/映画館の中での名セリフ
名セリフは、どこにでも転がって
いる。
それは、たとえば長屋のおかみさ
んの身の上話や、競馬場の雑踏の
の中の人生相談。
そしてまた、映画館の中の暗闇。
「ほんとうは、名セリフなどと
いうものは生み出すのではなく、
探し出すものなのである」
私は、映画館の中の話相手の言
葉から人生を学んだ。それから
はというもの、映画を観るたの
しみは、いわば「言葉の宝さが
し」に変わったのである。
☆
「一つおとりよ」
ピエール、マッチをすって手の
ひらの上のガラス玉を照らして
見せる。
「お星さまのかけらだ。
空から落ちたんだよ」
(シベールの日曜日)
これは映画「シベールの日曜日」
のなかでフランソワーズという
少女と、記憶喪失のピエールと
の出会いのセリフである。
泣いているフランソワーズをあ
やすために、ピエールはガラス
玉を見せて「星のかけら」だと
あざむく。
するとフランソワーズは「星の
かけら」があまりにも高価なも
のだと思って「もあらえないわ
」と遠慮する。
ピエールは何とかフランソワー
ズの気をひくために
「いや、いまのは冗談だったの
だ。これは水だよ、ただの水な
んだよ」と言いなおす。
このメルヘンのような出会いが
しだいに二人の仲を深めてゆき、
人たちに変態性欲者とまちがえ
られるように、
年のちがったロマンスにまで
なっていって殺人事件をひき
おこす。
「シベールの日曜日」は現代に
生きるためには、無垢な心がど
のような報復をうけなければな
らないかということを物語る
残酷な映画であった。
ガラス玉を星のかけらと思い
こめる感受性は、その星のかけ
らの鋭い刃先でみずからの心
を傷つける。
心のやさしさが必要以上に
現実をかざりたてたもので、
美しいが、もろい映画であった。
名セリフは、どこにでも転がって
いる。
それは、たとえば長屋のおかみさ
んの身の上話や、競馬場の雑踏の
の中の人生相談。
そしてまた、映画館の中の暗闇。
「ほんとうは、名セリフなどと
いうものは生み出すのではなく、
探し出すものなのである」
私は、映画館の中の話相手の言
葉から人生を学んだ。それから
はというもの、映画を観るたの
しみは、いわば「言葉の宝さが
し」に変わったのである。
☆
「一つおとりよ」
ピエール、マッチをすって手の
ひらの上のガラス玉を照らして
見せる。
「お星さまのかけらだ。
空から落ちたんだよ」
(シベールの日曜日)
これは映画「シベールの日曜日」
のなかでフランソワーズという
少女と、記憶喪失のピエールと
の出会いのセリフである。
泣いているフランソワーズをあ
やすために、ピエールはガラス
玉を見せて「星のかけら」だと
あざむく。
するとフランソワーズは「星の
かけら」があまりにも高価なも
のだと思って「もあらえないわ
」と遠慮する。
ピエールは何とかフランソワー
ズの気をひくために
「いや、いまのは冗談だったの
だ。これは水だよ、ただの水な
んだよ」と言いなおす。
このメルヘンのような出会いが
しだいに二人の仲を深めてゆき、
人たちに変態性欲者とまちがえ
られるように、
年のちがったロマンスにまで
なっていって殺人事件をひき
おこす。
「シベールの日曜日」は現代に
生きるためには、無垢な心がど
のような報復をうけなければな
らないかということを物語る
残酷な映画であった。
ガラス玉を星のかけらと思い
こめる感受性は、その星のかけ
らの鋭い刃先でみずからの心
を傷つける。
心のやさしさが必要以上に
現実をかざりたてたもので、
美しいが、もろい映画であった。