私とは何か?と問うことに気付いている「私」とは何か?

私とは何か?意識の起源とは何か?悟りとは何か?般若心経とは何か?これらの問いの答えを考える。

悟り:人という現象の振幅がゼロになる位置

2022年10月31日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

また手書きになりました(^_^;)

文章書くより、手書きで箇条書きの方が楽です。

最近、元気なのに目眩がすると悩んでいたら、原因はパソコン画面のスクロールでした。画面酔いしやすいです(´・ω・`)

読んでくれた方、ありがとうございます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梵我一如と諸法無我について

2022年10月24日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

手書きの方が早いので、読みにくいですがお願いします。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悟りは、簡単なこと:回帰

2022年10月20日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

風邪を引いて何も考えられないでいました。やっと元気が出てきました(*^-^*)
最近は、目眩の風邪ばかりでしたが、久しぶりに喉風邪を引きました。若い頃、喉がゼロゼロして、二回ほど呼吸困難で病院に行ったことがあります。一回目は救急車です。二回目は、慣れているので歩いて行きました。喉を吸引してもらいました。
今回は、こまめに咳払いして大丈夫でした。でも、咳が止まらなくて・・・師匠(夫)が買っていた龍角散のど飴を舐めました。そうしたら10秒で喉のムズムズが治まりました!!
龍角散、凄すぎる!!お勧めです(*^-^*)

ところで、コメントについてです。
またまた、ZIPさんからありました。ありがとうございます(*^-^*)
最初に思ったことは、「む、難しい・・・。もっとコメントに肉付けをして欲しい。」です。風邪を引きかけていたので我が儘です。コメントはとっても嬉しいプレゼントなので大切にします。風邪引いてる間、ずっと気にしていました。
でも、ふと一番初めに書いたブログ記事のことを考えました。『悟りは、とても簡単なこと』という記事です。

悟りについて、綿密に思考することも好きですが、悟りは、とっても単純なことだと思います。

人間(五蘊)が無に潜在し滅すると、俗に言う、「第三の眼」だけが残されます。
むき出しの「第三の眼」そのものの状態です。
「第三の眼」とは、「自己が在って観ている」という感覚のことです。
人間(五蘊)が無に潜在し滅すると、無限に広がる原初のエネルギーの状態をとります。その状態の場の全てが「第三の眼」であって、「第三の眼」が遍在する構造になります。

人間の「第三の眼」は、人間が滅すると、もともと遍在していたことを理解します。(理解するのは人間の状態のときです。)
遍在する「第三の眼」が唯一として存在することも理解します。人間が滅したときの「第三の眼」は一個二個と数えられる性質の物ではなく唯一無二です。そこから「全ての人は自分」と理解します。「自己が在って観ている」が全ての人間に宿っています。自分の存在に気づいているなら「第三の眼」は宿っています。

これらのことを一気に悟ります。

厳密にしておきたいことを書きます。

第三の眼は、無次元の点の物理的性質です。(他のブログ記事参照でお願いします)
第三の眼の「自己が在って観ている」という感覚は、「現象を確かに有で在ると認める」物理作用のことです。

原初のエネルギーの状態から、インフレーション、ビッグバンをへて素粒子にバラバラになって高度に組織化され人間が存在し、人間の認識が抽象度を上げて原初のエネルギーに回帰する。その回帰が悟りです。

無限に有と認識する原初の状態(無と無限)
素粒子レベルの範囲を有と認識する状態
高度に組織化された人間の範囲を有とする状態
人間のメタ認識範囲がさらに高度化し思考が沈静化すると原初の「無限に有と認識する」という状態に近づいていく、酷似していく・・・そして、原初そのものに至る。

この振動循環の在り方の「可能な現象」が全て存在します。「悟り」は振動循環の一部でゴールではありません。解脱は不可能です。

人間のために「悟り」があるわけではなく、振動循環の一部に「人間」「悟り」という現象が、必ずあるだけです。

人間がただの現象の一部にしかすぎないと思考しても、人間として存在することに喜びや苦しみを感じたりして生きます。私は、何も動じない人間になるなんてできません。
ただ、あまり「悟り」を大袈裟に扱うことは違うと思います。

