僕は今、ある講義で鷲田清一の『待つということ』(2006)を読んでいる。僕自身、鷲田さんのファンであり、彼の考えに共感しているが、ただそれだけでなく、今の教育や福祉の世界で今以上に彼の思想を必要とする時代はないと思うので、この本を取り上げている。
前期の講義では、「愛すること」について話をした。下敷きはエーリッヒ・フロムであるが、できるだけ自分たちの体験に即した形で議論してきた。僕自身の問いは、「Beの恋愛」って一体どんなものなのだろう?というものだった。
エーリッヒ・フロムにならえば、Haveの恋愛は「所有する恋愛」であり、Beの恋愛は「活動する恋愛」ということになるが、それだとイマイチピンとこない。二人の間に居心地の良さが生じたとしても、その「居心地」はやはり所有されるべきものであり、Haveになってしまうのではないか。「相性が良い」というのも、よくよく考えてみれば、やっぱり「所有しておきたいもの」であるし、やはりHaveである。Beの恋愛は、一体どういう状態のことをいうのだろう?
そんなことを考えながら、鷲田さんの本を読むと、うっすらと見えてくるものがある。
鷲田さんはこの本の中で繰り返し、「待つことを放棄した『待つ』、というのがあるのではないか?」と問いかける。目的語のない「待つ」。未来完了形の形で期待することのない「待つ」。自分が何を待っているのかも分からないような「待つ」。諦めの向こう側にある「待つ」。彼の言葉で言えば、「期待を棄てたところでこそほんとうの<待つ>がはじまる」(p.184)という「待つ」である。
恋愛に当てはめても同じことが言えるだろう。愛することを放棄した「愛する」。愛するべき対象のない「愛する」。目的語のない「愛する」。未来完了形で愛することを期待しない「愛する」。自分が何を愛しているのかも分からないような「愛する」。諦めの向こう側にあるような「愛する」。期待を全部棄てたところの「愛する」。
こうやって書いてみると、やはりイマイチピンとこない。何なんだ? そんな「愛」があるのか?
でも、ほんとうに愛することに長けている人を考えると、なんとなく分かる気もするのだ。なんとなく愛を感じる人柄の人、誰をも受け入れるだけの深い愛をもつ人、性愛への執着を克服した熟年の夫婦、すべての子どもを愛し、懸命になって子どもの世話をする保育士や教師、あらゆる人間を赦し、あらゆる人間を受け入れる弁護士や医師・看護師や神父・牧師や住職や刑務所職員など。
こういう人たちを考えると、目的語のない「愛する」がなんとなくピンとくる。彼らには具体的な目的や目標や課題がない。当然仕事上の任務はあると思うが、その根底に「愛する」ということが作動している。常に、いつでも、どこでも。
Haveの恋愛には「終わり」があるが、Beの恋愛には「終わり」がない。そう考えてもいいかもしれない。「トキメキ」は終結するが、「愛する」は決して終結しない。常に作動し続けている。恋に恋する少年・少女は一時の高揚で他者を愛するが、愛することに長けている人は決して高揚しない。足元がぐらつかない、というか、ぶれない、というか、落ち着いている、というか、そういう安定感がある。
よく夫婦円満の秘訣は「忍耐」と言われるが、やはりこれも間違っている。愛することは耐え忍ぶことではないのだ。忍耐を諦めた時に、愛することが作動するのだ。忍耐は、期待と表裏の関係にあると思う。期待があるからこそ、耐え忍ぶのである。また、「いつかきっと必ず・・・」という期待があるからこそ、耐えることができるのである。期待がなくなれば、きっと普通の人なら「別れ」を決意するだろう。通常の恋愛とはそういうものである。
けれど、鷲田に言わせれば、そういう忍耐や期待を捨て去った時にこそ、ほんとうの恋愛が始まる、ということになる。上の例で示した「居心地のよさ」や「相性のよさ」さえもなくなった時に、ほんとうの「愛する」が始まるのだ。
多分、それが「Beの恋愛」なのだろう。前に僕は、You are・・・やI am・・・という表現でBeの恋愛を示した。が、それは間違っていたのかもしれない。ほんとうは「Love is」と表記すべきだったのかもしれない。
鷲田さんは、「『応え』の保証がないところで、起こるかもしれない関係をいつか受け容れられるよう、身を開いたままにしておくこと」が、「待つこと」だと度々この本で言っている。そして、本の最後の方では「イニシアティブを放棄すること」が待つことだとも言っている。ここから学べることは、愛することの主体は自分ではない、ということだ。むしろ、愛する行為の主体である「自分」のイニシアティブ(私は愛している)を放棄したときにこそ、ほんとうの「愛する」(Beの恋愛)が始まるのだ。
愛に何も期待することなく、愛する主体である「私」を意識しなくなったときにはじめて、Beの恋愛が始まる、と言っていいのかもしれない。