東京都目黒区で、痛ましい虐待事件が起こった。
5歳になる結愛ちゃんが、義父の暴力やネグレクトによって死亡した。
この事件は、僕がここで説明しなくても、皆が知っていることだろう。
先週は、もうこの事件のことばかりが繰り返し報じられた。
この事件が世間で注目されるきっかけとなったのが、彼女が残したと思われる「文章」だった。
彼女の「文章」を何度も何度も読んで、この記事を書くことを決めた。
色んな人がこの事件について色々と言っている。
僕の意見をここで記しておきたい。
(「常識的」にしか物事が考えらない人は、以下読まないでくださいね)
まず、結愛ちゃんの残した「言葉」を再読したい。
ママ もうパパとママにいわれなくても
しっかりじぶんから きょうよりか
あしたはもっともっと できるようにするから
もうおねがい ゆるして ゆるしてください
おねがいします
ほんとうにもう おなじことはしません ゆるして
きのうまでぜんぜんできてなかったこと
これまでまいにちやってきたことを なおします
これまでどんだけあほみたいにあそんだか
あそぶってあほみたいだからやめる
もうぜったいぜったい やらないからね
ぜったい やくそくします
この結愛ちゃんの言葉をどう読めばよいか。
そして、この言葉から、今後の虐待対策をどう考えればよいのか。
また、このような悲しい事件を二度と繰り返さないためにどうすればよいのか。
このことについて、幾つか論点を絞って、考えたい。
①今回の事件は、「パッチワークファミリー(ステップファミリー)」の問題である。
既に明らかになっているが、結愛ちゃんの母親の優里さんは雄大氏と「再婚」している。なので、結愛ちゃんは「再婚家庭の子ども」ということになる。更に、優里さんと雄大氏の間に子どもがいるので、「パッチワークファミリー」と言っていいと思う。まだ日本ではあまり知られていないが、ドイツではかなり認知されている「新しい家族の形態」である。日本では、「ステップファミリー(義理家族)」とも言う。
メディアではほぼこの言葉は使われていないが、パッチワークファミリーを生きるためには、知っておかなければならないことがたくさんある。その一つが、「新しいお父さん(雄大氏)」と「前のお父さんの子ども(結愛ちゃん)」の関係構築の難しさだ。母親や新しいお父さんがどう思おうと、どう言おうと、子どもにとっては、「前のお父さん」が「本当のお父さん」だ。だから、「新しいお父さん」は、子にとっては「エイリアン」なのだ。(*シュトロバッハさんの『離婚家庭の子どもの援助』より)
雄大氏は、「言うことを聞かなかったので、4,5日前に顔面を殴った」と言っているという。それ自体、絶対に認められることではないが、僕らは「なぜ言うことを聞かなかったのか」について、真面目に考える必要がある。
日本では、パッチワークファミリーの情報が極めて少ない。少ないだけじゃなくて、話題にならない。僕も、シュトロバッハさんの本の翻訳をしたり、パッチワークファミリーの論文も書いたりしているけど、全くレスポンスはない。「赤ちゃんポスト」や「匿名出産」については色々と尋ねられたり、取材を受けたりしているけど、それよりも前からやっているこの研究には、全く関心をもたれない。離婚することが当たり前になり、母子家庭の貧困の問題が取り上げられ、それを抜け出すために、「再婚」する女性や男性が増えている。「再婚」まではスムーズにできても、「連れ子」がいる場合、新しいお父さん(お母さん)と連れ子のいるお父さん(お母さん)は、どちらも、パッチワークファミリーについて学ばなければならない。
でも、そういう話に全くなっていない。
また、一方だけに連れ子がいる場合のその親(優里さん)の心理的プレッシャーについても考えなければいけない。優里さんは、逮捕後に「自分の立場が危うくなると思った」と述べている。それは「DV」かもしれないし、また「経済的立場」だったかもしれない。
②今回の事件は、緊急下の女性(夫婦)の問題ではない。
虐待死については、僕もこれまで色々と書いてきたし、論じてもきた。虐待死の中には、「緊急下(in need)」の場合と、そうでない場合(慢性的に持続的に行われる場合)がある。結愛ちゃんの場合は、前者ではなく、後者である。虐待を示すMaltreatment(Misshandlung)の意味は、「不適切な子育て」「不適切な子どもへの関わり」「不適切な養育」である。今回の事件は、まさにmal=「悪い」「悪質な」「悪性の」トリートメント(子の扱い)だった。
ゆえに、今回の事件は、赤ちゃんポストや内密出産では救えない事件だったと言える。親自身が「緊急性」を認識していなければ、どうにもならない。恐らく、雄大氏も実の母の優里さんも、「子どもを捨てたい」「子育てを放棄したい」とは思わなかっただろうし、思ったとしても、手放すことはしなかっただろう。虐待問題や、虐待後の措置の問題、すなわち親権をめぐる問題では、「虐待を繰り返すのに、親権は絶対に放棄しない親」の問題が潜んでいる。乳児院や児童養護施設に入所している子どもの「養子縁組」がなかなか進まないのは、親が親権を放棄しない(できない)からだというのは、この業界では「自明」の話。
