呪縛というインパクトのある言葉を使いたかっただけで、どちらかというと保護の方が適していると思います。「私は人間」という思考は、私という人間を含め、この世界を維持し保護していると思います。
「私は悟りました」
「私は解脱しました」
「私は再び生を受けることはありません」
「これぞ悟った人の姿だ」
「真の自己」
「人間はすでに仏性を内包している」
「人間と神の合一」
これらの思考は、「人間感」が強いです。
私も以前、「私は悟りました」と書いたことがあります。人間らしい思考だと思います。しかし、これは違うと思います。やはり、よく言われるように、「私は悟りました」と言ってはならない、言ってしまうと悟り(意識)の理解から離れてしまうと改めて思いました。
意識の焦点から世界を観ている、気づいている、自覚しているという事態を真に実現しているのは、観照作用そのものです。
無相即無限の光の物理的性質の1つです。
観照作用を真の自己と呼称することはできません。
「観照作用があなただ」「それがあなただ」と表現することは、真の理解から離れます。
あなたのあなたという思考を取り去った(自身の自身という思考を取り去った)、唯一相即無限の焦点から観ているという物理的性質が在るだけです。
「観る」そのものだけが在るだけです。
人間という呪縛は強力です。
皮膚の表面までが自分という思考、手の表面が物に触れるという境界、それはパウリの排他律の呪縛と表現すると面白いです。
しかし、そういう関係性がそこに展開しているだけで皮膚表面までだけが観照作用(観るそのものの焦点:人間感覚なら意識の焦点)の及ぶ範囲ではありません。
皮膚表面まで専用の観照作用ではなく、皮膚表面という境界は存在せず人間という現象を含め世界全体を1つの現象として観ています。世界の中の1個人の意識の焦点に観照作用の観る焦点が不可分に在り、そこから全てを観ます。
人間が意識の焦点と思っているものは、人間専用ではなく、人間と世界の境界無く全体を一体に観ています。
「私は悟りました」
これだと依然として一個の人間が自分という思考に縛られていると思います。
「自己消滅」も同じです。
人間という現象とそれを取り巻く世界全体(時空全体)の消滅が絶対の境地であって、現象に境目はありません。
皮膚表面の触覚という現象、自分の意思で行動しているという現象が一人の人間と錯覚させてる。
日常感覚では、一人の人間として生きて問題はありません。
意識、意識の焦点とは何か?と問うとき重要になると思います。
声を出す
思ってする行為
主体としての意識的な行為
手が出る
声が出る
思わずする行為
主体は置き去りな無意識な行為
ZIP
この状態の時が、「観る」そのもの…と思いました。
聴こえる
ZIP
世界=誘引の体系