ミクロな量子現象と言えば、「状態の重ね合わせ」です。
電子を箱の中に入れて蓋をして仕切り板を入れると、両方に50%の確率で存在し、観察するまでは確定しません。どちらかに入っているのに分からないのではなく、どちらにも50%の確率で存在します。
実験でベルの不等式の破れが確認されて、物理的に実際に、観察するまでは量子状態が保たれて、確定していないことがわかりました。
電子のスピンの上下の状態の重ね合わせも良く知られています。この量子もつれ状態の2つの電子は、一方が観察されるまで、スピンの向きはどちらにも確定しません。
二重スリット実験では、光子、電子だけでなく炭素60個がサッカーボールのように結合したフラーレンも干渉縞を示し、同時に両方のスリットを通り同時並列的な波として存在します。
原子中の電子は惑星のように原子核の周りを回っているのではなく、1つの電子が雲のように確率の波として広がって存在します。
最近では、目に見えるスケールで、状態の重ね合わせが確認されています。
40㎏の鏡や電流の向き、サファイヤ結晶(見えるけどゴマより小さい・分子1京個)など目視可能なサイズで、状態の重ね合わせが確認されています。
シュレディンガーの猫という思考実験は量子論が誤っていることを証明しようとしたものだったけれど、量子論が正しいという実験が多数続出し、量子論を受け入れざるを得なくなりました。
実際に、ミクロな領域で状態の重ね合わせが起きていることは、今の時代の世界観の常識だと思いますが、マクロな領域の猫でも観察前は、生きている猫と死んでいる猫が重ね合わせ状態にあるのでしょうか?ミクロとマクロの境目はあるのでしょうか?ミクロとマクロの境目の違いは、量子力学の領域と古典力学の領域の境目のことです。それとも、境目などなくて、古典力学の領域の人間が見ているサイズで状態の重ねあわせは起きているのかということです。「人間が見る」ことが世界を確定させているのかということです。
常識的に、シュレディンガーの猫は、放射線観測装置が検知する前の段階の原子(原子核の崩壊/非崩壊が50%50%)が重ね合わせ状態だと考えます。でも、そこで明確にミクロとマクロに境目があるのでしょうか?猫自身の観察前の「原子-放射線観測装置」の系全体は重ね合わせ状態になっている可能性は?「シュレディンガーの猫実験系」の外側にいる人間が、猫の生死を観察する前は、生きていると猫と死んでいる猫は重ね合わせ状態なのでしょうか?
この人を第一観察者とすると、「シュレディンガーの猫実験系-第1観察者」という系を第2観察者が観察する前は重ね合わせ状態なのでしょうか?第3観察者→第4観察者→第5観察者→第∞観察者=神?
6光子によるウィグナーの友人拡張実験(2019,ヘリオット・ワット大学)について考えます。測定1(第1観察者)と測定2(第2観察者)の、光子の振動状態(垂直-水平)に食い違いが生じる結果が出ました(多分ほんの少し)。また、「シュレディンガーの猫実験系-第1観察者」の系が、第2観察者にとって重ね合わせ状態にあると示唆されました。これは、第1観察者と第2観察者の現実が食い違うということです。絶対の現実が存在しないということです。
『上田と女が吠える夜 夏休み特別企画!怖い話で涼む夜』という番組の回で、ある女優さんが、2時間ドラマの撮影現場での不思議な話をしていました。「バカヤロー」というセリフが「ふざけんな」と聞こえたスタッフがいて、演者は「バカヤロー」と言った、監督は「バカヤロー」と聞こえたといい、意見が分かれたので、他の演者やスタッフを呼んでリプレイを鑑賞したところ、「そこにいる人も半々、一文字も合っていないのに」と意見が真っ二つに分かれました。他にも「手が全く違うね」が「足が全く違うね」と聞こえたり、不思議な現象が多発したようです。オンエアを楽しみにしていたようですがお蔵入りになり、「誰も覚えてない頃にオンエアになった。実際は台本通りだった。」と振り返っていました。
この話を聞いたとき、『6光子によるウィグナーの友人拡張実験』を思い出しました。
あと、「誰も覚えていない頃に」というのが重要だと思いました。
「誰も覚えてない頃にオンエア」という未来だったからこそ、この現象は起きたと思います。「2重スリット実験拡張版」で「観察(経路の測定)」を行わずに、ハーフミラーを使用し経路の判明と不明によって「波としての振る舞い/粒子としての振る舞い」が決まることを思い出しました。曖昧なコトは量子的な現象が発見されやすいと思いました。明確にできないことは重ね合わせで事足りる。確定してこの世界は存在していると思わせるだけで十分。そもそも、状態の重ね合わせにミクロとマクロの境目は存在しない。一人一人の現実が重ね合わせ状態で、一人一人にとっての現実が常に1つ確定している。今回のドラマの現象は、ギリギリ「現実って何?」と気がつく量子的な現象だったと思いました。この世界が1つの絶対的、客観的な現実として存在するという常識的な世界観に対するバグみたいなものだと思いました。(厳密にはバグではなくて、万物の理論に従っています。)
「一人一人の現実が重ね合わせ状態」、これは意外と、一寸先は「悟り」の物理状態に至ることを示唆しています。その物理状態とは、「全ての重ね合わせ状態(全知)」です。人は、意外と簡単に「悟り」の物理状態に至ってしまうので、思考や物に執着するように展開し、基本的に「悟らないように」なっていると思います。
「2重スリット実験拡張版」で、「観察」を用いていないのに、波としての振る舞い、粒子としての振る舞いが存在するのか?「人間の観察」の本質とは何なのか?「第∞観察者=神」と「人間の観察」との関係は?
シンプルに書くと、「人間の観察」は仮面のようなもので、「人間の観察」という質感を含めて「第∞観察者=神」が観察している。「人間の観察」世界を確定する特別な能力はない。さらに、「第∞観察者=神」にも世界を分岐させる能動的な力はない。全ての量子的状態(重ね合わせ状態・確定状態)が、「今」存在し、その全てを「第∞観察者=神」は観察しているだけです。これが「全知」を可能にします。
「人間が見る」ことが世界を確定させているのか?、この問いは人間を特別視したものになります。
私は、人間を特別視してアノマリーとは言いません。
人間は、空間、時間、概念の認識範囲が非常に大きくとても特異的、例外的、原則から逸脱していると思いがちです。
「全知」で円相の完成がなされるとき、「人間のような知的生命体」がこの世界に登場するのは、必然で、原則に従っていると思います。「人間」は「全知」に至る行程を進みます。