だから、赤ちゃんポストや匿名出産といった「匿名支援」とは異なるアプローチが必要になる。
ただ、だからといって、児童相談所の権限を強めるとか、親権制限をもっと強めるとか、そういうアプローチでこの問題が解決するとは必ずしも言えない。そのことを警告するYouTubeもあった。(こちらを参照)
どういう支援があったら、この家族全体を救えることができたのか。今のところ、それを提示する記事やコメントは見当たらない。僕としては、①の話と関連して、まずは「パッチワークファミリーの作り方」というか、「パッチワークファミリーを生きるにあたって、予想される困難」をきちんと伝えていくことだと思う。(義理父に連れ子が殺される事件は、ずっと繰り返されている)
③今回の事件は、「日本の子育て」の根深い問題を表している。
今回の事件がメディアやSNSで話題になって、また、上に挙げた結愛ちゃんの手紙を読んで、強い怒りを感じた。でも、それは雄大氏や優里さんに対してというよりはむしろ、それを「傍観する人々」に対して、だ。その中には、テレビの中で、結愛ちゃんの手紙を涙ながらに読み上げるアナウンサーやそれに共感するコメンテーターも含まれる。
僕は、「教育」や「子育て」について研究している人間だ。しかも、そのベースには、ヨーロッパの教育学や子育てがあって、日本の教育や子育てを批判的に見ている。
結愛ちゃんのこの手紙、「虐待で殺された結愛ちゃんが書いた手紙」というフィルターを外して読んでもらいたい。「虐待されていないけど、厳しい家庭で育つ子どもの手紙」と思って読んでもらいたい。
どうだろうか。
それほど驚くほどの文章ではないのではないだろうか。いや、文章を書いたという点で凄いが、5歳の女の子なら、かなりの文章は書ける。今の子たちは、相当の「教育」を受けているから、5歳の女の子なら相当書くことができる(子もいる)。これを、本人が書いたのか、それとも親に書かされたのかという議論もあるが、そこは問題ではない(言葉はそれ自体、親や教師や保育士から教わるものだから)。
そうではなく、この文章に書かれていること全部が、日本の子どもにとっては、実はとても当たり前に言っていること=言わされていることなのではないか。
「もうパパとママにいわれなくても しっかりじぶんから きょうよりか あしたはもっともっと できるようにするから」は、それこそ、虐待を受けているかどうかは問わずに、言わされている言葉ではないか? 「言われなくてもしなさい!」「なんども同じことを言わせないで!」「なんでこんなことできないの?」「どうしてできないの?」…、日本の親は、とにかくこういう言葉を日常的に「吐く」。多くの親が「なんでできないの!!」と子に向かって叫んでいないか?
「もうおねがい ゆるして ゆるしてください」という言葉も、厳しい家庭の子どもは、みんな言っている言葉ではないか? 「ゆるしてください」、その言葉を言う子どもを何人見てきただろう。「ごめんなさい」「ゆるしてください」、そうやって大人に「謝罪」する子どもがどれほどいることか。僕の学生の中にも、「すみませんでした」「ごめんなさい」とすぐに言う子がいるが、話を聴くと、厳しく躾(というマルトリートメント)を受けて育ってきたことがすぐに分かる。
「きのうまでぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことを なおします」というのも、普段、日本の親が言いがちなことを見事に示している。「あんたはぜんぜんできない!」「ぜんぜんダメ!」「できないことはすぐに直しなさい!」、父母に限らず、日本の親がすぐに子に言ってしまうことそのものではないか。(僕的には、子どもには一回たりとも、「ぜんぜんできない」と子どもに言うべきではないし、なおすことも一つもない、と考えている。ルソー派なので…)。
「これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめる」という言葉を読んだ僕は、失神しそうになった。この一文は、まさに「日本の教育そのもの」ではないか!、と。僕は「子どもの仕事はただ遊ぶこと」だと思っているが、日本の親たちは、「遊んでないで!」「遊んでばかりいないで!」「遊ぶんじゃない!」「遊んでいる子はバカだ」、と普段から言いがちではないか? 遊ばせないで、塾に行かせたり、遊ばせないで、スマホやTVやDVDを見せるだけだったりとか。「どんだけあほみたいにあそんだか」とあるが、もしかしたら、離婚前のことを言っているのかもしれない。再婚前は自由に遊べていたのかもしれない。
