先日、学生から、こんなコメントをもらった。
先生のことは苦手だし、
先生の講義も難しくて正直よく分かりませんが、
いつも充実している気がしています。
他の先生だったら、こういうコメントをもらったら喜ぶんだろうか。それとも、悲しんだり、ショックを受けたりするんだろうか。
僕は、この上なく、嬉しかったし、喜びとなった。
僕自身の教育哲学かもしれないが、教師自身が愛されるのではなく、教師のしていること(講義や授業など)が愛されることが、教育において最も尊いことなのだ。教師の顔が思い浮かぶよりも、教師が行った講義や授業の内容を覚えていてくれるほうがずっとずっと尊いし、稀有なことだ。「僕」という人間が認められるのではなく、僕が「語ったこと」が認められることの方が、「僕」にとっては重要なのである。
きっと、この学生は僕のことをあまり好いてはいないだろう。苦手なのだ。嫌ってくれていい。けれど、そうした好き嫌い感情を飛び越えたところで、僕の仕事を認めてくれている。それが嬉しい。
このブログも同じだ。keiという人間がどんな人間で、どんなことをしているのかを読み手に分かってもらいたくて書いているわけじゃないし、読み手に認めてもらいたいわけではない。僕の書いたもの(「記事」)が、読み手の心に届いてくれたらいいな、と願っている。
ラーメン屋さんの記事だったら、その記事で取り上げられているラーメン屋さんの魅力や良さや良いところを伝えて、それが伝わればよい。音楽の記事だったら、僕が好きかどうかではなく、その音楽の魅力が読み手に伝わればよい。ドイツの記事だったら、ドイツの素晴らしさが伝わればそれでよい。それを書いたのがkeiかどうかは、問題じゃない。そこが、僕がブログにひかれる魅力なのだ。
どのみち、「kei」という人物(書き手)は、匿名のXだ。匿名であり、何ものでもない存在だ。しかし、記事の内容は匿名ではないし、実際に内容が示されている。匿名というと、なんかネガティブなイメージがつきまとうが、匿名だからこそ、「書かれた内容」だけで勝負ができる、とも言えなくもない。個人のブログは、面白くなければ読まれなくなるし、面白ければいつでも読みに来てもらえる。
人物ではなく、その内容。
誰が言ったかではなく、何を言ったか。
そして、好き嫌いではなく、端的に満足できるかどうか。
それが問題だ!
*好きか嫌いかで判断することの方が多いとは思うが、好き嫌い以外の判断も大切にしたいところだ。嫌いだけど惹かれる、好きだけど深みを感じない、というふうに、好き嫌いを越えた判断というのも、やはり人間の智恵だと思う。