ここ最近、韓国映画「春の日は過ぎゆく」について考えている。
この映画は2001年制作で、主演はユ・ジテ氏とイ・ヨンエさん。監督はホ・ジノ氏。
ホ監督の「八月のクリスマス」は以前観たのだが、その時に感じた監督の編集がどうにも話の筋が通っていない印象が今回もあって、観た後に「あれはどういうことだったんだ?」と思う事が多くて、しばらく色々想像しているわけだ。
もちろん映画なんてずっと流れるような筋書きでできているわけでなく、含みや省略など見えないところで工夫されているんだけど、素人ゆえに、そして話自体が作り物なんだから監督が考える”正解”に沿って話を展開して欲しいと思うわけだ。
DVDパッケージによる説明では「年上の女性ウンスと、仕事のパートナーとして出会った青年サンウは、出会って間もなく恋に落ちる。だが、サンウが愛にのめり込むほどに、離婚経験のあるウンスは愛に懐疑的になっていく。四季の移ろい、風の音、そして愛の喜びと悲しみ・・・。」という感じで、最初の印象では年上女性の移り気に純朴青年が翻弄される、というものだったが、映画ではなぜウンスは移り気な行動をするのかが描かれていない。
で、ネットで調べたりしたが、監督へのインタビューでも「彼女の内面は複雑で・・」とミステリアスな事を匂わせるのだが、
そして色々な疑問が浮かんでくるのだ。
ネットでの感想で、キャリアウーマンと格差のある男との指摘があったけれど、確かにウンスはラジオ局に務めるプロデューサー兼DJだけど、住んでいる家は郊外の集合住宅だし(高級マンションには見えないが韓国での位置付けはどうなんだろう)、家の中は質素で調理道具も少なくブリジット・ジョーンズのように部屋の中は散らかっているし、”主食”はインスタントラーメンだ。そういう描写で”格差”は当たっていないんじゃないかと思うが。いわゆる理想化されていない女所帯である。
河原でウンスが口ずさんだ「好きにならずにいられない」から状況は次第に「好きなだけではいられない」へと移り、最後は男が離れていってしまう。
程よい距離でつきあえば(求婚しなければ)長くつきあえたのか。
最後に桜の季節に会いに行った時には音楽評論家と切れていたのだろうか。そもそも評論家はウンスに求婚しただろうか?キムチを漬ける事をのぞんだのか?そしてウンスは評論家を自分のアパートに招き入れたのだろうか。
浮気され続けたおばあさんは、純愛であっても時には不確かなものである事の暗喩なのか。
最後の草原のシーンでテープは上書きしたのだろうか?そう、ウンスが河原で口ずさんだ「好きにならずにいられない」の録音部分にだ。
そうやってウンスへの思いを断ち切ったのか。それとも”永久保存”されているのか。
(それにしてもあの河原のシーンはせつなすぎる。)
制作は2001年。そして今これを書いているのが2023年。
この20年余りの間に、監督が描写した関係性をどのように解いていくのか良いのか私たちは知っているのだ。
監督に認識があったのか定かではないが、今から思えば2001年ごろは、古い家制度が揺らぎ始める前兆が見られ、(だからこの映画でもウンスが結婚に対して後ずさりするシーンが描かれている)女性も揺れ動きながらも前に進もうとしていた時代と読み解けるのだが、観た感想では気まぐれな女性の振る舞いとの意見が多かった。
それでは熱をあげるサンウにウンスはウザイと感じて離れていったのか?
