こんにちは、領です。
私にとっての仏教のイメージは、漫画から得たものばかりです。悪霊に対し、真言を唱えて退散するような感じです。
般若心経は、この世に未練を残し彷徨う魂をあの世へと旅立たせ、成仏させるための手引書のようなものだと思っていました。
仏陀(ゴータマ・シッダールタ)は、伝説上の人物で、実在の人物ではなく、日本神話のイザナギやイザナミ、
ギリシア神話のゼウスなど、そのようなレベルで語られている人物だと思っていました。
実在の人物だと知ったときは、驚きましたが、「悟り」というものが、空想や物語ではなく現実として語られたのだと知ることができました。
仏教の教えは、死して執着を残さないための生き方の指針として、生きている人々にも有用なのかと思っていました。
煩悩を消すとか、因果応報、自業自得、善因善果、悪因悪果、諸行無常、縁起、色即是空などは聞いたことがあったけれど、これらの言葉を意識して深く考えたことは、ありませんでした。
諸法無我や五蘊、空即是色という言葉は聞いたことはなかったです。
日常的に因果応報は、気にしていました。神に見られているというイメージを持っていたのでゴミのポイ捨てはしないとか他者に誠実でいる、誠実でいるための思考を構築するということはしていました。
しかし、いい人っぽい人が、本当にいい人かどうかは、分かりませんね。怒りや妬みの沸点が高いと他人の怒りや妬みが理解できなくて反感を買うこともあります
私が悟りとは、どういうことなのか理解した後、仏教についていろいろな本を読んでみると、本来の仏陀の教えから、現在の日本の仏教は、別ものだと思いました。
そうは言っても仏教という巨大な文化、それを扱う人々の仏教への思いによって、私も仏教を知ることができます。
それに、仏像って素敵です。「自灯明・法灯明」という言葉を知っていても、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、もう一度見に行きたいですし、高野山の奥の院に行って空海の存在を感じてみたいです。
いろいろな仏教に対する考えがあるけれど、やはり、仏教が扱うことは「悟りを開く」これだけだと思います。
煩悩をなくすのではなく自然と消える。仏教は、この世もあの世も捨て去る、人間であることも捨て去るための教えです。
以前から、「悟りを開く」という言葉は知っていました。「悟りを開いた」とされる人物が、同じような内容を語っていることに興味を持っていました。それらは、現代人の書い本で、白隠、親鸞、道元、龍樹、空海、といった方々の本は読んだことがありませんでした。「悟り」を理解した後、気になる本は全て読みました。
どうも、「どう生きるべきか?」で解説したものが多く、「悟り」や「空」の解説がわかりにくいと思いました。よくよくいろいろな本を読むと「悟り」や「空」について先人の残した言葉を見つけることができました。
縁起縁滅の法は、万物の方程式のことです。「悟り」という思考の場においてどう思考するかは、数式に従って存在するので、あれは間違っている、これは正しいなどと判定すること自体が数式に従って存在するわけで…自由意志は存在しないです。全ての思考は、決定論で存在します。根本的に、思考の優劣真偽は確定しないので、受容できる思考を受容するしかないです。仏教を「どう生きるべきか?」という問いのよりどころにすることも、「悟り」の解説書にすることも、はたまた、「どう生きるべきか?」と「悟り」を同質に扱うことも、どんな思考も存在しなければならない構造です。
「悟り」とは、特殊な神秘体験であり、不可思議なもので物理法則を超えたものだと思っていました。
しかし、「悟り」も物理法則内のものでした。「悟る・悟らない」に自己責任は存在しません。
「悟る・悟らない」に対する、自己責任の思考が、存在するだけです。悟る人間の位置は、数式に従って存在するだけです。
悟りの境地に時空や人間である自分は存在しないので、悟りの境地に「いつ・誰」は存在しません。
究極の境地は一つ二つと数えられるものではないので、悟ったとされる全ての人が、たった一つの状態を知ります。
それは、「私が存在し観ている」という意志だけの状態を知ることです。「私が存在し観ている」という意志は、普段、全ての人が使用している自己感のことです。何者でもない、むき出しの自己感を経験することが悟りです。
縁起縁滅の法は、波の性質を持ち、重なり合って一見、無に潜在する地点が存在します。そこが悟りです。
それは全時空を、一度に観ることと同じです。
相反する無限が潜在し、全知の視点を持つことになります。片側だけの無限で全知は不可能です。
その視点を大日如来と名付けると、特殊な体験となりますが、ただのむき出しの自己感です。主観のみの状態です。
全ての人は唯一存在する自己感を共有して存在し、全ての人は同一人物と言えます。この人は悟って、あの人は悟ってないと区別する意味はありません。特別に取り出せる「私」も存在しないので解脱もないことになります。
先ほど、仏教は「どう生きるべきか?」で解説したものが多く、「悟り」や「空」の解説がわかりにくいと書きました。
その理由は、「どう生きるべきか?」と「悟り」の関係は渦と中心点の関係と見ることができ、私が思う仏教は、どの流れにも属さない中心点である「悟り」について
解いているからです。
「私とは何か?」という問いとセットで扱われることが多い「どう生きるべきか?」という問い。
私は、この二つの問いがセットで存在することに、もう一度、考察を深めたいと思います。
結論として、「私とは何か?」と「どう生きるべきか?」という問いの追求は、真逆の道だということです。
「私とは何か?」と問うとき、問うている自分に気付いている私とは何か?と問うているのです。つまり、主観とは何か?です。
「私とは何か?」名前、性別、身長、趣味、好きな食べ物、自分史などなど…宗教は、この私が観ている内容を問うために
「私とは何か?」と問うているわけではないということです。
「どう生きるべきか?」という問いは、未来の自分史です。
仏教が問う「私とは何か?」という問いと、「どう生きるべきか?」という問いはセットで扱うことはできません。
つまり、仏教をもとに「どう生きるべきか?」を解くことはできないということです。
「悟り」とは、この世を滅し尽くすことで、「どう生きるべきか?」という問いにたいする助けにならないかと思います。
「どう生きるべきか?」という問いも複雑かもしれません。
どう生きるかの選択肢として「悟り」に向かう道を選べば、仏教の出番ですが…。
しかし、「どう生きるべきか?」という問いは、「よりよいと思えるように存在するにはどうすればいいか?」という問いだと思います。
宗教が問う「私とは何か?」とは、私がここに存在しているという質感とは何かと問うているのです。
悟ることは、「私とは何か?」という問いの答えを知ることです。「私」そのものだけを如実に知ることが「悟り」です。
私は、「どう生きるべきか?」という問いの先で、悟りとは何かを領解したので、結局は同じ答えにたどり着きます。
しかし、あえて「私とは何か?」という問いと「どう生きるべきか?」という問いの質につい考えてみました。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます