死ぬか病気になります。存在を維持するために悪いことも起きなければなりません。「より良く生きる」という方法を徹底的に実践すれば、無常はすぐに見知できます。
私は、袈裟を着た人が、心はコントロールすることが出来る、より良く生きることが出来る、この世をよくすることが出来ると語るのを見ると、頭がガーンとします。
仏教とは、この世というものが、どうにもコントロールでいない無常であることに気付き、それは苦であり、その苦を根本から滅する方法を説いているのだと思います。
仏教を軸に、この世はコントロール出来る、この世はコントロール出来ないと相反する思考が存在します。どちらも存在しなければ存在できません。片方の思考が深ければ深いほど、相反する思考も深く存在します。そもそも、この世のどの思考も欠くことは出来ません。どの思考においても優劣真偽は確定しません。独立自存の真理は存在しません。「独立自存の真理が存在する」という思考も同じ構造です。
今まで出会った人々によって、自分の考え方が作られていくということではありません。全時空、相依相関していて、何をどう思考するかは、閾値のやりとりのようなものです。数式に従ったものです。自由意志は存在しません。能動的にこの世を創造する独立自存の究極の存在はいません。
さらに、無次元の点と全時空が一体ということに説明を加えます。
電子雲の情報一つで、この世の電子をコピペで使える構造があげられます。正確にはコピペではなく情報の不可分の共有のようなイメージです。
人の思考も同じで、抽象度の高い概念ほど共有されている構造です。最上位の抽象度の思考が「観自在」です。「観自在」とは、「私は存在し観ている」という志向性のことで、簡単にすると、「今、自分が感じている自分」のことです。「観自在」は、全ての人が唯一のものを共有いています。
一番シンプルな無次元の点に、これ以上説明する言葉を持たない、「観自在」という概念が割り当てられています。
「観自在」という概念は、「これ以上説明する言葉を持たない」という説明も嫌う概念です・・・と、この突っ込みも嫌う概念・・・永遠に突っ込み入ります。
唯一独存の「観自在」という情報は、無次元の点に割り当てられているため、時空に遍在することになります。「私」という主観はここからそこへと移動するものではありません。諸行無常のこの世において唯一、常なる不生不滅の情報です。
ここで、注意することは、「観自在」は不可分に存在の中心に存在する情報ということです。唯一の超越者ではありません。大日如来でも絶対の神でもありません。
「認識が存在を生成する」「あなたが世界を創造する」「観察によって世界は分岐する」などの表現は、生きている私たちの思考に過ぎないということです。ただただ、方程式に従って、この世は存在しているだけです。ここに書かれている全ては、独立自存の真理ではないことに注意です。
水槽の水面を二次元の膜として考え直すと、全ての地点で高さゼロの時、一点さえ存在すれば高さゼロの膜が再現できる・・・ということがこの世の構造です。
この水面全体が「観自在」です。例えば、水面に、二人の人間の形を作るように干渉させます。言い換えると、二次元の膜に二人分の五蘊を展開するということです。膜で五蘊が展開するとき、誰かの五蘊というものはなくて、全て自分が当事者として直面する五蘊になる構造です。
つまり、嫌いな性格、嫌いな顔、嫌いな髪型、嫌いな性別、嫌いな人種、嫌いな宗教などなど,、それらを生きているのは全部、たった今、自分です。最上位の概念の「観自在」という情報の構造上、全ての人は同一人物です。記憶にある様々な事件の加害者被害者は、自分です。この国の国民性が素晴らしい、あの国の国民性は許しがたいなどと思考しても、方程式に従って存在しているだけです。
波で考えると、因果応報はわかりやすいかもしれません。この世は、階層構造なので単純に比較は出来ませんが、物理の波の実験のウェーブマシンと同じです。すだれがたくさんゆらゆらと付いているものです。わけの分からない独立自存の他人ではなく、波として相依相関している構造がわかりやすいです。ウェーブマシンの両側に人を配置して波を起こせば単純に入れ替わります。
今、自分の目の前にいる相手の状態になるまで五蘊は、展開します。もちろん「死」も挟みます。自分が相手で相手が自分です。究極の因果応報です。未来に、目の前の他者になるということは?時間は、経過するものではないということです。より情報としてエントロピーが低いものが過去としてまとめられるイメージです。同じ情報は一つとして存在するという見方も出来るので、単純に、目の前の相手は、自分となります。
そのような構造なので、自分さえ綺麗な水が飲めれば問題ないということにはなりません。
それでも、「よしわかった、全世界に綺麗な水を届けよう」ということは難しいです。波の性質は、凹凸±0で存在します。この世に対して受け入れられることだけをするとか、恩恵だけをもたらすとか、救済だけを与えるということは出来ません。
