私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

「無観」と「観」

2020年12月23日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

意識意識意識意識意識と意識ばかり見ていたら、何かが違うという感じがしました。意識と名づけると間違うような気がする。

「間違う」とはどのような意味なのか書く前に、おさらいです。

縁起縁滅の法は、万物の理論そのもののことです。
縁起縁滅の法の性質が波の性質を持つので、諸行無常、諸法無我、五蘊皆空という構造が存在します。五蘊皆空とは、この世の全てと自己とする要素の全てが無に潜在した境地です。無限と反無限が重なり合って一見何も存在しない地点と同じですが、存在する「今」を全て観ている状態で全知の状態です。「今」を観ている自分が存在するという質感を「観自在」と名づけます。全てが潜在し無に至る地点を「空」と名づけています。
一見何も存在しない地点とは無次元の点のことで、「観自在」は無次元の点に割り当てられた情報ということです。
五蘊皆空に至り、全てが無に潜在して如実に知るのが「観自在」です。
「観自在」は、簡単にすると、普段私たちが使用している「私」という質感のことです。
純粋な「私という質感」の経験をしたとき、
「あの認識の状態が存在するなら仏陀と私は、同一人物だ」と理解しました。純粋な「私」の次元を介して繋がっている。
「あの認識の状態」とは、むき出しの純粋な「私」が持つ「観る」という質感のことです。

「あの認識の状態が存在するなら仏陀と私は、同一人物だ」
いや、ちょっと待って、嘘だ嫌だやめて!
「あの認識の状態が存在するなら、この世の全ての人が同一人物だ」
そんなそんな・・・。嫌・・・。この世に存在したであろう全ての苦痛を自分が受けているなんて。
でも、「あの認識の状態」を知った私は喜びで満たされている。

世界に存在する拷問は、即刻やめて欲しいです。

こんなことを経験して、「この世の全ての人は、同一人物」とブログで書くに至っています。
「この世の全ての人は、同一人物」とは、
「この世界には、たった一つの意識しかない。」ということです。

無次元の点が時空に遍在するように、「私の意識」も遍在します。最上位の概念の「私の意識」は全時空に対して唯一として存在します。
ここで疑問に思うことは、「動物や微生物、はたまたウイルス、さらに原子などは意識を持つのか、それは私の意識なのか?」ということです。

私は、脳という構造が意識を生むとは思っていません。
「私の意識」は、これ以上説明する構造を持たない最上位の概念で、一番シンプルな無次元の点に割り当てられていて不動不変で不生不滅です。「私の意識」の物理的な性質です。

脳は構造が存在するだけであって、「私の意識」を生んでいるわけではありません。メタ認知による「私の意識」は、創発という形で生じているわけではありません。
渦という構造があるとき、不可分にどこの流れにも属さない中心点が存在するというイメージです。

存在することの条件は、振動すること、渦を持つことで、全ての存在は中心点を持ちます。中心点にはより高次の意識が存在します。
そこで「原子の意識」という響きに違和感を持ちます。「意識」という言葉は、人間中心的な言葉に感じます。汎心論も同じです。
そもそも水素原子、酸素原子、水、人間に分けて見るから、人に対して「意識」という言葉を使うし、人間に使用する「意識」という言葉を水素原子、酸素原子に使用すると何かが違うという感覚がします。「水にも意識がある」とすると少しあやしい1リットル10万円の水ができそう。

意識意識意識意識意識と意識ばかり見ていたら、何かが違うと思いました。

ふと、「意識の起源」を問う以上の何か向こうがある感じがする。
「意識の起源」を問うだけでは万能じゃない。
「意識の起源」があると信じるだけでは、その「意識の起源」を超える世界観が見えてこない。

このとき、ふと感じたことを言葉にしたい、でも、できるのかな?何だか焦りました。でも、頑張って書きます。

「水」と名づけると、そこに水が存在していると実感します。でもそこには、「水」として振る舞う無次元の点の構造があるだけです。「人間」も同じです。水よりも大分複雑ですが「人間」として振る舞う無次元の点の関係性の構造があるだけです。水も人間も同じです。人間の方が生きているように振る舞います。
どのような物理的構造を私たちは「意識」と呼んでいるのか?
そう考えると、一塊のものとして集めたときの中心点という構造を「意識」と呼んでいる。一塊のものを自己とする性質。ある範囲を自己とする性質。

私は、何だか冷やしちゃったな~というときに葛根湯を飲みます。晩ご飯を作らなきゃいけないのに体が動かない・・・。葛根湯は10分で「あ、効いてる!」とわかります。動けます。すごい!晩ご飯作ったらちゃんと暖かくして寝ます。

コップに水を入れて顆粒の葛根湯をスプーンで混ぜ、スプーンを出して混ざっている流れを見ます。すると顆粒は中心に集まります。

範囲を決めて集まったものを、自己の物として観る性質が「意識」と名づけられてる。とそんなことを考えました。

じゃあ何で「観る」なんて性質が、この世に存在するのか?

