Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

40年ぶりに野口英世記念館へ!ー野口英世から学ぶ「急がない学び」について!

40年ぶりくらいに、再びやってきました!

野口英世の生家

へ!!

1000円札でも有名な野口英世先生の生家です。

ここは、僕が小学生の時に家族で来たことのある場所です。

40年の時を経て、再びやってくることができました。

40年前はまだ、この生家だけが保存されている状態でした。

今は、ちゃんと「博物館」となり、巨大な屋根?も付いています。

登録有形文化財として、きちんと保存されているのが分かります。

野口博士生家と書いてあり、登録有形文化財と記されています。

この野口先生の生家のことは、朧げにしっかりと覚えています。

この生家で生まれ、そして、大やけどをしたのでした。

野口先生は、1976年生まれなので、僕より99歳年上の人であります。

この囲炉裏のことを、ぼんやりと、でもはっきりと覚えていたんです。

小学生の僕は、「ここで大やけどをした人が後に世界にはばたくんだ?」って思いました。

この囲炉裏のことだけは、脳裏に焼き付いていて、、、

小さな赤ん坊がこの囲炉裏に転落して、大やけどをしたんですね。

赤ん坊のモニュメントも置いてあり、その大きさが分かります。

こんなところに転落して、片手の大やけどだけで済んだことも「奇跡」かも…って。

志を得ざれば 再び 此地を踏まず

野口先生の有名な言葉ですね。

19歳で、英世は上京したとされています。

彼は、高等小学校を卒業した後、19歳で上京し、当時の医師養成校(現日本歯科大学)を出て、世界の「NOGUCHI」になっていくんですね。僕は、この頃の野口先生の学びについて、もっと知りたいって思いました。

野口先生が養成校に入ったのは、1897年のこと。1876年生まれなので、21歳で進学したということになります(19歳から21歳までの間、彼は何をしていたんだろう??…)。しかも、半年くらいで卒業しているっていう…💦

18歳総進学主義の日本ですが、別に18歳で進学しなくても、また、大学を出なくても、優れた研究者になれる、ということを、19世紀の日本で生まれた野口先生が実践していたのだから…。

大学進学なんて、急ぐ必要はない。したいことがちゃんと見つかった時が、学びのスタートなんだって。

実際、野口先生は世界に飛び出て以降、一度だけしか帰郷していなかったんですね。

51歳で亡くなった野口先生、大人になってからは一度だけ、この猪苗代に戻ってきたっきりなんですね。

家の間取りはこんな感じでした。

わりと広い家だなぁって思いましたが、この地では特別大きな家ではなかったんだとか。

裕福な家の生まれかと思っていましたが、違うんですね。

生家の前のお庭の片隅に、石碑も二つ並んでいました。

忍耐って書いてあります。

その下には、Honesty is best policyって書いてあって、その下にフランス語の文字も書いてあります。

1915年に書かれた自筆なんだそうです。

すごく達筆だったんですね、野口先生って。

その解説もありました。

どちらの言葉も、15年ぶりに帰国した際に一度立ち寄った時に書かれたものらしいです。

そして、野口先生が囲炉裏に転落した時に、母親のシカがいた場所です。

生家からそんなに遠く離れた場所ではなかったんですね。

だから、赤ん坊の泣き声を聴いて、すぐに駆け付けられたんでしょうね。

あんな囲炉裏に赤ちゃんが転落したら、自力では脱出できなかったでしょうし…

この生家の隣りに、大きな記念館(博物館)があります。

野口先生もおられました(笑)

51歳で亡くなったんですよね。僕が49歳なので、若くしてなくなったんだなぁって思います。

でも、僕くらいの年齢の時に、野口先生は世界中ですでに活躍していて、、、

なんか、「凄いなぁ…」って思うしかありませんでしたね。

野口先生の父親は佐代助さんで、母親がシカさん。

シカさんのお手紙も展示されていました。

これが、シカさんが英世にあてた手紙です。

ちょっと読むのが大変ですよね、、、

読み下し文も展示されていました。

これを読むと、シカの英世への思いが伝わってきますね。

この記念館では、野口先生の一生を辿ることができます。

猪苗代・会津若松時代から。

そして、東京時代へ。

もともとは「清作」という名前だったみたいですが、自分の意志で「英世」に改名しているんですね。

その理由を聞くと、野口英世のもう一つの側面?人格?が見えてきそうです。

改名の理由についてはこちらを参照

アメリカ、そしてデンマークに行っていたんですね。

語学に強かった英世は、当時からグローバルな人だったんですね。

1度きりの帰国、というのがすごく印象的でした。

野口先生は海外に飛び出てからは、15年後に1度だけ帰国しただけでした。

だから、今風に言えば、「海外の研究者」になったわけですね。

学者になってからは、日本での生活はほぼしてないってことになります。

これ、個人的に感激しました。

当時の「パスポート」ですよ!!

当時の日本のパスポートって、こんな感じだったんですね。

こちらが裏面で、中国語と英語とフランス語が書かれてありました。

その当時から、中国語ってやっぱり世界の言語だったんですね。

帝国大学を出ていない野口先生が、世界で活躍したという話が興味深かったです。

若き日の野口先生は、外国語の勉強に励み、翻訳や通訳の仕事もしていたんですね。

語学ができるっていうのは、やっぱり強いことなんですね。

野口先生が「語学」に強かったというエピソードも面白かったですね。

ある程度、語学の基礎ができていれば、学んでない言語でも理解できるっていうね。

今と違って、ネットとかもないので、とんでもなく大変だったと思いますが…

ここにも、「英語の語学力が堪能であった野口英世」って書いてあります。

野口先生は、帝国大学を出てはいないけれど、きっと誰よりも語学力があったんでしょう。

それに、過去の体験から「医学を極めたい」という衝動も誰よりも強かったことと思われます。

1899年の時点で、野口は英語、フランス語、ドイツ語、中国語を使えていたんですって。

凄いですね、、、(;´∀`)

やっぱり、語学って、人の状況を一気に変える力を持っているんですね…。

そうそう、TVでも前に報道されていましたけど、、、

AIロボットの野口先生もいました!!

なんか、リアルで見ると、すっごく人間に似ているところがあって、、、

見ていて、少し怖くなりましたね。なんか「意志」を持っているようで。

ただのロボットなのに、表情や顔の動きがリアルで、ちょっと怖かったなぁ、、、💦

野口英世記念館、とっても楽しかったです。

この記念館のお隣にあるのが、「ラーメン館」でありました!

この猪苗代にある記念館とラーメン館に立ち寄った後は駅に戻りました。

猪苗代駅は単線なので、こんな写真も撮れました🎵

さぁ、今から、今年二度目となる会津若松を目指します!

この線路の向こう側に、会津若松の町があるんです!!

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