
某月某日
5月23日づけの藤原新也さんのトークで、朝日新聞が主催する写真の新人賞「木村伊兵衛賞」の審査員交代の顛末が書かれている。
これを知ったのはツイッターのmitzkanoさんの書き込みでだが、mitzkanoさんの感じるところとsatoboのとは多少違っていたので返信したのだけど、140文字ギリギリまで使っても伝える事が難しいかと、ここで141文字目から書き加えるなり。
詳しくは藤原さんのトークを読んでとなるのだが、藤原さんはじめこれまでの審査員の方は、賞の趣旨に沿って新たな新人を選出する事に努力を重ねてきたと思う。
それでも受賞者に対して選出の疑義をとなえる事も近年多くなってきたと思うが、そりゃ仕方ないだろうと思う気持ちもある。
ないものからは選べないのだ。
ネット社会となり、これまでとは違う情報社会となり、写真を撮っている人の情報もずっと知れ渡る事となった。
つまり多くの写真家の「写真情報」をネットでも知る事が出来るようになったのだ。
それらを見る限り、「第三の新人」と呼べる世代はまだ訪れていないのではと思える。
そう思うのはsatoboの個人的なもので、そんなに写真の事を知っているわけでもないし、評論など出来る力もない。
でも、何十年か生きてきて、写真も見続けてきたけど、では今を表現する力を持った写真家が現れているかと言えば、いないよなぁを思うのだ。
草食系写真が多いのだ。
それが時代を反映していると言えばそうだが、はたして表現して草食系なのか。
草食系が撮影した写真と、草食系の写真とは意味が違うだろう。
個人的には「表現」なんてものは何でもアリだと思っているので、色々な意味でビックリするようなものが出てくる事を期待するのだけど、なかなか写真以外でもそうだけど、スゴい人は出てこないよね、そうそう。
だからといって、これまでに評価の定まった表現方法に従ってみても「時代遅れ」である。
時代遅れだからダメだと言うのではない。
そういう表現をしてきた人はそうすればイイ。
ただ、「これからの」新人が同じ表現をしてもダメだという事だ。
今更、土門拳のリアリズムを再現しても「時代」が違うだろうという事だ。
今の時代の表現は何か?
それを表した写真、写真家に今と今後を期待するのが筋だろう。
そういう賞のひとつが木村伊兵衛賞だと思うのだ。
でも審査員が交代するそうだから、どうかな?
こんなんじゃ、ダメだよ!
という審査員(文芸賞にもいるタイプ)では、新人は出てこない。
芽をつぶして、自己自慢(それも過去の)に浸るだけだ。
かといって、そんなものをぶっ飛ばす若手もいなさそうだ。
実力はあるけど、それが個性的で将来が期待され、時代とともに生きる人かと言われれば未知数という人が多いだろう。
ハッキリ言って選ぶ方も選ばれる方も人材不足なのだ。
だから木村伊兵衛賞はこれにてオシマイというのが現実的でイイのではないか。
賞なんかなくても表現者は出てくる時には出てくるものだ。
体制側の偉いサンが列席する「報道写真」って、やっぱりヘンだと思う。
5月23日づけの藤原新也さんのトークで、朝日新聞が主催する写真の新人賞「木村伊兵衛賞」の審査員交代の顛末が書かれている。
これを知ったのはツイッターのmitzkanoさんの書き込みでだが、mitzkanoさんの感じるところとsatoboのとは多少違っていたので返信したのだけど、140文字ギリギリまで使っても伝える事が難しいかと、ここで141文字目から書き加えるなり。
詳しくは藤原さんのトークを読んでとなるのだが、藤原さんはじめこれまでの審査員の方は、賞の趣旨に沿って新たな新人を選出する事に努力を重ねてきたと思う。
それでも受賞者に対して選出の疑義をとなえる事も近年多くなってきたと思うが、そりゃ仕方ないだろうと思う気持ちもある。
ないものからは選べないのだ。
ネット社会となり、これまでとは違う情報社会となり、写真を撮っている人の情報もずっと知れ渡る事となった。
つまり多くの写真家の「写真情報」をネットでも知る事が出来るようになったのだ。
それらを見る限り、「第三の新人」と呼べる世代はまだ訪れていないのではと思える。
そう思うのはsatoboの個人的なもので、そんなに写真の事を知っているわけでもないし、評論など出来る力もない。
でも、何十年か生きてきて、写真も見続けてきたけど、では今を表現する力を持った写真家が現れているかと言えば、いないよなぁを思うのだ。
草食系写真が多いのだ。
それが時代を反映していると言えばそうだが、はたして表現して草食系なのか。
草食系が撮影した写真と、草食系の写真とは意味が違うだろう。
個人的には「表現」なんてものは何でもアリだと思っているので、色々な意味でビックリするようなものが出てくる事を期待するのだけど、なかなか写真以外でもそうだけど、スゴい人は出てこないよね、そうそう。
だからといって、これまでに評価の定まった表現方法に従ってみても「時代遅れ」である。
時代遅れだからダメだと言うのではない。
そういう表現をしてきた人はそうすればイイ。
ただ、「これからの」新人が同じ表現をしてもダメだという事だ。
今更、土門拳のリアリズムを再現しても「時代」が違うだろうという事だ。
今の時代の表現は何か?
それを表した写真、写真家に今と今後を期待するのが筋だろう。
そういう賞のひとつが木村伊兵衛賞だと思うのだ。
でも審査員が交代するそうだから、どうかな?
こんなんじゃ、ダメだよ!
という審査員(文芸賞にもいるタイプ)では、新人は出てこない。
芽をつぶして、自己自慢(それも過去の)に浸るだけだ。
かといって、そんなものをぶっ飛ばす若手もいなさそうだ。
実力はあるけど、それが個性的で将来が期待され、時代とともに生きる人かと言われれば未知数という人が多いだろう。
ハッキリ言って選ぶ方も選ばれる方も人材不足なのだ。
だから木村伊兵衛賞はこれにてオシマイというのが現実的でイイのではないか。
賞なんかなくても表現者は出てくる時には出てくるものだ。
体制側の偉いサンが列席する「報道写真」って、やっぱりヘンだと思う。
写真を評価するということ自体写真らしくないですし
反体制が基本です。
なにか新しいものが出てくる「機会」になればと期待しているだけですが、最近はその期待も望み薄のようです。
むしろ自分の好き勝手にしている事が誰かの注目を集める時代が来ているような気がします。
それは「世に出る」とか「賞を狙う」とかの話ではなく、まったく自分のためだけに作品を作って楽しんでいるレベルの。
これまでの自己満足とは異なる自己が最大の批判者である作家の作品。
そんなものがどこかに埋もれているような期待をしているのですけど。
50年後ぐらいにファンができる為には、どこかで保存してもらわないと。という作品を少しずつ作って行こう。