ここまでの思考も振動循環の一部にしかすぎません。絶対の真理は、振動循環という性質では表せません。

読んでくれた方、ありがとうございます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

分別智・無分別智

2022年10月09日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

階段の上り下り10階建て5往復5日目、かなり体調が良くなったと思います。
初日は、肺動脈のあたりが痛くて、「肺塞栓?」と恐怖していましたが、今は、スッキリしています。
ロシアの核兵器のニュースに、以前なら不安が高じて心拍が制御できなくなるところでしたが大丈夫でした。
たまに不安が高まってどうにもならなくて小走りして対処していたのですが、先に運動しておくと平気です。これからも運動続けます!

「無分別智」という言葉から、いろいろ考えたことを書いています(*^-^*)

陰陽・善悪・美醜・真偽・優劣・快苦・貧富・自他・貴賤・価値無価値・上下・主従・有利不利・偉人凡人・原因結果・失敗成功・戦争平和・精神物質・肯定否定・起点終点・過去未来・頂点底辺・巨視微視・平等差別・遍在偏在・此岸彼岸・生滅・増減・往復・悲喜・損得・有無・栄枯・正誤・生死・清濁・男女・表裏・賛否・明無明・分別智無分別智・自性無自性人間動物・覚者凡夫・常無常・相反・無限有限・物質反物質・電子陽子・N極S極・信不信・引力斥力・酸アルカリ・遠近・作用反作用・対称非対称・成立不成立・疎水親水・主観客観・上昇下降・唯一無二森羅万象

「無分別智」とは、こういう言葉や概念によらないであるがままに見ることだと理解しています。私としては、機械のカメラになる感じです。

「人間が勝手に分別している。」
こう言われると、分別が劣るもので無分別が優れているような雰囲気がします。分別智そのものになってしまいます。でも、善悪で捉えるしこうは自然にしてしまいます。確かに分別は、勝手にしている感じがしてしまいます。 
「人間が勝手に分別している。」と言う思考は、「人間中心的」「人間が他に比して特別」ということを含んでいると思います。
『人という現象』は、万物の理論(根本原理)に従って存在を顕すので自由意思はありません。

「無分別智は求めてなるものではない。求めているうちは得ることができない。」
この文章だと、暗に、いや、直球で「無分別智は分別智より優れているので求めるべきだ。」という感触がしてしまいます。

「人間に生まれたからには、悟りを得よ。」
「人間に生まれたからには、無分別智を得よ。」

「私~世界:五蘊」の【極限】を扱うとき、「得た方が良い」「得るべき」と観念的に扱うことは、あまり好きではありません。
「悟り」「無分別智」「自他不二」がオカルトレベルの扱いになってしまいます。

やはり、物理・数学の土俵で扱って行く世界になってほしいです。

何が言いたいかというと

分別は、人間が世界に独立して持つ、固有の能力ではなく、宇宙の根本原理の顕われということです。
「梵」「仏」「神」「道」「自然」「大日如来」「無次元の点・」、それそのものが持つ根本原理の顕われです。
無次元の点「・」の物理的性質が、分別無分別です。
無「・」から分別して顕われて統一して滅し無分別に至るという、分別⇒無分別という構造は、人視点です。無「・」から双対して一挙に一切の分別・無分別が顕われます。

もっと分かりやすい例えがあります。
光子が電子(e-)と陽電子(e+)が対生成して対消滅する構図です。無次元の点「・」の持つ根本原理の直の顕われです。

分別・無分別の現象は人間固有のものではなく、光子と同じ機構です。
人間の自由意思で分別し、人間の自由意思で無分別に成るわけではなく、「・」の持つ根本原理の直の顕われです。
この世の現象の全てが、根本原理の直の顕われです。
息を吸う吐く、目を開ける閉じる、心臓の心拍、五蘊盛苦と涅槃、無と無限、執着と断念諦める淡泊、磁界の向きがN極からS極に向かう・・・