現在の意識から、ウンスは距離を詰めてくる(結婚の話や関係性の同一化など)サンウと”程よい”距離感を取ろうとしていたのではないのかと想像できる。
嫌いになった云々ではなく、ウンスにとっては結婚、ひいては家父長制度への従属から距離をおいた関係性を築こうとしたのではないのか。
でもきっとハッキリと言葉では説明できるものではなく、無意識に踏み込んでくる男は目に見えないバリアで弾かれたと感じて悩むのだろう。
ウンスは何度もトライして二人の距離を確認しようとするのだが、”古い”意識のサンウには制度自体への不満や疑問など浮かぶこともなく、なぜ自分を(を含めたサンウの家族制度)受け入れてくれないのかとしか思わない。
でもいつもいつもウンスはサンウを愛しているのだ。
だが一方でいつもいつもウンスはサンウだけの事を考えて生きているわけではない彼女の生活があるのだ。
紙で指を切ってふと思い出したサンウの祖母の事で再び連絡を取ったウンスだが、二人の間に新たな距離ができている事に気がつく。サンウが離れてしまったのだ。
この先サンウはどういう人生を選ぶのだろう。
何年か経って再会した時にサンウは彼女好みの男に変わっているのか。(今の時代ではありえる生き方である)
ウンスとの関係は思い切りがついて、キムチを漬ける女性と結婚しているのか、それとも年老いていく父親と共にキムチを漬けているのだろうか。
今なら言えるが、もしサンウがもっと言葉を発して「ウンスさんの事がどんどん好きになっていくのが止められない」と言えたら、もしウンスが「あなたの事が好きだけど結婚という形は無理」と言えてサンウが”新しい関係性”を築いて二人の関係を継続していこうと思えたら・・・それが2023年の”答え”じゃないのかと思うのだが。でもなぁ2001年はキム・ジヨンはまだ19歳なんだよな。
従来の制度の中で当たり前のように距離を詰め、相手は息苦しくて距離を取ろうとする中で、互いの気持ちを理解するには言葉で伝えるしかなかったのではないのかとは思うが、当時はまだ時代が追いついていない。
近年の韓国におけるフェミニズム文学状況を考えると2001年制作のこの映画は示唆に富むものである。
「冷静と情熱のあいだ」のように、女性視点でのバージョンをできれば女性監督で見てみたいものだ。
この映画で個人的に「春の日は過ぎゆく」のイ・ヨンエさまとなった。
「親切なクムジャさん」や「宮廷女官チャングムの誓い」のヨンエさまではなくウンスとしてのヨンエさまにゾッコンなのである。
しばらく思いつくままに改訂していくかもしれない。
この映画は2001年制作で、主演はユ・ジテ氏とイ・ヨンエさん。監督はホ・ジノ氏。
ホ監督の「八月のクリスマス」は以前観たのだが、その時に感じた監督の編集がどうにも話の筋が通っていない印象が今回もあって、観た後に「あれはどういうことだったんだ?」と思う事が多くて、しばらく色々想像しているわけだ。
もちろん映画なんてずっと流れるような筋書きでできているわけでなく、含みや省略など見えないところで工夫されているんだけど、素人ゆえに、そして話自体が作り物なんだから監督が考える”正解”に沿って話を展開して欲しいと思うわけだ。
DVDパッケージによる説明では「年上の女性ウンスと、仕事のパートナーとして出会った青年サンウは、出会って間もなく恋に落ちる。だが、サンウが愛にのめり込むほどに、離婚経験のあるウンスは愛に懐疑的になっていく。四季の移ろい、風の音、そして愛の喜びと悲しみ・・・。」という感じで、最初の印象では年上女性の移り気に純朴青年が翻弄される、というものだったが、映画ではなぜウンスは移り気な行動をするのかが描かれていない。
で、ネットで調べたりしたが、監督へのインタビューでも「彼女の内面は複雑で・・」とミステリアスな事を匂わせるのだが、
そして色々な疑問が浮かんでくるのだ。
ネットでの感想で、キャリアウーマンと格差のある男との指摘があったけれど、確かにウンスはラジオ局に務めるプロデューサー兼DJだけど、住んでいる家は郊外の集合住宅だし(高級マンションには見えないが韓国での位置付けはどうなんだろう)、家の中は質素で調理道具も少なくブリジット・ジョーンズのように部屋の中は散らかっているし、”主食”はインスタントラーメンだ。そういう描写で”格差”は当たっていないんじゃないかと思うが。いわゆる理想化されていない女所帯である。
河原でウンスが口ずさんだ「好きにならずにいられない」から状況は次第に「好きなだけではいられない」へと移り、最後は男が離れていってしまう。
程よい距離でつきあえば(求婚しなければ)長くつきあえたのか。
最後に桜の季節に会いに行った時には音楽評論家と切れていたのだろうか。そもそも評論家はウンスに求婚しただろうか?キムチを漬ける事をのぞんだのか?そしてウンスは評論家を自分のアパートに招き入れたのだろうか。
浮気され続けたおばあさんは、純愛であっても時には不確かなものである事の暗喩なのか。
最後の草原のシーンでテープは上書きしたのだろうか?そう、ウンスが河原で口ずさんだ「好きにならずにいられない」の録音部分にだ。
そうやってウンスへの思いを断ち切ったのか。それとも”永久保存”されているのか。
(それにしてもあの河原のシーンはせつなすぎる。)
制作は2001年。そして今これを書いているのが2023年。
この20年余りの間に、監督が描写した関係性をどのように解いていくのか良いのか私たちは知っているのだ。
監督に認識があったのか定かではないが、今から思えば2001年ごろは、古い家制度が揺らぎ始める前兆が見られ、(だからこの映画でもウンスが結婚に対して後ずさりするシーンが描かれている)女性も揺れ動きながらも前に進もうとしていた時代と読み解けるのだが、観た感想では気まぐれな女性の振る舞いとの意見が多かった。
それでは熱をあげるサンウにウンスはウザイと感じて離れていったのか?
現在の意識から、ウンスは距離を詰めてくる(結婚の話や関係性の同一化など)サンウと”程よい”距離感を取ろうとしていたのではないのかと想像できる。
嫌いになった云々ではなく、ウンスにとっては結婚、ひいては家父長制度への従属から距離をおいた関係性を築こうとしたのではないのか。
でもきっとハッキリと言葉では説明できるものではなく、無意識に踏み込んでくる男は目に見えないバリアで弾かれたと感じて悩むのだろう。
ウンスは何度もトライして二人の距離を確認しようとするのだが、”古い”意識のサンウには制度自体への不満や疑問など浮かぶこともなく、なぜ自分を(を含めたサンウの家族制度)受け入れてくれないのかとしか思わない。
でもいつもいつもウンスはサンウを愛しているのだ。
だが一方でいつもいつもウンスはサンウだけの事を考えて生きているわけではない彼女の生活があるのだ。
紙で指を切ってふと思い出したサンウの祖母の事で再び連絡を取ったウンスだが、二人の間に新たな距離ができている事に気がつく。サンウが離れてしまったのだ。
この先サンウはどういう人生を選ぶのだろう。
何年か経って再会した時にサンウは彼女好みの男に変わっているのか。(今の時代ではありえる生き方である)
ウンスとの関係は思い切りがついて、キムチを漬ける女性と結婚しているのか、それとも年老いていく父親と共にキムチを漬けているのだろうか。
今なら言えるが、もしサンウがもっと言葉を発して「ウンスさんの事がどんどん好きになっていくのが止められない」と言えたら、もしウンスが「あなたの事が好きだけど結婚という形は無理」と言えてサンウが”新しい関係性”を築いて二人の関係を継続していこうと思えたら・・・それが2023年の”答え”じゃないのかと思うのだが。でもなぁ2001年はキム・ジヨンはまだ19歳なんだよな。
従来の制度の中で当たり前のように距離を詰め、相手は息苦しくて距離を取ろうとする中で、互いの気持ちを理解するには言葉で伝えるしかなかったのではないのかとは思うが、当時はまだ時代が追いついていない。
近年の韓国におけるフェミニズム文学状況を考えると2001年制作のこの映画は示唆に富むものである。
「冷静と情熱のあいだ」のように、女性視点でのバージョンをできれば女性監督で見てみたいものだ。
この映画で個人的に「春の日は過ぎゆく」のイ・ヨンエさまとなった。
「親切なクムジャさん」や「宮廷女官チャングムの誓い」のヨンエさまではなくウンスとしてのヨンエさまにゾッコンなのである。
しばらく思いつくままに改訂していくかもしれない。