呂不韋を排除したことで、いよいよ秦王政の親政が本格化し、長く続いた戦国の世も終焉に向けて動き始めることになります。因みに呂不韋は丞相だった頃から、次々に訪れる他国の要人や使者と交わるのを好み、これは河南の食邑へ移ってからも変らなかったのですが、そもそも他国の方が競って呂不韋に接近したのは、何も彼の機嫌を取りたかったからでも、彼が優れた人物だったからでもありません。要は商人上がりで浮世の栄誉しか考え . . . 本文を読む
呂不韋は史書によると、荘襄王が即位するなり秦の丞相に就任したといいますが、流石にそれは有り得ないでしょう。呂不韋が荘襄王の即位に尽力したのは誰もが認めるところであり、王自身は彼に生涯の大恩があるにせよ、それはあくまで子楚個人の恩義な訳ですから、商人である呂不韋には商売上の便宜を図ってやれば済む話で、秦に何の功もない他国人の彼を丞相に据える口実にはなりません。これが趙夫人と政をそれぞれ王妃と太子に立 . . . 本文を読む
何かと武帝に比較されることの多い始皇帝もまた、武帝とよく似た生涯を送った帝王です。後の始皇帝こと嬴政がこの世に生を受けた時、祖国秦の君主は彼の曾祖父に当たる昭襄王でした。太子の安国君(政の祖父)には二十人以上の子がありましたが、政の父の嬴子楚は人質として隣国の趙へ送られており、長子の政も秦ではなく趙の首都邯鄲で産まれ、そのまま同国で父母と共に少年期を過ごしています。数ある安国君の子の中から、特に子 . . . 本文を読む
武帝からの絶大な信任を得て、一時は並ぶ者のない権勢を誇った江充でしたが、彼自身には巷で誇張されるような職制上の大権はなく、その実態は甚だ脆いものでした。何故なら彼の置かれた立場というのは、江戸時代の側用人や現代の大統領補佐官のように、あくまで元首個人の私設秘書官のような役職に過ぎず、その権力は偏に武帝の威光を頼りとしていたからです。従って他の高位高官のように、朝廷内での実績や閨閥を持たない江充は、 . . . 本文を読む
君主の直感について言えば、国家の長い歴史の中でも、特に重大な決定を下す際には、常に主要な因子の一つとなっています。例えば公表こそされていませんが、今も日本の国務大臣は、元首である天皇に対して、内奏という国務報告を行っています。かつて昭和天皇への内奏に臨んだ諸大臣は、問答に表れる先帝の聡明さに驚愕し、国会答弁などとは比較にならないほど緊張したといいます。もともと君主というのは世俗に塗れていないので、 . . . 本文を読む