全てが潜在し、「観自在(普遍的自己)」のみの状態に至ることは、観ることの極限で、普段の観るという行為と地続きです。
個人的自己→超越→普遍的自己、とすると誤解が大きいです。
個人(普遍的自己)→個という五蘊の消滅→普遍的自己、これが、如実知自心です。照見五蘊皆空です。むき出しの自己感の体験的把握です。悟っても悟っていなくても、既に、普段から全ての存在が「観自在」を使用しています。
悟りは個人という魔法が解けた状態です。普遍的自己のことを仏と名付けています。この世の人、全員が、たった今、この唯一の「仏」を共有しています。
全てが潜在するということは、相反する全てを認識している全知の状態です。「この世」だけでなく「反この世」も認識している状態です。一個人の観察が、陰と陽の真ん中に来るとき、この世は無に潜在します。この地点は全知と同じ情報になります。
この世が無に潜在し直接、観自在を悟ることが悟りです。
「全知」以上の認識は存在しないと思うのでこの境地が悟りだと分かります。全知は、一つ二つと数えられません。私の悟り、あの人の悟りというものはなく、唯一の境地に至ります。
こんな風に語ると、独立自存の思考で断定しているようですが、数式に従って存在している思考です。絶対の真理ではありません。
全知の認識という思考に対し、受容的か拒否的かは数式に従います。
悟りというものを超越的なこととして、無常に反するから認められないという思考は、ゼロや無限を嫌う思考と同じ構造です。
ゼロや無限を、深く思考し拒否する思考と、ゼロを数字として使いこなす思考はどちらも欠けることが出来ません。
量子力学も深く思考し拒否する思考は存在しなければ、量子力学を使う思考は存在できないと思います。
仏教という場において、どの思考も欠けるけることは出来ません。
どの思考もこの世の方程式に従って展開するだけです。全て自分が当事者として直面する思考です。
造波装置の水槽からは、水をすくうことが出来ます。この世は、無次元の点の関係性が存在するだけなので、何らかの物理的実体をすくうことは出来ません。
つまり、悟り、涅槃という状態は存在しても解脱は存在しません。どこか別の場所へ行く「個人の私」は存在しません。「観自在」は時空に遍在し、「全ては自分」という構造の時、永遠に消滅し輪廻を外れる個という構造はありません。
このように思考することは、「解脱し、二度と生まれ変わらない」と深く思考する存在と強く関係します。優劣真偽は確定しません。どちらの思考も波のように顕われては消えて行くことを繰り返します。
子供の頃の問いです。
太陽に寿命があるらしい、宇宙にだって終わりがあるらしい・・・、なのに何で、必死にいろいろなものを獲得して生きなければならないの?しわしわの老人になって、病気になって、最後は死が待っている世界に、どうして我が子を産むのだろう?今は、小学生で学校という枠に入れられているけれど、老人になれば、枠の外から小学生を眺める。そこまで世界は発展する。自分にも寿命がある。終わりがあるのに、存在する意味はあるのか?
今思えば、ただの典型的な哲学者タイプの人間です。
私なりの答えを書きます。
「私」は、時空に遍在し、特定の個人だけを永遠に滅したりすることが出来ません。涅槃という状態は存在しても、解脱する構造になっていないません。この世は、方程式に従って存在し、存在しうる世界は全て存在します。自殺する世界、自殺未遂の世界、自殺しない世界まで全て存在します。
この世に、心底うんざりしているタイプの存在にとって出口は存在しません。しかし、解脱という出口を探すことはもうしなくて大丈夫です。出口はないからです。
ここで、終わりという地点が存在しません。全てが自分で解脱という思考が意味をなさないとき、今の勝手知ったる、一切皆苦のこの世を生きるしかないということになります。
私の願いは、私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?という問いの答えが一般常識になることです。
悟りがオカルトではなく、科学で思考できるようになって欲しいです。万物の方程式により「私」とは唯一として存在する構造だと導き出して欲しいです。
私自身、より良く生きるために、この世について思考し続けて無常を眼前にたたきつけられ、思考が止まりました。そこに至るまで苦しかったです。より良く生きることを心底、諦めたとき個人の自己が死んで、答えを知りました。
「死ぬ」といっても、波が潜在しまた波が顕われるように、すぐに個人の自己は展開するので、欲や怒りも苦しみも喜びも存在し、普通の人間です。
「悟りとは何か?」「私とは何か?」という問いの答えが、知りたい存在にとって、最初から分かっていたら、絶対その方が良いです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます