私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

円相ゆえに善と悪は等価

2022年01月30日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

人という現象が消滅する地点を「悟り」としています。
人という現象に伴う時空も消滅します。一切が滅するゼロ地点が「悟り」です。

「悟れなかったらどうしよう・・・」という心配は必要ありません。
一切はこのゼロ地点に至る構造だからです。さらに中心点という形で、常に私たちはゼロ地点に接しています。

縁起縁滅の法(万物の理論)に従って避けようがなく物理的にゼロ地点は存在します。悟りに至る人は一定数いて、方程式に従って存在します。

人という現象のゼロ地点は、時空上にいくつも現われますが、唯一として存在する構造となります。このゼロ地点を介して全ては円環状に繋がりを持つ構造です。

円環状の繋がり+善と悪は等価=円相

この式、今書いてて思いつきました(,,>᎑<,,)
これからも何かと伝える言葉が変化するかもしれません。
この式「やっぱり違うな・・・」と思うかもしれないです。
あと、ゼロ地点と言うより電子・陽電子の対消滅でエネルギーになる構造です。
(こんな風にいろいろ考えながら書いています)

人の現象は、円相に従ってしまう。従うしかない。「従う」という動詞ですらなく、そうなる模様です。コーヒーに溶かしたミルクの展開・・・物理に従うという意味の「従う」です。
そこに善も悪もないです。

人間の振るまいに対して善と悪の解釈が、円相の物理に従って現われるだけです。
「自由意思」というものも、ただの現象であって人が想像するような確固とした「自由意思」というものは存在しません。
「自由意思」も円相の物理を超越したものではありません。
「自由意思」があるという思考が展開しているだけです。

引力と斥力に善悪はないです。
N極S極に善悪はないです。
善と悪に円相の物理を超越した善悪はないです。

人という現象が、善と悪の両極によって円形になることは、円形加速器の電子が、N極S極からなる偏向電磁石によって円形に加速することと同じレベルの現象です。(善悪と書きましたが相反する作用のことです。)

人という現象は、円相の物理の操り人形です。
「自由意思」という感覚が付いた人形です。

ある地点で「自由意思」「意識」「人という現象」は、消滅します。

五蘊皆空
五蘊は、色受想行識、「識」(意識)も空に潜在します(消滅)。

引き継がれる個人の「意識」「魂」というものは虚妄の内ということです。

何が言いたいかというと
「人という現象」「善悪」は、円相の物理に従って仮に現われるものでしかないということです。

欠けることのないまん丸の円相です。
「人生プラマイゼロ」と耳にしますが、その人に合った世界・心理の展開が生じる構造です。
「人生プラマイゼロ」を納得するには色々な角度から観ないとわかりにくいです。
身体感覚の快不快は、プラマイゼロです。

快の身体感覚を善、不快の身体感覚を悪(逆の人もいます)としたとき、円相を完成させるように善悪が世界・心理に現われます。
円相の完成が悟りです。

この構造は、善意・愛情が人生に配置されるとき、悪意・嫌悪が配置されることは避けられないということです。
「憎ませてくれてありがとう」「憎んでくれてありがとう」ですらあったりします。
「愛すること」「愛されること」と相依相関しています。
快・善のみを享受することは構造上不可能です。

「自分の良心に従って生きていれば大丈夫」は、「そうすれば自分の思い描く安心だけが得られる」ということは不可能です。

「霊性を無限に進化させる」という一方向に行くことは不可能です。

状態が純粋な人ほどその真逆の人を引き寄せます。誰もが認める善意の人が無残に殺されることもあり得ます。

善と悪が等価で、「善のみが欲しい」「善を善として欲しい」ということが不可能なとき「一切皆苦」だと私は感じます。

この世の一切の出来事は、存在を現わし維持するために全て平等に必要です。

「だからヘイトクライムをあるべきものとして諦める」×
これは違います。
「諦める」ということはよく耳にします。
「怒りを消す方法・苦しみを消す方法」
怒りと苦しみは、この世の展開と維持に避けようがなく存在するものです。
怒りと苦しみを消す方法は、それを感じることです。

私は、すぐ怒ります。(一人の時に)

善と悪に分けるのではなく、それらは相依相関し、等価だと観ると円相は完成します。
円相の完成には、両極が必要です。

コップに水が半分入っています。
「もう水が半分しかない」「まだ水が半分ある」
「まだ水が半分ある」が推奨されがちですが円相を前に等価です。

幼い頃、空を見上げたとき、私の目線は無限に伸ばすことができると考え吐き気を覚えました。円相は何だか安心感があります。

ここまで書いてきて、一番書きたいことは別で、「全て自分という構造」ということです。

「全て自分という構造」についての前に、人は人という現象との距離感が近すぎると感じるので、人という現象は、円相の物理の操り人形ということを改めて書いてみました。円相の物理に従う模様という表現もできます。
と書きつつ、人生の苦にのたうち回っているのは私です๐·°(৹˃ ˂৹)°·๐

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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「悟るべき」という思考の考察

2022年01月25日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

最近ふと思ったことを書いていこうと思います。

人にとって、悟りを最上のものとして目指すべき方向性に固定することは、宗教、スピリチュアル、オカルトであって科学・物理・数学ではありません。

「悟るべき」という一方向の価値は、オカルトでしかないです。

どんなに鋭い視点で語らていても「悟るべき」という立場からでは、オカルトの範疇を出ることはできません。

そもそも、「悟るべき」「悟りが人間にとって最上のもの」「悟りを得たブッダはすごい」「単独の個人が解脱する」
これらのときに強固な思考は、悟らせない(悟りを回避する)ためものです。

自分の身体・思考・感情・意識を脱ぎ捨て、《人という現象》から抜け出してみます。
純粋な「観ている」という焦点だけになったと想像して、この世や《人という現象》を観照します。

水に油が浮いていて、洗剤をポタッと落とすと油がサッと離れます。
これは、洗剤を嫌って油が離れるのではなく物理的な作用です。
磁石のN極とS極が引き合うのは、愛でなく物理的な作用です。

純粋な「観ている」という焦点から観照すると・・・
《人という現象》は、物理的な要請に従っているだけです。
自由意思があると感じている現象が展開しているだけで、自由意思は存在しません。
引くか離れるか、それらが相殺した中間状態かという関係性の変化です。ただ縁起縁滅の法(万物の理論)に従って展開しているだけです。
原点から何度展開しても今と同じ世界が現われます。

油に、洗剤に対して広がるなと言っても広がります。

人に対しても感じませんか?どんなに言葉を尽くしても説得できないとき、どんなに訂正しても理解してもらえないとき、どんなにエビデンスを見せても納得してもらえないとき、何を伝えても同じ返答が繰り返されるとき、あり得ないような状況が世界で展開されても人々が受け入れているとき。

誰も本当の意味で賢くもないし愚かでもありません。独立自存の「本物の自由意思」は存在しないからです。

全ての現象は、全てと関係し合って存在を現わします。そこに「本物の自由意思」は必要ありません。

「悟るべき」「悟るべき、はオカルト」この思考も「悟り」というこの世のゼロ地点が存在することに関係します。そこに「悟り」が現われるには全ての現象が必要です。
個人の努力で悟るわけではありません。その時代の全ての人が、一人も欠けることなく必要です。(わかりやすく書きましたが実際は全存在です)

私は湯船で高波を作るのが好きです。水分子一個では不可能です。

何が言いたいかというと

「悟るべき」に受容的な存在。
「悟るべき」とはオカルトな範疇で拒否的・・・というより違和感な存在。
この二つの方向性は、「悟り」にとって平等という構造ということです。

「悟るべき」なのではなく、既に「悟り」を存在させることに参加しています。
かといって「悟りたい」人も存在するならそれは物理的必然です。

そして

ゴータマ・シッダールタの悟り
アインシュタインの閃き
これらは、みんなのものです。

みんなも関係しているという意味で「みんなのもの」と書きましたが、ゴータマ・シッダールタの人生、アインシュタインの人生、これ自体が《自分》のものです。

純粋な「観ている」という焦点は、唯一として存在する構造だからです。

私の「観ている」と、この文章を読んでいるあなたの「観ている」は唯一です。

「観ている」という表現は、人間的で誤解を生じますが、今回はわかりやすく「観ている」を使いました(*^_^*)

ここまで読んでくれた方ありがとうございます

綺麗な三日月

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