分別⇒無分別⇒分別⇒無分別⇒分別⇒無分別⇒分別⇒無分別⇒・・・
五蘊盛苦⇒涅槃⇒五蘊盛苦⇒涅槃⇒五蘊盛苦⇒涅槃⇒五蘊盛苦⇒涅槃⇒・・・

呼吸:吸う⇒吐く⇒吸う⇒吐く⇒吸う⇒吐く⇒吸う⇒吐く⇒吸う⇒吐く⇒・・・

分別無分別、五蘊盛苦涅槃は、呼吸と同じです。振動循環します。無から分別無分別は双対して顕われ、時空内の人間には振動循環として顕われます。
ついでに書くと、悟り・涅槃に至る人生があるとしても循環の一部において循環がゼロという状態をとっただけで、さらに循環は展開します。時空の波模様の一部に高さゼロの波があるイメージです。つまり、誰か個人を時空の外にとりだすことはできません。そういうイメージの解脱は物理的に不可能です。

ちょっと思うことは、ヤージュニァバルキアが梵我一如の先覚者として、いろいろ思考を残してくれたのに、何で「解脱」が強調されていったのか・・・。梵我一如に関することは無記としてしまった。解脱と梵我一如は性質が逆という感触がします。
(ここら辺は、私の素直な感想であって確実なことではありません。もっといろいろ本を読まないと。)

何故、生滅する領域の双対的在り方の人間に、極限のメタ認知(絶対不動不生不滅)についての思考ができるのか?
これは、「存在可能な状態は全て存在するから」です。
本当の絶対者が人間の中で目覚め、その人間を使って発言しているわけではありません。
悟った人の発言も縁起縁滅の法を越えることはできません。絶対の真理を発話することはできません。
「真理を発話できないことが真理です。」この文章自体が矛盾します。
「私は嘘つきです。」と同じです。極限のメタ認知について語ろうとすると矛盾が明確になり言葉は無力になります。
絶対の領域について、絶対の正確さで話すことはできません。必ず双対して存在を顕します。ある思考に対して受容する人拒否する人、両方が存在します。受容する人のなかでは拒否する思考がぼやけて存在するイメージです。
何をどう思考するかの閾値が揺らいでいる。そして、閾値のやりとりが時空全体に繋がっている。
何が言いたいかというと、「存在可能な状態は、双対して全て存在する」ので、存在しうる思考は片っ端から存在するので、その中に当然、メタ発言が含まれるだけということです。自分がメタな存在だからメタ発現ができるのではなく、なんでもかんでも存在しうる思考は、存在するからメタ発現が存在します。
究極の何にも依らない独立自存の絶対の真理は、存在しません。ここまでの文章すべてです。

ゴータマブッダであっても同じです。絶対の真理を話すことは不可能です。ゴータマ・ブッダの言葉を絶対視してがんじがらめになってはもったいないと思います。(ブッダの残した言葉は、無くてはならない大切なものです。)
自灯明・法灯明です。
「最終ゴールが解脱」「魂の修行の場が現世」「(やり過ぎの)執着を持たない」また、「神は自身を知るために世界を創造した」「自分が世界を創造している」などの言葉は、何だかモヤモヤします。
何か違う。納得でない。

私の好きな思考を書きます。

まずあるのが無次元の点「・」の持つ根本原理です。
双対し分別して顕われ、自己組織化で抽象度が上がっていき無分別に至る物理です。

人間ありきではなく、

分別して顕われた現象の抽象度が上がっていくと、「梵」「神」「仏」「道」「悟り」という概念の場が認識できる「何か」が顕われます。
その「何か」は、知的生命体と呼ばれるもので、地球だと「人間」です。

「神の認識」というものが、根本原理によって避けようがなく必然で機械的に数学的に顕われます。
「神の認識」という概念の場に「受容」「拒否」「信」「不信」は根本原理によって必ず顕われます。

