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ゆとり教育 ゆとり社会

2017年10月25日 | Weblog
授業にゆとりを持たせて自発的な勉強をうながしたのが”ゆとり教育”だったが、実施した結果、勉強などせずに遊んでばかりいたバカにほとんどがなってしまったことに危機感をいだいた政府は、従来通り、あるいはより一層詰め込み教育を始めたわけだが、社会においても同じ状況になっているのではないのかね。

自民党の安倍政権が言っているのは、民主主義の国民主権だとグダグダ言うばかりで何も決まらないから、主権を国家にくださいよ(戻しなさいよ)、悪いようにはしないからさ、というものなんだけど、今度の選挙を見ていると「そうだよなぁ、ゴタゴタ、グダグダばかりで何も決まらないよなぁ」と思う人が多くて、それなら自民党に入れてハッキリ決めてもらおうかなという気持ちが結果になって現れたと思うんだよね。
安倍政権になってからというもの、大企業に対しては”ゆとり政策”を施して企業の自発的な発展を促進させようとしたんだけど、現実的には教育と同様に遊んでばかりいたのは円安によって難しいことを考えなくてもとりあえずは利益は上がっているし、リスクを負って何かを生み出そうとしても減点主義だから失敗すると叩かれるしと、しないことの言い訳ばかりが先だったからなんだろうね。
一方で、神戸製鋼や日産とか東芝みたいに、必要なことにまでお金と人をかけることをやめてしまった結果がつじつま合わせの書類作成でお茶を濁すという事務仕事だけで済ませるという体質になってしまったんだけど、それも急速に変化する社会に自社の取り組みが追いつかない、あるいは取り組まないという”効率化”の結果なのではないのかね。
とりあえずは利益は確保されるんだし。
そうやって過去の遺産で食ってきた企業社会も深層では現実に対する焦りを人々に与えるんだろうけど、今のところそれが「まだまだ大丈夫」「まだ一流」「こんなもんじゃない」という言い訳で済んでいるんだろうけど、何をするわけでもないんだからどんどんヤバくなってくると、そのうち「なんとかしろ」とまさしく他人事の声も大きくなってくることが容易に想像できるね。
自分じゃ何もできないし、何もしないけど、このままじゃ困るからなんとかしてほしい。
これが今後の日本の”ナショナリズム”になるんじゃないのかね。

そこで「任せなさい。やりましょう」というのが安倍政権の政策なわけですよ。
ただし国民主権だと決まらないので、我々がリーダーになった国家主権で行きますよ、というわけです。
まあこれまでも散々リーダー待望論などが国民の側からも出てきているわけですけど、リーダーが決めて国民が従うというような民主主義国家など現在ほとんどないんですよ。それは結局うまくいかないことがこれまでの歴史でわかっているから。
あるとしたら北朝鮮とか中国とか(笑)。
でもそこって国家主権国家じゃないですか。
そんなのは中国や朝鮮嫌いな人たちは知ってるじゃないですか。
ところがそんな嫌いな国がしているシステムを、そんな人たちが好きな安倍政権でやろうとしていることに矛盾がある(笑)
また少なくともわが国では自らがリーダーを自認するする人たちの能力はおしなべて低い。
だいたい中国やソ連(死語)なんかでも、失敗は隠蔽して書類上は成功していると見せかける”腐敗が横行して、反する声は消されたわけですよ。
なんだか今の日本も似てきてますけどね(笑)
そうやってやっぱりグズグズグダグダがどうしようもなくなって国家主権から国民主権に変わっていった歴史があるにもかかわらず、簡単に問題を解決しろとか、難しいことはわからんとかいって、もう一度主権を国民から国家に預けるからなんとかしてほしいと国民が安易に思うようになったんだからどうしようもないよな。
そんな思考で新たな製品やサービス、新しい社会のカタチなんか他の国に先駆けて生み出せるわけがないじゃない。
まさしくゆとり社会の弊害が出ているわけですよ。
きっと社会に対しても国家主導の詰め込み指導が始まりますよ、教育みたいに。
ちなみに近頃の企業不正なんかはゆとり世代が引き起こしたものではなく、その前の詰め込み世代がしでかしたものですから。
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