(彼女の名前は「結愛」=「愛を結ぶ」「結ばれた愛」だ。生まれた時、すなわち5年前は、親からそういう思いをもたれていた、ということだ。少なくとも、生まれた瞬間、名づけられた瞬間は、母親に愛されていた。そこを僕らはもっと重く受け止めなければならない。優里さんの状況を改善することができたら、最悪な事態は防げていたかもしれない。また、恐らく再婚直前直後は、義父もそれほど酷くはなかったと予想される。もし再婚前にそういう男だと分かっていたら、再婚はしなかっただろうから。つまり、義父も再婚後に「変わった」、「変貌した」と。)
最後の「ぜったい やくそくします」というのも、躾の厳しい家庭で育つ子の「常とう句」ではないか? 「いい、約束だぞ」「約束やぶるなよ」「約束をやぶったら、…」、日本の親が言いがちなフレーズそのものではないか。
以上、全文を見てきた。
この文章から、僕らは学ばなければいけない。認識しなければならない。
結愛ちゃんのように育てられている子どもは、まだまだたくさんたくさんいる、ということを。
というか、日本人の子育て観そのものではないか!、と。
だから、今回のこの事件の報道やコメントをみて、怒りが強烈にこみ上げてきた。「なんで、そんなに他人事のように言うんだよ!?」、と。親だけじゃない。保育士や教師も、この結愛ちゃんの言葉を、自分への言葉だと捉えなければいけない。それを意識していない人が最も問題だ。「結愛ちゃん、かわいそう」と言いながら、自分の子どもに(自分の園児たちに)同じようなことをやっていないか?、言っていないか?と。
子どもは、親に謝る必要なんてないの。子どもは、何度も何度も同じ間違いをして、それでようやく自分でやめるようになるの。遊べばいいの。遊ぶことが子どもの最大の仕事なの(それが分からない人はホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んで!)。
できないことなんていいの。できなくていいの。できる必要もないの。できないことを詫びなくていいの。
だいたい、大人だって、何にもできないじゃないか。偉そうに言っている大人のあなた、何ができるの? 何かすごいことができるの? 自分が大したことないのに、子どもに(子どもにとって)大したことを求めないでほしいの。子どもは、ただ存在しているだけで、すごいパワーをもっているの(それが分からない人は、世阿弥の「風姿花伝」を読んで!)。
ここまで読んでくれた人は、もう、雄大氏や優里さんをただ「悪人」として叩くことはしないと思う。
叩くべきは、この日本で渦巻く歪んだ子育て観の方だ。子どもは親や保育士の「所有物」ではないのだから。
マルトリートメントという観点で見れば、日本の子どもはほとんどが虐待を受けているのだ。(やや誇張して言っています…)
結愛ちゃんの命を無駄にしないためにも、またこういう事件を二度と繰り返さないためにも、僕らはもっと熟考しなければならない。ミクロレベルで「どう対応するか」だけではダメで、もっと大きな問題としてこの事件を捉えなければならない。さもなくば、また同じように、親の行き過ぎたトリートメントによって、子の命が奪われるだけだろう。
僕らはもっと子育てについて学ばなければならない。そして、伝えていかなければいけない。
子どもを作る行為は「快楽」であるが、子どもを育てる行為は「知的(理性的)」である。また、子どもを作る行為は、私事であり、極めてプライベートな営みであるが、子どもを育てる行為は、社会的であり、公共的(public)であり、連帯的であり、共同的である。
…
【補足1】()
この結愛ちゃんの事件と同じ時期に起こった「新幹線殺人事件」の小島一郎氏(22)もまた、父親(52)に、マルトリートメントを受けていたと想定される。
週刊文春(6月21日号)に、彼の父親のインタビューが掲載されていた。彼は、新幹線内で「なた」で殺人行為を働いた一郎氏に対して、とても厳しい教育(という名の虐待)を行っていたと思われる。そんな父と子を知る人がこう語っていた、という。
「父親は『男は子供を谷底に突き落として育てるもんだ』という教育方針で息子に厳しかった。共働きのS家(Sは実父のこと)では同居している(父方の)祖母が食事の用意をしていたようですが、『姉のご飯は作ったるけど、一郎のは作らん』とよく言っていた。実質的に育児放棄されていた。一郎君と家族の会話はだんだんと少なくなっていったようです」
この記事を読む限り、一郎氏の親と結愛ちゃんの親は、似たような行為をしていたように思う(もちろん「程度」は異なるが…)。
結愛ちゃんの父親(と母親)を責める人は、考えてほしい。もし結愛ちゃんが「男の子」で、もし彼女が今回殺されないで育っていたら、どんな22歳になっていたか、を。
逆も考えてほしい。もし小島一郎氏の親が、結愛ちゃんの父親の雄大氏だったとしたら…
「善」と「悪」が反転するのではないだろうか。
【補足2】
上で紹介したシュトロバッハさんの『離婚家庭の子どもの援助』、Amazonでまだ購入できます!是非!
ちなみに、出版社の「在庫」はもうありません。再版の見込みもありません。
再婚家庭・パッチワークファミリーの子どもを支える上で重要な視点がいっぱい提示されています!