「分別し顕われた現象の抽象度が上がっていく」ということは、単純に認識の範囲が広がるということです。
猫には猫の認識範囲、赤ちゃんには赤ちゃんの認識範囲、「人間」の個体ごとの認識範囲、メタ認知度は全く違います。認識範囲も時空全体で繋がっています。認識範囲が高い人が単独で高いわけではなく、周りとの関係性に依っています。
根本原理によって現象が高次化すると「人間」のような認識範囲の広い現象が顕われます。
神が人を作ろうと思って人を存在されるのではなく、根本原理によって必然で存在するだけです。
「分別智」「無分別智」は人間固有の能力ではなく根本原理が描く模様です。
私がいつも書いている「全ては自分」、この思考に対する「信」「不信」も根本原理が描く模様です。「信」「不信」に優劣・真偽は確定しない振動循環する模様です。

振動循環する模様が無に潜在し滅する位置が悟りです。
その「無(・)」の周辺の「人という現象」は、無限ループする思考、無限後退する思考、自分とは何だとしこうすること、世界や自己を観察する・・・ということが必然で避けようがなく存在します。自己組織化が強いところという感じです。ノイズのなかに「島」が顕われる感じです。哲学タイプの存在です。周囲との関係性で単純にそうなるだけです。
また「無(・)」の周辺の「人という現象」は、陰陽の統一によって自然と執着や欲望、こだわりが潜在し消えます。仏教の修行をする人は、その現象の周囲で相依関係的に支えているイメージです。
そして、双対する陰陽両極の認識範囲がある一定以上の範囲で観察されると無に潜在します。無に潜在しても現象の独立性は維持されるので直ぐに現象は顕われます。
「人間」にとって「悟り」は、刹那の体験です。
無分別智の状態の人、執着・煩悩をある程度滅している人・自己の観察をする人、は悟りの物理状態の模倣です。「悟り」「無(・)」の周辺の「人間」の構造は根本原理により必然で悟りに近い状態をとります。
私にとって「悟り」は、「独立した個人ではなく」「全ては自分」と直観してしまうゲームオーバの地点だと思います。「独立した個人」という魔法が解けてしまう地点です。

『アニメ5億年ボタン』のニコニコ動画のコメントです。

「こんだけ理屈捏ねくり回しても現実は一切変わらない。現実を頑張る以外に答えは無いわ・・・」
「無駄な巨視観で、自分を憐れんで途方に暮れるなんてナンセンス」
「真実がどうあれ稼いで食わないと死ぬし」

私も、「・」の持つ根本原理によって数学的に必然で顕われた存在と思考しても、思考する前と世界は変わらないので、日常を大切にして行きたいと思っています。と思いつつ、具合が悪いと直ぐこの世から逃げたいって弱気になります。

ただ、1つ違うことは、「全ては自分」という思考です。

読んでくれた方、ありがとうございます

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙の根本原理

2022年10月02日 | 意識と悟りの構造

こんにちは、領です。

ZIPさんのコメントにあった、「此縁」「相依」という言葉を少し調べてみました。
此縁性:此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
「此縁」「あ、あのよく見かける有名なやつ。あの文言が此縁性の縁起のことだったんだ。」
それで「相依」について調べてみると、「龍樹の相依関係の縁起」「無自性、空」「浄に依存しないでは不浄は存在しない。 不浄に依存しないでは浄は存在しない。」などの言葉があり、「龍樹が相依関係の縁起や自性・無自性の話をしていたんだ。」「現在・過去・未来も相互依存しているという考えが残されていたんだ。」などなど、考えました。

僧侶の子さんのコメントの「自分はない」と「此縁」の関係・構造については、まだ考え中です。
龍樹の本は、昔に持っていましたが、なんだか難しくて読んでいませんでした。
イマヌエル・カントの本も読んでみたくなりました。