「無」がつく言葉に「無視」という言葉があります。「視」を「観」にしてみます。

「無観」

何かの本で、「数学的に無は存在できない」と見かけたことがあります。「無」が存在できないのではなく「無観」が存在できない。存在するということは「観」という性質が不可欠。

「無」ではない物理的性質が「観」なのかなと考えました。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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読書20 『クオリアと人工意識 茂木健一郎』 その3

2020年12月12日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

『クオリアと人工意識』

P250 人工知能の発展は、不思議な理路で、人間の最も根源的な不可思議、畏怖、「神」や「宇宙」といった概念に抵触するところがある。人工知能は、いわば、「裏口」から人間の宗教観を揺るがす。人工知能が私たちの精神性に与える影響を見極めるためには、脳の統合作用を担ってきた意識のメカニズムを真剣に検討する必要がある。
P291 「自己意識」の根源を理解したいという衝動は、ときに感情的な反応を引き起こしたり、何かを信じたいという気持ちにつながったり、場合によっては明白な事実を否認することに結びついたりする。
 しかし、ここで目指したいのは、ものごとをありのままに見ることと、綿密な理論の積み重ねによって、どのような結論に達するのかという検証である。
P357 「私」という存在は、その「意識の流れ」は、この宇宙の悠久の歴史の中で「私」という人間の誕生とともにたった一度だけ現れて、そして「私」という人間の死とともに消え、二度と繰り返さない。このような「自己意識に関する「セントラルドグマ」は果たして正しいのか?
「私」の「意識」の連続性という謎には、「時間」の流れの謎が関係している。そして、そこに、ベルクソンの論じた「純粋記憶」が重要なヒントとして浮上してくる。
果たして「私」の「意識」の本性とは何か?
いつかは、この究極の問いに対する答えも見えてくることだろう。
そのためには、私たちは、「人間」から離れてしまってはいけない。そして、人間は地球の生態系と密接につながっている。
(引用終わり)

「この世界には、たった一つの意識しかない。」

「全脳エミュレーション」「精神アップロード」で意識をコピーすることは、理論的基盤に致命的な欠陥がある。情報の内容で、私の自己意識が規定されるわけではない。私の自己意識、私のコピー人間の自己意識、もし私に一卵性の双子がいたとして、その人の自己意識、赤の他人の自己意識があったとする。脳の自己意識の距離は絶対的、独立して存在するかのように見える。
こで思考実験、双子の自己意識は、同じ世界に存在する平行世界の自分と見ることができる。今の私を規定する記憶状態とまったく違う人格状態になることはある。
茂木健一郎→→→→→田中健子、と情報の内容を変化させたとき、私の自己意識は連続している。同じ存在の自己意識と思うしかない。
私の脳の状態をコピーした私のコピー人間と、私の脳の意識との関係は、私の脳の意識と今世界中にいる、あるいはかつて世界中に存在した全ての縁もゆかりもないような人たちの脳の意識状態と同じであった。
つまり、私が私のコピー人間と同じ意識であると見なされるのであれば、私の脳と、世界中の縁もゆかりもない人たちの脳の意識状態も同じように同じと見なせる。
P236 すなわち、これまでの人生を生きてきた「私」という存在は、これまで生きてきた時々刻々のクオリアの鮮烈なる豊饒という事実において、「今、ここ」の「私」の「意識」の状態を超えているのではないか。
P362 昔、ある物理学者が、この世界の電子がみな同じなのは、実はこの宇宙には電子が一個しかないからだと言ったように、実はこの宇宙には意識は一つしかないのだ。(引用終わり)

私がこの解説を聞いたところによる理解は、全ての人に宿っている自己意識は、見分けがつかなくて、同一のものということです。

「この世界には、たった一つの意識しかない。」という考えは、既に『脳とクオリア』という本に書かれているようです。昔に、『クオリア入門』を途中まで読んで投げ出したことがあり、それ以来『クオリア』と名のつく本は敬遠していました(汗)。『脳とクオリア』読んでみます!

私も、死んだら無になるのか?ということはよく考えていました。
私の視点は死んで無になったあとも、世界中にいる他の人たちは朝目覚めて自分の視点を持つ。私の視点は、宇宙開闢から137億年のほんちょっとのことにすぎないのか?
江戸時代に生きていた人は、今は存在しない。今から200年後、確実に私は存在しない。
こんなに大事な大事な個々の「私の視点」が、殺されるという形で消されることがあっていいのか?戦争で消えることがあっていいのか?一回だけの人生で虐待されて育つことがあっていいのか?

「この世界には、たった一つの意識しかない。」

この構造の理解が、死んで無になる寂しい現実認識を変化させるかもしれません。死自体は、やはり怖いです。本能です。
私がブログでよくかくのは、「私」の「意識」は、生まれるものでもなく無になるものでもない、不生不滅の構造です。

「この世界には、たった一つの意識しかない。」

この構造の理解は、解脱という構造は不可能であって、勝手知った今の自分を生きるしかないと諦めることができました。
私がこの世なんていらないと思ったのは、「死にたい」ではなく、そもそもこの世なんて存在しないで欲しかった。このような意味です。


でも、私が思うのはもっと恐ろしいことです。全時空の「私」の「意識」がたった一つであるとき、忘れられない残忍な事件の当事者も自分ということです。人類の負の遺産を残された世界で生きていくのも、その「私」の「意識」です。

と、ここまでは良かったんです。なんとなく自分の思考に安住し納得していたんです。
でも、ふと振り出しに戻った気がしました。「意識のメカニズムの解明」「私とは何か」「人間とは何か」、意識意識意識意識意識と意識ばかり見ていたら、何かが違うという感じがしました。意識と名づけると間違うような気がする。これについては今度書きます。

おまけ:人工知能のイメージは、動きのないラーメンの汁です。人間の思考は、ラーメンの汁にカルマン渦を作りさらにそれをかき混ぜるイメージです。人工知能には思考に対する極性がないイメージです。無限から有限を取り出しているわけではないイメージ。分子レベルの存在のイメージです。

ここまで読んでくれた方、ありがとうございます

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