今日の夕方過ぎ、うちの卒業生が母校にやって来た。僕とはたまたま会っただけなんだけど・・・
その卒業生の子は、在学中、僕とはほとんど言葉を交わしたことのない元学生で、僕の研究室にもほとんど来なかった学生だった。だから、どんな学生生活を送っていたのかも、どんな思いで学んでいたのかも、どんな学生なのかもまったくと言っていいほど知らなかった。(ただ僕はいつもコメントカードを書かせているので、どんな学生だったかはおぼろげに理解している)
その子はSKさん。学生時代のイメージとしては、真面目で普通で素朴でとりたてて問題のないお嬢さんっていう感じだった。だいたい僕に懐く学生はどちらかといえばマイナー系、ダウナー系、あるいは超アッパー系の子ばかりで、いわゆるフツーの学生は僕によりつかないケースが多い。簡単に言えば、超アクティブか、あるいはかな~りネガティブな学生が僕のところにやってくる。どちらにしてもコアな学生が多い。
SKさんは、どちらかといえば僕によりつかない(よりつけない?)学生だった。
けれど、今日話していて、とても嬉しいことをいってくれた。
「先生って、話しかけづらい感じがしてました。一部の熱心な学生がいつも先生のそばにいるので、私たちは近づきにくかったんです。でも、話してみたいなあとずっと思っていたんですよ。卒業した後も、先生の講義での話はよく思い返していました。『愛されることと愛することの違い』とか、『独学と修行』とか、、、時おり思い出しては、考えていたんです。今思い返すと、先生の講義が一番考えましたね」
おいおい、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。しかもするどいじゃないか。僕は学生たちと「先生づら」してかかわりたくないんだ。特別よく知り合ってもいないのに先生づらしたくはない。とりたててよく知らないくせに、分かった面して先生ぶりたくない。だから、親しくない学生とはこちらから積極的にかかわることもしない。好かれる努力もしない。ただ、講義や授業や演習ゼミなどで、どこか心に残るものにしたい、その思いだけは強い。
学生時代のSKさんとは直接的に対話をしたことはない。とりたてて「教育関係」を生きたわけじゃなかった。けれど、SKさんの心の中のどこか片隅で、僕の話した内容が残っていてくれていた。それだけで嬉しいし、それで僕の仕事は全うできた。そう思う。僕という人間そのものではなく、僕が話した事柄を記憶していてくれた。そっちの方が嬉しいのだ。
ただ、問題点もある。SKさんが話してくれたが、僕は親しくなった学生とそうでない学生との落差が激しい。僕は「関係性」から自分の在り様を決定していくので、どうしても関係のある人間と関係のない人間とでは対応の仕方が全然違ってきてしまう。一応「実存主義」を背負う僕はそれでいいとホンキで思っているが、学生たちの側からすればそういうのは嫌なようだ(現に今もそのようなことを言っている学生もいる)。この点は、僕もよく頭を悩ませるところなのだ。ただ小中高とは違うので、こちらからわざわざ近寄る義務はないと思っている。18歳以上の大人を相手にしているわけだから、こちらから「教育的配慮」をもって近づく必要はないはずだ。でも、そういうのを求める学生もいる、ということだ。
SKさんは就職をして、実際に先生になって、色々考えることがあったようだ。そして、彼女は自分の仕事の重さ、尊さに気付いたようだ。今後どのように化けていくか分からないが、僕は密かに応援したいと思う。是非素敵な先生になって、多くの未来の大人たちを育てていってほしいと願う。
こうやって卒業後に「出会う」教え子っていうのもいるんだなぁ~としみじみ。。。
*その昔、僕の師匠の師匠だった故早坂先生が或るレストランで僕らに問いかける姿が思い出された。「この時代、ほんとうの意味で『出会い』というのが消えつつあるように思う。いったい『出会い』って何だと思う? もっと『出会い』ということについて考えてもよいと思う」、と早坂先生は語りかけてくれた。まだ20歳そこそこの僕は何を言っているんだ?!と思ったが、最近「出会い」についてよく考える。目に見える客観的な出会い、簡単に言えば新入生との出会いではなく、個対個の直接的な出会い。語り合う中でうっすらと見えてくる相手と自分の隣接点。何となく相手の本質に触れられた時の安らかな一瞬。そういう「出会い」を、やっぱり僕はこれからも重視していきたいと考える。