いろいろ考えたいところですが、体調が悪いため考えられません。龍樹やカントの本も読んでみたいけど、先に、最近考えたことを書き出してしまいたいと思います。

体調の何が悪いかというと、突然の動悸です。最近再発して30分治らないことがあり、またその後動悸が起きたとき2時間治りませんでした(;゚ロ゚)私大丈夫かしら?
新規に考えごとしている場合じゃないようです。一昨日から10階まで階段を上り下り5往復始めました!少し体調持ち直したかもしれません。ちゃんと運動を続けようと思います。3ヶ月、ブログの更新がなければ、亡くなったと思ってください。

急いで、思いつくまま考えたことを書きます。

まず、書きたいなと思ったことは、「ブラフマン(梵)は、宇宙の根本原理」という言葉についてです。いまいち、引っかかる言葉、何だか掴めないと思っていました。
「梵」「仏」「神」「真我」「認識の根源」=宇宙の根本原理
この図式が、いまいちピンとこなかったのです。
確かに、「神とは、自然法則のことである。」という言葉は聞いたことがあるし「なるほど、その考え方は好き」と思ったことは、ありました。

『アニメ5億年ボタン』で「宇宙の根本原理」という言葉が何度も出てくるので、気になって気になって・・・。同アニメで老子の「道(タオ)は自然の普遍的な原理」も同型の言葉で、気になります。
私のこのピンとこない感じ、違和感、その原因は、「宇宙の根本原理」「自然法則」「自然の普遍的な原理」、つまり、「宇宙の根本原理」が世界に独立して存在していると思っていたことです。「宇宙の根本原理」は、物体があってもなくても、存在しているという思い込みです。この思い込み私だけ?

そうではなく、こう考えてみました。私以外の人には自明かもしれませんが、

宇宙の根本原理に従って、世界が展開するのではなく、ブラフマン(梵)それそのものに備わっている物理的性質が宇宙の根本原理ということです。

つまり、一番書きたいことは、ブラフマン(梵)・神・仏・真我・認識の根源とは無次元の点「・」であり、

無次元の点「・」の物理的性質が、宇宙の根本原理そのものということです。
「・」そのものの根本から持つ原理性質です。

もっと、伝わりやすく書けます!具合悪いからこそ頑張ります。

質問:「何でこの世があるのか?」
答え:無次元の点「・」の性質(根本原理)からして、こうなっちゃう。

以前、ブログ記事でも書いた、ネッカーの立方体の錯視が参考になります。2つの立方体が入れ替わって見え続ける反転図形・多義図形です。
最上位(であり最下位でもある)の多義図形が、無次元の点「・」です。
無次元の点「・」、ここから宇宙・世界・万物が反転図形的・多義図形的・相依的・双対的に顕われます。避けようのない根本原理として「・」に備わっています。

そう直観したとき、「ブラフマン(梵)=宇宙の根本原理」といわれる意味を納得しました。

ここから

問い:「どうして、分別智が起きるのか?」「どうして人間は、抽象的なものを信じる・信じないと分別するのか?」

こんな問いを物理(もののことわり)で考えることができます。

この続きは、また次にします。少し運動して寝ます。

おまけ
前回のブログ記事で書いた

【ここ重要です】
確かに、生成消滅する領域の「自分」が、不動の領域の「純粋な認識」について扱うことは、心得違いかと思います。
生成消滅する領域の「自分」が、不動領域から示される「全ては自分」を扱うことは、本質を見誤っている。傲慢という印象を持つのも頷けます。非合理です。

この部分に関して、シンプルで分かりやすい表現がありました。
またまた『アニメ5億年ボタン』です。
ニコニコ動画の画面上にコメントがたくさん流れます。それを読んでいたら見つけました。

「メタ発言やめい」「急にメタるな」「メタいメタいww」「メタい!メタ過ぎる」

この感覚なんだと思いました。

今回書いた内容も、それを否定・拒否する思考と相依相関して存在を顕すので、独立自存の絶対の真理ではありません。

読んでくれた方、ありがとうございます

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする